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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第三部02 仇敵
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故郷は遠きにありて (3)


昨夜の嵐が嘘のように、空は青く晴れ渡っていた。


三本あったマストの一本は豪快に切り倒され、メインマストには穏やかな風を受けるカラフルな帆――荘厳なエンジェリク軍艦が、ずいぶんと派手になった。

いつもは元気な水夫たちも、今朝はさすがに疲れ果てていた。どこかにもたれてかかって座り込んだり、甲板の片隅で眠りこけている者もいる。


「あっ、お嬢さん。昨夜はありがとうございました。お陰様で、無事に嵐を切り抜けることができました」


帆を縫い合わせる際、水夫たちのリーダー役をやっていた青年が、マリアに声をかけてきた。


「お役に立てたのなら私も嬉しいです。ところで、ブレイクリー提督はどちらに?私からも、提督にお礼を申し上げたいのですが」

「提督なら部屋に戻ってますよ。大仕事のあとですから、さすがにあの人も疲れたみたいで」


すでに休んでいるかもしれないとは思ったが、マリアは船長室を訪ねた。ノックをしてみると、入れと短い返事があった。


提督は服も着ず、ベッドに突っ伏している。

不機嫌丸出しな声だが……部屋を訪ねてきたのがマリアだと、気づいていないのではないだろうか。


「……二時間は声かけんな言うたのにやって来たってことは、よほどの一大事なんやろうな」

「一大事というほどではないのですが、一言お礼を申し上げたくて」


恐縮しながらマリアが言えば、提督がガバッと起き上がり、振り返ってマリアを見て仰天している。

……やっぱり気付いていなかったようだ。


「お休みのところ申し訳ありません」


苦笑しながらマリアが言った。


「いや、それは別に……。すまん!部下の誰かや思て、こんな格好で……」


嵐でずぶ濡れになったシャツを脱ぎ捨て、おおよそレディを前にするにしてはふさわしくない格好だ。

マリアとしては、引き締まった筋骨隆々な男性の肉体というものは美しいと思うのだが。


「どうぞお気遣いなく。昨夜のことでお疲れなのでしょう。いまの提督に気を遣わせてしまうのは、私も本意ではありません」

「そ、そうか。スマンが、わしも正直限界や。ありがたく、このまま話をさせてもらうわ」


ボスン、と提督は再びベッドに横になる。

目を擦る提督の右手には、布が巻き付けてあった。血が滲んで、白い布が赤くなっている。


「お怪我をなさったのですか?」


マリアはベッドのそばに屈み、布が巻かれた右手を覗き込んだ。


「ん?ああ、大したことやない。ワシの腕より、斧のほうがよっぽど重傷や。二本も潰してもうた」


拒絶される様子がないので、手を伸ばして布を取り、怪我の具合を確かめる。斧を振り続けたせいで、提督の掌には擦過傷ができていた。

怪我は慣れっこなのだろう。ベッドサイドのテーブルには、明らかに使い込まれた感じの傷薬と、大きさがバラバラの包帯がいくつも並んでいる。


マリアが右手に包帯を巻くのを横になったままの提督が見ていることに気付き、マリアは話しかけた。


「提督は、キシリアのご出身なのですね」


提督は、ほとんど無意識にキシリア語を話している。それも、かなり訛りが強い。


「せや。この口調を聞いたら分かるやろうが、アンタと違ってキシリアの田舎育ちやけどな。普段はエンジェリク語で喋るよう気ぃつけてるねんけど、気を抜くとすぐこれや。母親がキシリア人で、十三までキシリアで暮らしてたもんやから、いまだにエンジェリク語は苦手で……。スマン。大しておもろくもないことをベラベラと。ホンマは、同郷の人間に会えて、ワシもちいとばかし浮かれてたんや」


自嘲するような提督に、マリアはにこりと微笑む。


「もっとお話を聞かせてください。私も久しぶりのキシリア語なので、話を続けていたいです」


そうか、と提督も笑う。

彼の笑顔は初めて見た。ぎこちない笑顔だがあたたかみがあって、彼の優しい内面をよく表している。


「海に面した小さい漁村で生まれ育ったんやが、十三の時にでかい嵐が来て村はほぼ全滅。母親もそん時に……。失うものもなくなったワシは、どーせなら親父を一発ぶん殴ったれと思って、エンジェリクに渡ったんや。いま思うと、よう生き残れたわ、ホンマに。親父はエンジェリク海軍のお偉いさんってのが分かってたから、探すのは難しくなくてな。というか、ワシは親父ソックリなもんやから、向こうが気付いたわ。ほんで――めっちゃ歓迎された」


包帯を巻き終えた右手を握ってみたり開いてみたりして、提督は感覚を確かめていた。


「親父に泣きながら詫びられた。慣れへん外国よりもキシリアに残ったほうがええ。そう思って、ワシの母親と別れたそうや。ワシを妊娠してたことを知ってたら、エンジェリクでの生活なんか捨てて、自分が残ったってな。それ聞いて、ワシもみっともなく泣いてしもうたわ。ホンマはずっと、なんか理由があってワシらを置いていったんであって、親父に捨てられたわけやない、そう思いたかったんや」


マリアは提督が横になっているベッドに肘をつき、頭をもたれさせて話を聞いていた。

キシリア語も、提督の声も心地よくて、少し頭がぼんやりしている……。


「それで、お父様の跡をお継ぎになって海軍に?」

「そういうことやな。親父はワシに海軍魂叩き込んで、家督を継がせたら、さっさと引退しよった。そんでワシの母親のおるキシリアで暮らす言うて、旅に出てそれっきり。いまも、この航路のどっかで沈んどる」


