故郷は遠きにありて (1)
「私の誕生日パーティー?それでオフェリアは、最近私に隠れてこそこそ何かをしていたのね」
ナタリアから妹の企みを聞かされたマリアは、くすりと笑った。ナタリアも、主人に同調するように笑う。
「今年はオフェリア様が主催となって、華やかにお祝いしたいそうです。ホールデン伯爵と熱心に相談されておりました。おじ上様にも手紙を送ってやり取りなさって……ドレイク警視総監やウォルトン副団長にもお声をかけていらっしゃいましたよ」
「……そう。キシリアを出て、もうすぐ一年が経つのね」
マリアが言えば、ナタリアも黙りこむ。
故郷キシリア。
一年前の今頃、マリアは愛する父に別れを告げ、妹とナタリアを連れて逃亡の旅に出た。運良くガーランド商会に助けてもらい、途中敵に見つかりながらも、なんとか無事にエンジェリクに着いて……。
あれから、色々あった。
「ロランド様は、どうされているかしら。シルビオも……」
キシリアの王ロランド。そしてシルビオ。二人の男に、マリアは思いを馳せる。
シルビオは、本来なら王とマリアの敵、フェルナンド側の人間だった。フェルナンドの実子――しかし、父子の確執やマリアの父親との出会いが、彼にロランド王への忠誠を誓わせることになった。
エンジェリクでの短い邂逅の後、彼らはキシリアへ帰って行き、王位を巡る争いに身を投じている。
この争いの結末は、マリアたちの生死にも大きく関わって来る。もし万が一、ロランド王が敗北するようなことがあれば……。
「あら。マリア様、馬車ですよ。御者席にノア様が……」
窓の下に映る馬車の陰を見つけ、ナタリアが言った。
マリアも窓を覗きこんでみれば、たしかに御者席にノアが座った馬車がある。ということは、あれはホールデン伯爵の馬車。
マリアは、急いで伯爵を出迎えに行った。
「ヴィクトール様。地方へ出向くので、お帰りは来週だったのでは?」
「マリア、すぐに荷物をまとめろ」
険しい顔で、伯爵が短く指示を出す。普段の親しみやすい雰囲気は、いまの伯爵にはかけらもなかった。
「領主殿に手紙を出して、最悪の場合、彼を公爵家当主に戻すのだ。そして君は、オフェリアとともに、オルディス領にて彼にかくまってもらえ」
「どういうことですか。何が――」
「ドラードの町に、フェルナンドが入った」
ナタリアが息を呑んだ。マリアも、血の気が引く音が聞こえたような気がした。指先が冷たくなり、言葉を失ってしまう。
ドラード――キシリアの王都。そこにフェルナンドが入った。つまり、それは……。
「キシリアの王冠はフェルナンドの手に渡った。次に何が起こるか、君も分かっているだろう」
「……はい。すぐにオフェリアを起こして参ります。あの子には、何も知らせたくありません……」
「それは私も同感だ。知らせる必要はないだろう。いまはまだ」
伯爵の言葉の意味を、マリアは嫌というほど理解していた。
いまはまだ、知る必要がない。どうせいつか、知りたくなくても分かってしまうことだ。
キシリアの王となったフェルナンドが次に行うことはひとつ――反逆者の始末。
あの男は必ず、エンジェリク王にクリスティアンの遺児たちの引き渡しを要求してくる。先代王と共にフェルナンドと戦い続けた宰相クリスティアン・デ・セレーナ。その一族の生き残りを、あの男が見逃すはずがない。
マリアは、キシリアへ連れ戻されることになる――フェルナンドの手によって、処刑されるために。
夜も明けきらぬ早朝。マリアが予想していた通りのことが起こった。
城より召喚があり、近衛騎士たちがわざわざマリアを迎えに来た。その人数は小隊と言っても過言ではないだろう。
隊長のガードナー伯は、神妙な面持ちで口を開く。
「オルディス公爵、なるべく穏便に済ませたい。今日は王より話があるだけだ」
いまここでは逃亡せず、素直に従ってほしい――そういうことだろう。
マリアは抵抗することなく近衛隊長についていった。ホールデン伯爵やノアは厳しい顔をしていたが、彼らを安心させるようにマリアは微笑む。
――もとより、逃げるつもりなど最初からない。
「キシリアの王フェルナンドより、そなたたちの身柄引き渡し要求があった」
謁見の間で、エンジェリクの王が告げた。
謁見の間には、宰相フォレスターを始め大臣たちが勢ぞろいしている。
