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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第三部02 仇敵
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故郷は遠きにありて (2)


「マリア様!早く降りてきてください、危ないです!」


真っ青な顔で叫ぶナタリアの声を聞き付け、船員と航路について話をしていたノアが飛んでくる。

マリアの姿を確認したノアは大きく溜め息をつき、張り巡らされたロープを伝って器用に見張り台に登ってきた。


見張り台から、マリアはそんな彼らを見下ろしていた。登ってきたノアはお説教モードのオーラを発しているが、気づかないふりをしてマリアはニコニコと笑う。


「素敵でしょ、ノア様。水平線が遠くまで一望できるのよ」

「……ご自分で登られたのですか」


マリアの格好を確認しながらノアが問う。

ドレスではなく男物の服を着ているのだから、マリアとしても自分で登ってみたかったのだが……。


「いいえ。彼に運んでもらったの」


マリアと一緒に見張り台に立つ水夫を指す。


「このロープで私の体を彼に縛り付けて……。すごいのよ。人を一人背負ってるのに、そんなこと感じさせないぐらい、するすると登っていって」

「濡れた帆を引くのに比べれば、お嬢さんなんか羽のように軽いッスよ」


マリアに誉められた水夫は、デレデレと顔を緩めて言った。

ノアはまた溜め息をつく。


「降りますよ。これ以上、ナタリアさんの心労を増やさないであげてください」

「とてもいい眺めなのに」

「お気持ちは分かりますが、落ちたら危険です」


自分の腰にロープを回し、ノアの背中にぴったりと張り付いてノアとマリアの体を縛る。ノアの首に腕を回して体重を彼にかけ、マリアはおぶさった。

ノアは少し固まった後、視線だけマリアのほうへ向ける。


「登る時も、彼にこうしたんですか」


マリアが頷くと、ノアが三度目の溜め息をつく。

言いたいことは分かる。身体がぴったりと密着するこの体勢。おぶさった時、他の水夫が羨ましそうに野次を飛ばし、背中に当たるマリアの胸の感触に、マリアを背負う水夫も鼻の下を伸ばしていた。


水夫に負けることなくノアも、マリアを背負ったまま平然とロープを降りていく。

降りた途端、待ち構えていた海軍提督に叱られてしまった。


「このド阿呆が!落ちたらどうするつもりだ!アンタはキシリアまで大切に送らなアカン、大事な荷物なんだぞ!」


マリアをこんこんと叱り飛ばす提督に、ナタリアもノアもフォローしない。それどころか、提督に同調するようにわずかに頷く素振りさえ見せている。


「お前らもじゃあ!仕事中に何を遊んどる!さっさと持ち場に戻らんか!」

「どうか船員の皆様はお叱りにならないであげてください。私を楽しませようと、気を遣ってくださっているのです」


提督の怒声にもマリアはニコニコと笑い、水夫たちを擁護する。調子に乗った水夫たちが「そうだ、そうだ」と便乗して野次を飛ばすのを、提督は睨んで黙らせた。


容赦なく自分を説教してくる海軍提督も、ちょっとお調子者な水夫たちも、マリアはとても気に入っていた。

死刑台に登る気持ちでこの船に乗り込んだマリアを、彼らの陽気さと豪胆さが救ってくれている。




王都を経つ直前、ウォルトン副団長やドレイク警視総監を始め、騎士や役人たちにマリアは見送られた。


特に役人たちは、涙ながらにマリアとの別れを惜しんでくれた――曰く、オルディス公がいなくなったら、何を楽しみに事務仕事をやったらいいんですか、と。

……書類を押し付けられるドレイク卿の苦労を思うと、マリアももらい泣きしてしまいそうだった。


「君をキシリアまで護送するのは、オーウェン・ブレイクリー提督。エンジェリク海軍最強の男だ。君の護送は国家の最重要事項だと僕が軍部にねじ込み、彼を指名した」


副団長が力強く言った。


「荒っぽい口調におっかない見た目だが、人情に厚い良い奴だ。いざとなったら彼を頼れ」


いざとなったら。

――もし、マリアが逃げ出したくなったら……。

きっとそんな時は来ない。副団長も分かっているだろうに。それでも、マリアに生きて欲しいと願ってくれる彼らの気持ちが嬉しくて、マリアはくすりと笑った。


「レオン様におっかないと言われてしまうと、ブレイクリー提督という御方が少々気の毒ですね」

「おいおい……ジェラルド、お前まで頷くんじゃない!」




海軍提督オーウェン・ブレイクリーは、ウォルトン副団長がおっかないと評するのも理解できる男だった。


ウォルトン副団長も顔立ちは厳つく、大柄で筋肉質な見た目であったが、ブレイクリー提督はその副団長よりもさらに一回り大きい。

オフェリアと一緒に見た動物図鑑に載っていた、獅子に似た風貌だ。


ちなみにオフェリア曰く、レオンという愛称を持つウォルトン副団長は獅子よりも虎に似ているそうだ。ドレイク卿は黒豹、ホールデン伯爵は一角獣――一角獣は空想上のモンスターだという指摘は無視された。


