-番外編- マクファーレン
弟の泣き声が聞こえる。
アルフレッドはノックをして、弟の部屋を覗く。メレディスは部屋の片隅で膝を抱え、泣きじゃくっていた。
「また父上から罰を受けていたのか。ほら、見せてみろ。薬を塗ってやるから」
差し出された小さな手の甲は、赤いミミズ腫れで痛々しい有様となっていた。
兄に薬を塗ってもらいながら、メレディスがときおりしゃくりあげる。本当に痛いのは鞭で打たれた手ではなく、絵とともにズタズタに破り捨てられた心のほうだろう。
メレディスの傍らには、父親によってみるも無残に破られた絵が散乱している。バラバラになった紙片に書かれた文字は――おとうさん。
あんな男でもメレディスの父親。
しかし精一杯の真心は、あの男に届くことはない。表情豊かな弟は、成長するたびにその感情を表に出さなくなっていく。
こんな屋敷から弟を助け出してやりたくて。弟たちを守ってあげたくて。早く大人になりたいと、いつもアルフレッドはそう思っていた。
ジョージ・マクファーレンの葬儀には、たくさんの弔辞客が訪れた。しかし故人を心から偲んでいる人間が、いったい何人いるだろう。
「宰相閣下、警視総監殿。わざわざ足をお運びいただき、ありがとうございます」
新たなマクファーレン伯爵家の当主が丁寧に声をかければ、遠巻きに見ていた客がヒソヒソと囁き始める。
それもそのはずだ。先代のマクファーレン家当主と険悪な仲にあった相手。新たな当主がどのような態度に出るのか、関心の的であった。
「いけ好かん男であった。いつか叩き潰してやると思っておったが、いざ二度と会えぬとなると寂しいものだ。ひとつの時代が終わった、何とも言えぬ寂寥感があるな」
本気とも世辞とも分かりづらい宰相の言葉に、アルフレッドはかすかに笑う。
「存外父も、勝敗より閣下との対決が終わってしまったことのほうを、残念に思っているかもしれません」
新たな当主となったアルフレッドは忙しかった。
いずれ当主の座を継ぐものだと思ってはいたが、突然の交代である。父の葬儀が終わるまでは息をする暇もない――賢妻のおかげで、ずいぶんと負担は減っているのだが。
「アルフレッド様、メレディスが……」
メレディスの来訪を、妻のジーナが知らせに来る。
弔辞客を迎えるために、アルフレッドもジーナも動けない。召使いの誰かに義母を呼ばせに行こうかと考えていると、葬儀には相応しくない派手な装いをした女性がやって来る。
「お客様の相手は私が引き受けてあげるから、さっさとメレディスを迎えに行きなさい。ジーナ、式が始まるまではあなたも休んでなさいよ。どうせ誰も、真面目にあの人を弔ってあげるつもりなんかないのだから」
実母の言い草に苦笑しながらも、アルフレッドは甘えることにした。
「ジーナ、母の言葉に甘えよう。貴女も休んでくれ」
妻のジーナも、今日は朝から働きづめで休憩もろくに取れていない。本来は父の妻であった義母が女当主として執り仕切るべきところを、彼女は嫌な顔ひとつせず代わりを務めてくれている。
大丈夫です、とジーナは気丈な返事をするが、実母がごり押しで休ませた。押しの強さは見習うべき点があるな、とアルフレッドは思った。
「義母上、メレディスが来ましたよ」
式が始まるまで自室で一人静かに祈る義母を呼びに行く。
この広い屋敷には弔辞客も含め大勢の人間がいたが、父の死を心から悼んでくれているのは彼女だけではないだろうか。
自分の人生を支配し、めちゃくちゃにした男だというのに。それでも悲しむ彼女を、アルフレッドは嗤う気持ちにはなれなかった。
「メレディスが……」
愛する息子の名を聞き、何年かぶりの笑顔を浮かべて義母はアルフレッドに振り返る。
黒い喪服に身を包んだ義母はやつれていたが、それは彼女の儚い美しさをいっそう際立てていた。ジョージ・マクファーレンを一目で強烈に惹きつけた少女は、長い年月を経たいまも、その美貌に陰りはなかった。
オルディス公爵の供として、メレディスは葬儀に来ていた。
オルディス公を探す必要もない。黒いシンプルな喪服に身を包んだ彼女は、それほど背が高いわけでもないのに、弔辞客の中に埋もれてしまうことのない貫禄があった。
絶世の美女というほどの美貌ではないが、人の視線を吸い寄せて離さない何かを彼女は持っている。
「母さん、兄さん」
母と兄の姿を見つけ、メレディスも笑う。葬儀の場ということもあって控え目にしてはいるが、メレディスの明るい笑顔にアルフレッドも釣られて笑顔になった。
義母はメレディスを抱きしめた。
「メレディス……少し見ない間に、すっかり男らしい顔つきになって。あなたの描いた絵を、私も見たわ。自分の道をしっかり見つけたのね。あなたのことを誇りに思うわ、本当に……」
義母と弟の会話に、アルフレッドは口を挟まなかった。オルディス公爵も静かに見守っている。アルフレッドと目が合うと、小さく会釈をした。
「母さん。彼女はマリア・オルディス公爵。僕の大切な人で――僕が絵描きを続けられるのは、彼女のおかげなんだよ」