マリアのことは単なる個人的な問題には留まらない。キシリアとエンジェリク。二国の関係を大きく変化させてしまうかもしれないのだ。
「余としては、友好国の王の要求に応えるべきだと考える。しかしキシリアへ引き渡せば、そなたにどのような処遇が下されるかは目に見えておる。そなたはエンジェリク王家の血を引く公爵でもある。余の考えに意見することを許そう」
「陛下の寛大なお心遣いに感謝いたします。どうか私の身は、キシリア王へお引き渡しください。私のために、エンジェリクとキシリア、双方の関係を悪化させるわけにはまいりません」
ためらうことのないマリアの返答に、国王を始め大臣たちが動揺した。マリアに対する同情なのか安堵なのかは分からない。
だがキシリアへ帰るしか、もう道がないことはマリアには分かっていた。セレーナ一族最後の一人を生き残らせるためにも、マリアに逃げることは許されない。
「しかし妹オフェリアは、どうかエンジェリクに留まらせてください。妹はまだ十一。反逆者の一族として処刑されるには、あまりにも幼過ぎます」
「陛下、私はオルディス公の意見を支持いたします」
宰相が言った。
「二国間の友好のためにも、オルディス公の引き渡し要求には応じるほかありません。しかし幼い妹まで引き渡すのは、人道に反する行い。何より、フェルナンド王は、一時はフランシーヌと手を組んでいた御方です。彼を全面に信頼するのは危険でしょう。エンジェリクの面子を保つためにも、オフェリア・デ・セレーナ嬢の引き渡しは拒否すべきです。それを口実にフェルナンド王が我が国に攻め入るというのであれば、彼の卑劣さを諸外国に訴え、こちらも迎え撃つべきかと存じます。正義は我がエンジェリクにあると、他国もそう判断することでしょう」
宰相の意見はマリアにとってこれ以上ないほど有難い支援だった。エンジェリク王も一同に並ぶ大臣たちも頷いている。
幼い少女を生贄に差し出す国などという汚名を被ることは彼らにとっても御免だろうし、いまのキシリア王が、かつてはエンジェリクと対立しているフランシーヌと手を組んでいたという事実はマリアにとって有利な材料だ。
例えマリアの身に何かあったとしても、オフェリアさえ生き残ってくれれば……。
オフェリアを守るためにも、マリアは逃げない。それは、最初から決めてあったことだった。
謁見が終わったマリアは、一旦屋敷へ帰ることが許された。
帰っていくマリアの付き添いには、侍女のナタリアしかいない。本来なら異例なことだ。城に軟禁され、厳しい見張りのもとキシリアへ送り返されるものなのに。
たぶん、宰相や近衛隊長が口添えしてくれたのだと思う。
特に屋敷を訪ねた近衛隊長は、荷物をまとめてオルディス領に姿を隠すつもりでいることに気づいているはず。それにも関わらずマリアを屋敷へ帰す――彼なりの、マリアへの配慮なのだろう。
廊下を歩いていたマリアは、物陰からちらちらと見える白金の光に気付いた。
まさか。彼がこんなところに来ているなんて。
「ヒューバート殿下」
人目の少ない廊下で、それでも姿を隠すように柱の物陰からヒューバート王子がこちらをうかがっている。
辺りに人がいないことを確認して、恐るおそる王子は姿をあらわした。
「すまない。僕と会っているところを、君のためにも人には見られないほうがいいと分かってはいたんだが、どうしても直接会って話がしたくて」
離宮でひっそりと、その存在感を消して生きていた王子にとっては、とんでもなく危険なことだ。
それほどの危険冒してマリアに会いに来てくれた。きっと、キシリアへ帰ることを聞いて。
「ありがとうございます。私を、気遣ってくださったのですね」
「君たちがキシリアに帰ると……。あの国がいまどうなっているか、僕も知らないわけじゃないから」
「オフェリアは、エンジェリクに残らせます」
マリアがきっぱりと言った。
「オルディス領に向かわせ、そこでおじに匿っていただきます。万一の時は、オフェリア・デ・セレーナは死んだことにして、あの子には別の人間として生きてもらうことになるでしょう」
領主としては有能なおじの庇護下にあれば、それも可能だ。本当にどうしようもなくなれば、オルディス領からさらに外国へと逃亡することもできる。
万が一――エンジェリク王が、オフェリアもキシリアへ差し出そうとすることがあれば。
その心変わりがないとは言い切れない。王都ウィンダムにいては危険だ。だから伯爵は、マリアたちをすぐにオルディス領へ行かせたがったのだ。