「いやあ、女公爵なんて、どんな鼻持ちならない女かと思ってたんスけど、気取ったところのない可愛い女の子で良かったですよねえ」

「提督も内心ではそう思ってるくせに!」


水夫たちがからかうと、提督が強烈な拳骨をお見舞いする。マリアはころころと笑った。


提督も水夫も、粗野に感じる見た目に反して紳士的な男たちだった。

最初こそ遠巻きに見られていたが、マリアが愛想よく振る舞えば、彼らもまた人懐っこく接してくれる。

ナタリアも、最初は彼らの気安さに眉を潜めることもあったが、水夫の明るさに釣られてマリアが笑っていることで、彼らの無礼は見過ごすことにしたようだ。


自分たちがなぜこの船に乗っているのか、マリアが忘れる時はない。




「暗くなったら、船室から出ない約束だ」


甲板で夕陽を眺めるマリアに、提督がすぐに注意しにやって来た。

大勢の人間が乗った広い船なのに、彼は常に、一人ひとりの行動を把握している。マリアの様子も、どんな時であっても見逃さない。


「約束は守ります。でも、まだ西の空は明るいですから。日が沈んでしまうまでは、どうか……」


船に乗ってから、マリアは毎日沈んでいく太陽を眺めている。いずれ登る太陽が見れなくなることに、思いを馳せながら。

夜が来るのが、いまのマリアには憂鬱でならなかった。いずれ明けない時がやってくることを、嫌でも思い出してしまうから。


「……ま、そうだな。日が沈んだら、ちゃんと部屋に戻るんだぞ」


ブレイクリー提督に小さく会釈し、マリアは水平線の彼方に消えていく夕陽を眺める。そんなマリアのそばを、ノアもナタリアも、ブレイクリー提督も離れなかった。


どうやらこの時のマリアは、かなり危うい雰囲気を纏っているらしい。マリアには、そんなつもりも自覚もないのだが。

太陽とともに消えてしまいそうで不安になります、とノアから言われてしまった。


逃げ出したりなどしないのに。マリアがいま逃げてしまえば、次はオフェリアが生け贄に差し出されることになってしまうのだから。


「マリア様。もう風も強くなって参りました。部屋に戻りましょう」


星もとっくに明るく輝き出している空を見て、ナタリアが言った。

ブレイクリー提督にお休みなさいと告げ、マリアは与えられた船室に戻る。


ブレイクリー提督は、自由に振る舞うマリアを叱りはしても行動を制限したりはしなかった――昼間の間は。

夜は絶対に船室を出ないこと。これだけは固く約束させられた。夜の海が危険なことはマリアも知っている。真っ暗な海は、落ちてしまっても気付かれない。

自分の意思を尊重してくれる提督のためにも、その約束だけはマリアも守っていた。




「せめて横になってください。少しでも、お休みにならないと」


船室に戻っても眠ろうとしないマリアに、ナタリアが懇願するように言った。


オフェリアと別れて以来、マリアはほとんど眠れていなかった。目を瞑ってしまうのが怖くて、眠る気分になれない。眠って、一日が終わってしまうのが恐ろしかった……。


寝衣に着替え、ベッドに腰掛けたままぼんやりと壁にもたれていたマリアは、ふわふわとした浮遊感がいつもより強くなっていることに気付いた。


「ナタリア、なんだか今夜はいつもより船が揺れて――」


突然部屋がひっくり返り、バランスを崩したナタリアがベッドに座るマリアに向かって倒れこんでくる。

ナタリアだけではない。テーブルや衣装箱なども、マリアの座っているベッドに押し寄せて来る。


いつもより船が揺れていると感じたのはマリアの思い違いではなかった。激しく揺れる船室を這い出て、部屋の出入り口で見張りをしているはずのノアを探した。


「マリア様、部屋を出ないでください!いまだけはワガママを許しません!」

「何があったの?」


扉から顔を覗かせたマリアを、ノアが押し返す。マリアはノアにすがりついた。抵抗というより、そうでもしないと立っていられなかったからだ。


外はもっとひどかった。痛いほどの激しい雨が、強風によって横殴りに打ちつけて来る。

大きく揺れる船の上で、水夫たちは忙しなく走り回っていた。いつも陽気な彼らも、いまはマリアの存在を気に留める余裕もないようだ。

彼らの中心で、海軍提督が指示を飛ばしている。風雨と荒れる波音で、何を叫んでいるのかは聞こえない。


「ノア様、お願い。提督と話をさせて――」