「初めまして、マリアさん。息子がお世話になっています。あなたが描かれた人魚姫も拝見しました。メレディスは、貴女のような理解ある人に出会えて幸せ者ですわ……」
オルディス公爵は、真意の掴みにくい女性だ。アルフレッドとジョージ・マクファーレンの確執に気付いているはずなのに、尋ねてこようとはしない。
あの夜、彼女が何をしようとしているのかアルフレッドもすぐに察した。
オルディス公爵は、メレディスのために自分の身を犠牲にすることも、その手を汚すことも、微塵もためらっていない。
アルフレッドはずっと、弟を守りたいと思っていた。
牢獄のようなマクファーレン家から解放してやりたかった。弟も、義母も――自分も。だから他の人には譲れない。父との決着だけは、どうしても自分の手で……。
「アルフレッド。あの人の喪が明けたら、私は尼僧になろうと思っているの」
式が終わり、マクファーレン家のこれからを相談する場で義母が言った。
彼女が自分から意見を口にするのは珍しくて、アルフレッドは目を見開いた。
「あら、だめよ。ようやくあいつから解放されたのよ。人生これからじゃない。私と一緒に旅行でもして、気分を一新しましょう」
実母があっけらかんと言った。
平民出身の義母は、家のことに口出しすることができない。彼女自身の控えめな性格もあるだろうが、貴族社会というものが分からない義母は、昔からこういった場で発言が許されなかった。
父は、彼女が意見を持つことすら許さなかった。実母は生家がマクファーレン家とも並ぶ名家ということもあって、横暴な父にも怯むことはなかったが。
「客どものあの掌の返しよう。あいつが生きていた頃は、放蕩で不出来な女だと散々罵倒したくせに。死んだ途端、あんな横暴な男に嫁がされ大変でしたね、ですって。これだから貴族は嫌なのよ。面倒くさいんだから」
平民に夫を取られて離婚した実母も、正妻を追い出して新たな妻となった義母も、評判は非常に悪かった。
そこにどんな事実があろうと、ただ他人のゴシップを喋りたいだけの連中にはどうでもいいことだ。
軽口を叩くように実母は話しているが、彼女の苦労を思えば、それぐらいの愚痴は許容されるべきものだ。
「アルフレッド様、お義母様は、本当に尼僧になるおつもりなのでしょうか」
話し合いを終えアルフレッドと二人きりになると、妻のジーナがおずおずと尋ねてきた。
「きっとそうだろう。私の母と一緒に旅に出て、どこか良い尼僧院を見つけて……そこに落ち着くつもりに違いない」
「……アルフレッド様。どうか、お義母様を止めてください。アルフレッド様が真摯に説得なされば、お義母様も思いとどまります。私……私、喪が明けましたら、屋敷を出て行きます」
今度は妻の発言に、アルフレッドは目を丸くする。胸の前で握りしめた両手がかすかに震え、ジーナは俯いていた。
「私、きっとこれからも子供ができません。後継ぎも生めぬ嫁……アルフレッド様が離縁なさっても、非難されることはないはずです。どうか、アルフレッド様は私などと別れ、良い御方と結ばれてください。アルフレッド様が本当に慕っていらっしゃる方と――」
「ジーナ」
ジーナが気づいていたのは分かっていた。
アルフレッドはずっと――初めて見た時から、美しい義母に恋焦がれている。そしてそんな自分の想いに気付きながらも、夫のためにジーナは献身的に尽くしてくれていた。
アルフレッドは穏やかに笑い、ジーナと向き合う。
「義母上はこの屋敷を出たほうがいいんだ。メレディスも彼女も、マクファーレン家になど関わらないほうが幸せだった。もう彼女たちをここに縛りつけておきたくないよ。それに、ジーナ、私は不出来な夫だが、これ以上貴女に不誠実な真似は出来ない。横暴な舅、気弱な姑、我儘な夫――貴女は本当に、よく耐えてくれている。貴女が私に愛想を尽かして出て行きたいというのなら、それを引き止める権利は私にはない」
ジーナはパッと顔を上げ、激しく首を振る。そんなこと思うはずがないと、訴えるように。
「どうか、これからも私の妻として、私のことを支えてくれないだろうか。私には貴女が必要だ。貴女なしではマクファーレン家の当主など、とてもやっていけそうにもない」
ジーナの瞳に大粒の涙が溜まっていく。堪え切れず泣き出した彼女を、アルフレッドは優しく抱きしめた。
「でも私、子供が……本当に……」
「こんなねじくれた人間が住むところに、神が子を授けてくださるはずがない。例え子供ができなかったとしても、それは貴女のせいではないよ、絶対に。私はジーナ以外の女性に子を望まない。後継ぎが必要なら、メレディスに任せることにしよう」
公爵を見つめるメレディスの目には、隠すことのない情愛の念があった。きっと二人はそういう関係なのだろう。オルディス公爵の行動も、そう考えれば納得だ。
「マクファーレン家の女当主は、これで名実ともに貴女だ。これからもよろしく頼むよ、ジーナ」
広い屋敷に、もう男の子の泣き声は聞こえない。
アルフレッドには、新たに守るべき家族ができた。ただアルフレッドに守られるだけではなく、隣に並んで立ってくれる女性が。




