未熟 (1)
ガーランド商会での生活は忙しく、過ごしやすかった。
マリアは、働き始めて三日目には商談の場に引っ張り出されるようになった。
それも、最初は書記としてやりとりを黙って聞いているだけだったものが、翻訳として自分も口出しするようになるまでにそう日はかからなかった。
あっという間に仕事が増え責任も増すようになったが、それだけマリアが信頼されるようになったという証でもある。
マリアは手を抜かず、期待に応えて仕事をこなした。自分たちの身の安全のためでもあったし、自分の能力が評価されることが純粋に嬉しかったというのもあった。
リップサービスだったのかもしれないけれど、マリアのことも商会の一員として大切に思ってくれると言ってくれた伯爵のために頑張りたい。そんな想いもある。
ガーランド商会で過ごす日々は居心地が良くて、自然と商会への貢献や恩返しの気持ちを抱くようになっていた。
妹オフェリアも、商会での生活は楽しんでいるようだ。
料理も裁縫も、オフェリアには才能があった。身内の贔屓目抜きに判断しても、誰もが認めるほどの腕がある。自分でも得意分野だと理解し、生き生きと仕事をしている。素直で優秀なオフェリアは周りから可愛がられ、褒められてオフェリア自身もやる気が出る。良い循環となっていた。
忙しくも充実した生活のおかげで、辛いことや苦しい自分たちの状況を忘れられることも有難かった。
一方で、ガーランド商会の動きは緩やかだった。
帰国に向けて港町へ移動をしてはいるのだが、商談も疎かにはしたくない――というのが、伯爵の意向だとか。半月が過ぎようとしていたが、さほど国の中心からは離れていなかった。
商会には流れ者も多く、出自や過去の詮索はしないというのが暗黙のルール。おかげでマリアたちもあれこれ探られることはなかったのだが、逆を言えばこちらから相手に根掘り葉掘り聞き出すこともできない。
まだまだ新参者のマリアでは、ガーランド商会がどのような予定を立てているの、知ることはできなかった。
初日に商会のトップであるホールデン伯爵と話ができたのは、本当に運が良かった……。
「デイビッド、いまから商談だ。書記として同行してくれ」
伯爵とまた話す機会はないものかと考えていたマリアは、件の男の登場に目を丸くした。
「リースさんなら、すでに出かけました。商談が三件も立て込んでいるから、夕方まで帰ってこれないと言ってました」
馬車にはマリア以外、誰もいない。というか、たまたまマリアがこの時間に戻って来ただけで、普段は誰もいないことのほうが多かった。それぐらい、仕事が舞い込んできて忙しかった。
「チャコ語ができるのは彼だけなのだが……弱ったな」
「あの、チャコ語の読み書きなら僕も実力はあるつもりですが。難しいですか?」
「君が相当の実力を持っていることは知っている。ただ、君を連れていくのは問題があるのだ。その問題をクリアした上でなおかつチャコ語ができる者は、デイビッドだけだ」
伯爵は溜息をつき、じっとマリアを見た。
上から下まで品定めされるように見つめられ、マリアは姿勢を正した。
幼い見た目のマリアは、何かと侮られやすい。商談に引っ張り出されると、時々相手から明らかな侮りの視線を向けられることがあった。今回も、そういった類の人間なのだろうか。
「……仕方がない。奴が相手では、書記をしながらという器用な真似はできんな。君についてきてもらおう。クリス、私やノアから、絶対に離れないように」
そう言った伯爵の声は、いつになく厳しかった。
「相手はムスタファというチャコの富豪で、美しい少年を好む。ちょうど君ぐらいの年頃の男子を囲ってハレムを作るほど筋金入りの男だ」
長身で体躯の良いホールデン伯爵に比べると、ムスタファという男は小柄で痩せ細っていた。愛想のよい笑顔が少々胡散臭いことを除けば、伯爵が警戒するほどの男には見えない。
それでも、不本意にも関わらずマリアを書記に連れて来るほどなのだから伯爵が恐れる何かを持っているのだろう。ムスタファと目が合った瞬間、マリアは二重の意味で隙を見せぬよう彼を見据えた。
「ほう、ほう。これは……。初めて見る顔ですな。君なりに、私に気を遣ってくれたのかなヴィクトール」
「そんなつもりは毛頭ない。私のお気に入りだ。むしろ貴殿の前になど連れてきたくはなかった」
目を輝かせて顔を近づけてくるムスタファから守るように、伯爵はマリアの肩に手を置き、少し後ろに下がらせる。
肩に置かれた手から伯爵のぬくもりが伝わってきて、密かにホッと息をつく自分がいることをマリアは感じていた。伯爵の庇護は、とても心強い。
「君のお気に入り!なんと魅惑的なセリフでしょうねぇ」
「話が聞きたければいくらでも話してやる。さっさと中に案内しろ」
伯爵が警戒する理由は、商談が始まってすぐに分かった。
書記の仕事とは、重要な会話や口頭で成される契約などを書面に記すことだ。相手が外国人だと、言語が突然変わることもある。聞き洩らしのないよう絶えず集中を強いられるのだが……。
「商談が始まって一時間……紙が真っ白なままです……」
いまだに自分がろくな仕事をしていないことに、マリアは愕然とした。
「だろうな。何の話もできていないのだから、書くことはないはずだ」
ホールデン伯爵は、いかにも慣れた様子で相槌を打った。