「彼の邪魔をしてはいけません。いまは大人しくしておくべきです」

「分かってる。でも、何が起きてるか分からないままなのは不安なの。提督と話ができたら、すぐに部屋に戻るわ。なるべく早く終わらせるから……!」

「……絶対ですよ。私にしっかりしがみついて、手を離さないでください」


ノアはマリアをしっかりと抱き寄せ、風雨から庇う。風雨の激しさは目も開けていられないほどで、マリアはほとんど何も見えない状態のまま、しがみついたノアに引っ張られるようにして歩いた。


「もうええ、マストを切り倒せ!そのほうが早い!斧を持ってこい!」


部下に指示を出す提督の言葉は、エンジェリク語ではなかった。しかしいまは、マリアもそれを気にしていられない。


「ブレイクリー提督!」


マリアの叫び声を耳ざとく聞きつけ、怒りに満ちた表情で睨む。当然の態度なのだが、マリアも引けなかった。


「暗くなったら部屋を出るなと言うたやろうが!アンタも自分の主人止めんかい!いまは相手しとる暇はないで!」

「私が頼み込んだのです。お願いします、何が起きているのかだけ教えてください。とても不安で、じっとしていられないんです」


一瞬提督が黙り込んだ。無理やり追い払うより、説明してさっさと終わらせたほうが早いか、と考えていたに違いない。

大きく溜息をつき、少し落ち着いた様子で話し始める。


「見ての通りの大嵐や。三本のマストの内一本がこの強風で折れて、メインマストの帆をぶち破ってしまっとる」


提督の視線の先をマリアも追う。

説明の通りに一本のマストが中途半端に折れて、真ん中に立つ一番大きなマストにその先端を突っ込んでいた。メインマストの帆もいくつか破れてしまっている。


「このままやとメインマストも倒れて、後ろの一本もアカンようなる。とにかく、すでに折れてるやつは切り倒してメインマストを守る。最悪でも無傷の一本は死守せんと。この嵐を乗り切っても、今度は海の上で立ち往生や」


水夫の一人が斧を提督に渡す。提督は雨で濡れた服を脱いだ。


「説明はこれで十分やろ。さっさと戻れ!どうせここにおったって何もできひんのや。なら船室に戻って、破れた帆の修理でもしとけ!」

「破れた帆の修理……」


メインマストの帆は、いくつも破れてしまっている。折れたマストが突っ込み、破れた部分が強風によって広がっていく。修理は不可能だ。代わりになる布を張るしかない。


「分かりました。提督。破れた帆の替わりを提供します。大きさが足りないかもしれないので、手先の器用な人を私の部屋に寄こしてください!ノア様、部屋に戻って!」


提督が目を丸くしているのも構わず、ノアにしがみついたままマリアは部屋に戻った。

ずぶ濡れになった寝衣を引きずり、着替えさせようとするナタリアを無視してマリアは衣装箱に飛び付く。


キシリアは冬。ホールデン伯爵はマリアのため、冬用の丈夫なドレスをいくつも贈ってくれている。この航海を終える間だけなら、このドレスでも帆の替わりを務められるのではないだろうか。


「帆の代わりの布を持ってるって、聞いたんスけど!?」


ずぶ濡れの水夫たちが部屋に詰め寄せて来る。服を脱いでいる者もいた。

ナタリアは驚いていたが、マリアは驚かなかった。

この雨の中を走り回るのなら、服など邪魔だ。肌に貼りつく寝衣にうんざりしながら、マリアはドレスを引っ張りだした。


「このドレスのスカートを切って、帆の代わりにできませんか?」


水夫たちはマリアのドレスを見る。リーダー格と思われる水夫の一人に注目が集まり、彼は大きく頷いた。


「手分けして繋ぎ合わせろ。できたやつからメインマストに張っていけ。急げ!」


その合図と共に、全員がマリアのドレスのスカートを切り裂き、器用に縫い合わせていく。

縫い合わせはマリアとナタリアも手伝った。ノアは水夫たちとともに、できたものからメインマストに張りにいく。


最後の一枚を持って男たちが全員出て行くと、残されたマリアは深く息を吐いた。


「……着替えが無くなってしまいましたね」


空っぽになった衣装箱と、無残に切り取られたドレスの残骸を見つめ、ナタリアが苦笑する。マリアも、思わず苦笑いしてしまった。

久しぶりに、作為的ではない笑みが浮かんだような気がした。


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