「オフェリアは、キシリアで起きたことを知りません。いまはまだ。殿下、よろしければこれからも、妹の良い友達でいてあげてくださいませ」
マリアが微笑んで言えば、王子は苦しそうに顔を歪める。それを見て、マリアはさらに笑った。
一国の王子を悩ませるほどの人間になれたとは、自分も頑張ったものだ。一年前エンジェリクへ渡った時、エンジェリクの城に、当たり前のように出入りできるようになっているとは思いもしなかった。
「……まだ、飲んでみてほしい花茶がたくさんあるんだ。新しいものも作った……。だから、また遊びに来てほしい。オフェリアと一緒に」
ぎこちなく笑い、王子が手を差し出す。差し出された手を握り、マリアはヒューバート王子に別れを告げた。
屋敷ではすでに荷物がまとめられ、オフェリアはオルディス領へ帰る支度を済ませていた。
急にオルディス領に帰ること、マリアがついてこないこと。
分からないことだらけで、オフェリアは不思議がっている。
「お姉様。お姉様はいつ来るの?どうして一緒に来てくれないの?」
「まだ王都でのお仕事が残っているのよ。予定がはっきりしたら知らせるわ。なるべく早く、私も合流できるようにするから」
マリアの手を握って離そうとしないオフェリアの耳元で、ベルダが小声で話しかける――明るく振る舞い、いつもと変わらぬ様子で。
「オルディス領へ行って、マリア様が来るまでに誕生日パーティーの用意をしときましょう。いまがチャンスですよ」
ベルダには、すべて話してある。オフェリアに何も知られないようオルディス領へ行かせるためには、彼女の協力は必要不可欠だった。
ベルダに説得され、オフェリアはようやく納得したように姉を抱きしめる。
「お姉様、早く来てね。私、良い子で待ってるから」
「……ええ」
オフェリアを抱きしめ返しながら、マリアはなんとか返事をした。声が震えそうになるのを、必死で堪える。
エンジェリクで妹との別れを考えた時――あの時は、妹に泣きながらすがりつかれた。
突き放すことができなくて、マリアはオフェリアを手元においた。今回ばかりは、何があってもこの子を手放さないといけない。
「オフェリア、そろそろ出発だ。暗くなる前に宿に入らなくてはいけないからな。もう行かねば」
伯爵が、オフェリアをマリアからさりげなく引き離す。マリアから妹と放れることはできないと、彼はきっと見破っていたのだろう。
事実、マリアは伯爵が引き離してくれるまで、オフェリアを抱きしめる手を引っ込めることもできなかった。
オフェリアが伯爵の用意した馬車に乗り込むと、ベルダが泣き出しそうになるのを堪えてマリアに振り返る。
「マリア様、ナタリア様。私、待ってますからね。オフェリア様と一緒に。お二人が迎えに来てくれるの、ずっと」
ナタリアは、マリアと一緒にキシリアへ行く。
彼女もエンジェリクに残していくことは考えた。けれど――自分の全てを見届ける人間が、一人ぐらいはいてもいいと思う。その役目を誰かに頼むのなら、ナタリア以外考えられない。
ナタリアが、ベルダを抱きしめた。
「オフェリア様をお願いね」
乱暴に目元をこすり、明るい笑顔に戻ってベルダも馬車に乗り込む。
デイビッド・リースも号泣し、マリアを抱きしめた。
彼の泣きっぷりに、マリアもナタリアも、マリアに別れを告げるタイミングを逃したメレディスも苦笑していた。
「君がキシリアに着くまでに、ロランド王がきっとフェルナンドを倒してくださる。無事に帰ってくると、信じているよ」
メレディスの言葉にマリアは頷く。頬にキスするメレディスにマリアも頬へキスを返した。
メレディスの言う通り、ロランド王はまだ生きている。彼が生きている限り、マリアに希望はある。王の勝利を、メレディスと同じくマリアも信じていた。
ホールデン伯爵はマリアを抱きしめ、自分の従者であるノアを見る。
「ノア。お前を、私の従者から外す。マリアと共にキシリアに渡り、最後まで彼女に付き従え。そして私に全てを報告しろ」
主人の命令に、ノアは静かに頭を下げた。
親しい人たちは次々と商会の馬車に乗り込み、オフェリアを守るためオルディス領に向けて出発する。
伯爵と供に最前の馬車に乗ったオフェリアは、無邪気に窓からマリアに向かって手を振っていた。
マリアも精一杯の笑顔で手を振り、妹を見送った。