伯爵が商談や提案を持ちかけても、のらりくらりとかわしてまともに話をさせない。ささいなきっかけをつかんでは話題を商談へとすり替えてしまう伯爵の話術は見事だ。
しかしそれ以上に、ムスタファという男の脱線ぶりはすごい。最初は天然かと思ったが、ここまで執着する伯爵をかわしきるのだから、明らかに確信犯だろう。
「金払いは良いのだが、やたらと話を先延ばしにしたがる。初めて奴に会った時、遣いにやった者は一ヶ月経っても商談をまとめることができなかった。以来、私が直接赴くようにしているのだが、それでもたいていの場合三日はかかる」
「伯爵が書記までやっていられないとおっしゃった意味が、よく分かりました」
マリアが心の底から同意すると、伯爵が笑った。
「今回は三日も相手をしている余裕はない。何か、決め手になることがあればいいのだがな」
「そもそも相手をしないという選択をすればいいのです。金払いが良いと言っても、彼にかける時間と手間を考えれば、黒字というほどのものでもないでしょう」
沈黙し、護衛に専念していた従者のノアが、初めて口を開いた。
「伯爵も意地になり過ぎです。あの男に苛立って、何としても物を売りつけてやろうと固く決意していることが、最大の過ちかと」
「実際に腹が立つだろう。奴の涼しい顔を崩すまでは引くつもりはない」
「それがいらない決意なのです」
見せたい物がある、と言って奥に引っ込んだムスタファが戻って来た。
箱のような物を持った少年を連れている。少年は、オフェリアぐらいの年ではないだろうか。不快感で顔が引きつりそうになるのを、マリアは何とか押し殺した。
「これが何か、ご存知ですかな?」
「香炉……か?私の知っている形ではないが」
「東方で使われているものですね。父が人伝手にもらった物を見たことがあります」
マリアが説明すると、伯爵がマリアを見た。続けるよう目で促され、マリアは話し続ける。
「東方では、香炉を焚いて、衣服や寝所などの布に香りをまとわせているそうです。妹が香水の匂いを苦手にしているので父も気に入ったのですが、取り寄せようと思ったら稀少な上に驚くほど高価で……。このあたりではあまり出回っていないものですよね?」
「香水ほど体臭隠しには向きませんからねぇ。そのせいで需要がなくて、市場に出回らないのですよ。おかげで屋敷がひとつ買えそうな値段です。東のほうでは、日常で使うものだというのに」
話しながら、香炉を箱から取り出したムスタファがマリアに差し出してくる。
マリアが受け取れということだろうか。伯爵も止める様子はない。マリアは手を伸ばし、ムスタファから香炉を受け取った。
手渡された時、わざとらしいぐらいムスタファが手を重ねてきたのにはゾッとした。思わず顔に出てしまったが、ムスタファはそれすら楽しんでいるようだった。
「火をつけると、とても良い香りがするのですよ。じわじわと香りが部屋に浸透していく感じがお気に入りなんです」
そこからさらに一時間ほど、ムスタファの香談義が始まった。
次から次へと様々な香炉が運び込まれ、こっちの香は寝台に焚きつけているとか、こっちの香はお気に入りの子にまとわせているとか。その話題の中で、マリアにも話が振られることがしばしばあった。
「君はとても良い香りがしますねぇ。香水ではないようですけど、お父様とやらのご趣味が良かったのでしょうか」
「いえ、最近は風呂にも入れていないので臭いはずです。良い匂いがするとしたら、この服のおかげかもしれません。ノア様のお下がりです」
マリアは顔を近づけてくるムスタファをさりげなく避け、自分が着ている上着に触れた。
商談に顔を出すようになったのだが、着の身着のまま逃げ出してきたマリアにはそういった場にふさわしい服がない。
それをリースに相談したところ、ノアが着ていた服をもらうことになった。サイズをナタリアに手直ししてもらい、それを着ている。それでもまだ大きいが、見苦しくない程度にはなっているはずだ。
「ノア君も、あと五つぐらい若ければ……。実に惜しいよ。美しい時代というものはあっという間に過ぎ去る。だからこそ、美しさというものは眩しいのかもしれませんね」
ちらりとノアを見れば、普段通りポーカーフェイスではあったが、その背後に迷惑極まりないというオーラを醸し出していた。
「しかし、風呂ですか。そう言えば、ガーランド商会は港のある町へ移動を続けている最中でしたね。フェルナンドが帰国したとあっては無理もありませんが。奴は異教徒も嫌っていますから、私も正直言って好ましく思ってはいません。ふむ……」
ムスタファの雑談に、マリアは初めて興味をそそられた。
フェルナンドの名前を、こんなところでまた聞くことになるとは――しかし、ムスタファは早々に話題を打ち切ってしまった。
「ヴィクトール、せっかくだから我が屋敷の風呂に入って行くといい。君たちも一緒に。チャコの本格的な風呂を教えてあげますよ」
「興味深い提案だが、入るのは私一人だけだ」
どう断ろうかとマリアが悩むより先に、伯爵が答えた。
ムスタファがあからさまに残念そうな顔をしたので、彼も一緒に入るつもりだと知って納得した。ムスタファと一緒では、断るしかない。
伯爵はムスタファと共に奥へと姿を消し、それを見送ったマリアは複雑な心境だった。
作中に出て来る国モデル
チャコ:オスマン帝国 (トルコ)