提督は笑い飛ばしていたが、つまり提督の父親はキシリアに向かう船に乗ったまま、帰らぬ人になってしまったということか――愛する女性のもとに、たどり着くことのできないまま。


「しゃーないから、いつかワシがキシリアに戻って墓参りして、親父の気持ちを代わりに伝えてやろうと思てたんやが……。まさか、こんな里帰りになるなんてなぁ。処刑されると分かってる同郷人を送る羽目になるなんて、後味の悪い任務やで――て、ちょお待て。まさかアンタ、寝とんか?男の部屋で眠りこけるって……どんだけ根性据わりまっくっとんねん、ホンマ……」


呆れたように笑う提督の声が聞こえる。

眠ってません、と反論したかったが、瞼を開けることもできず、重い頭はマリアの言うことを聞かない。


そのまま、マリアは暗闇に落ちていった。けれど、その闇はとてもあたたかくて、居心地が良かった。




目が覚めたとき、マリアは見覚えのない部屋にいた。ベッドの上にもぞりと起き上がるマリアに、ナタリアが静かに近づく。


「お水でも、お持ちいたしましょうか」

「……ええ、水は欲しいわ。でもここって……まさか私、提督のベッドを占領していたの?」


室内を見回し、マリアは頭を抱えたくなった。

疲れ果て、休息を必要としている人の部屋に押し掛けた挙げ句、寝床まで奪ってしまうなんて……。


ナタリアがクスクスと笑った。


「他ならぬ提督が、そのまま休ませるようにと譲ってくださったのです。お部屋に連れて帰ろうとしたノア様を、わざわざお止めになって。怒ってはいらっしゃらないと思いますよ」


水の入った杯をマリアに渡し、ナタリアが言った。冷たい水が美味しくて、一気に飲み干してしまった。

そういえば、美味しいなんて感覚、いつぶりだろう。


「提督は?」

「水夫たちの仮眠室に移られて、そちらでお休みになったみたいです。いまはもう、甲板に出てお仕事に戻られています」


マリアは立ち上がり、甲板に出た。

もう日がかなり高くなっている。水夫たちは元気に甲板を行き来し、ブレイクリー提督はその中心となって指示を飛ばしていた。


「提督、申し訳ありませんでした」


また仕事の邪魔をしてしまうのは心苦しいが、謝罪しないわけにはいかない。マリアを見ても、提督は邪険にしなかった。


「人に話をねだっておいて眠りこけるとは、アンタも神経図太いなぁ」


豪快に笑われ、マリアは赤面する。さすがのマリアも、自分の行動を恥じ入っていた。


「……気にせんでええ。化粧かなんかで隠しとったみたいやけど、酷い隈やったで。スッキリ眠れたんなら、ワシのつまらん長話なんか、子守唄代わりでちょうどエエぐらいや」

「そうッスよ。お嬢さんの可愛い寝顔を拝めて、役得なぐらいッス。可愛かったなぁ、とか、思い出しては気持ち悪い顔して呟いてて……ぐはっ!」


水夫のからかいを、問答無用な拳骨で提督は黙らせる。提督が、わざとらしく咳払いした。


「このまま行けば、夕刻にはキシリアに着く」


マリアはぎゅっと手を握りしめた。ついに故郷が目の前に……。

いつか帰りたいと思っていたキシリア。なのに。


「……到着を遅らせるか?ちぃとぐらい、どっかで寄り道するとか。せめて夜明けは待っても構わんで」


提督の気遣いに、マリアは微笑んだ。

強がりではなく、彼の思いやりに胸があたたかくなって、自然と浮かんだ笑みだったと思う。


「ありがとうございます。でも、これ以上ご迷惑はかけられません」


迷惑なんかじゃないッスよ、と水夫の一人が口を挟み、周りの水夫たちもそうだそうだ、と同調する。提督はそれをいさめることなく、複雑な面持ちでマリアを見ていた。


マリアの前ではそんなそぶりを見せないが、昨夜の嵐で、船も船員たちも、どこか落ち着く場所で休む必要があるはずだ、本当は。


「それに、逃げるつもりはありませんでした。キシリアを出たあの日から」


クリスという別人になって生きるという道もあった。そうすれば、例えフェルナンドがキシリアの王となったとしても、マリアは何も困らなかっただろう。


セレーナという名を捨てられず、マリアとして生きることを決意した。いつかこんな日が来ることも、覚悟していたはずだ。

ついみっともなく動揺してしまったが、キシリアの大貴族として誇り高く生きること――それがマリアの選んだ道。例えその道の先に破滅が待ち構えていたとしても、引き返すつもりはない。


「ブレイクリー提督にお会いできて良かったです。遠い異国で出会えた同郷の人……。私、危うく、自分が何者でいたかったのかを忘れるところでした」


水夫たちは不思議そうな表情をしていたが、提督はそうか、と頷き、それきり何も言わなかった。


無謀な望みを胸にキシリアを旅立ったブレイクリー少年と同じように、マリアも無謀でしかない思いを抱いてエンジェリクに渡り、生き抜いてきた。


だからきっと。まだ生き残る道はある。

全てを諦めて終わりをただ待つことなど、マリアの矜持が許さなかった。


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