華と棘 (3)
聞こえてきた声に、マリアは息を呑んだ。
あの状態の判事を追いかける人間がいるとは思わなかった。だが、実の息子というのは盲点だった。
アルフレッド・マクファーレン――彼と顔を合わせるのは初めてだ。
マクファーレン判事は、よろよろと息子にもたれかかる。メレディスの兄は、苦しそうに息をする父親、明らかに何かあったような姿のマリア、床に転がる杯を見やった。
彼の登場に、マリアは舌打ちしたくなった。
恐らく、アルフレッドは父親の異変に気付いている。
それについてはどうにでも言い訳ができるから構わないのだが、マクファーレン判事を仕留めそこなったのは大きな失敗だ。二度目は通じない奇襲方法だった。
これでマクファーレン判事が懲りるとは思えない。むしろ恨みを溜め、さらなる報復に出るに違いない。
あの男だけは、何としてもこの場で始末してしまいたかったのに……。
「アルフレッド殿、どうかされましたか?」
さらなる客がバルコニーに近づいてくる。こうなると、マリアは諦めて、逃げ出すタイミングを見計らうべきになってきた。
マクファーレン判事のことはどうとでも言い繕えるが、この姿はあまり見られるべきではない。襲った判事よりも、襲われたマリアのほうが不利な状況だ。
しかし、事態は意外な方向へ進んだ。
「どうやら父上が、酒を召されたようで。フォレスター候にからかわれたのが、よほど頭に来たのでしょう。ほらほら……父上、しっかりつかまらないと。危ないですよ」
足下のおぼつかない父親を支え、アルフレッドは苦笑しながら客に向かって話す。客も、アルフレッドに同調するように明るく笑った。
マリアはさりげなくバルコニーの端に下がり、窓の端に姿を隠した。
「宰相殿も、どうやら今夜は酔われていたようですなあ。ずいぶん品のないことばかり口にされておった。マクファーレン伯が酒に手を出してしまうのも、無理はない」
「ははは……おっと。父上、やはり、慣れぬことはするものではありませんね」
二人が話している間にも、マクファーレン判事がよろめき、バルコニーの手すりにすがりつく。
「申し訳ないが、馬車を呼んで来てもらえませんか?父には、お帰り頂いたほうがよさそうだ」
アルフレッドの申し出に客は頷き、背を向ける。
その時のアルフレッド・マクファーレンを見たのは、間違いなくマリアだけだった。
「ああっ!父上ーっ!」
悲痛な叫び声に、ホールにいた客が何事かと振り返る。
手すりから身を乗り出して下を覗き込むアルフレッド・マクファーレンの姿……そして、ドサリと――何か重いものが落ちた音。顔を真っ青にしたアルフレッドが、錯乱したように叫ぶ。
「誰か、誰か医者を……!父上が……!」
何が起きたのか確認しようと、客が次々とバルコニーになだれ込んでくる。
地上を見ようと詰め寄せる野次馬の隙間を、身を屈めてマリアは抜け出した。狭い人混みをくぐり抜けた後なら、ボロボロになったドレスも、乱れた髪も、特に不自然ではない……。
人混みを抜けた途端、グイッと誰かに腕を引っ張られた。自分の上着をマリアに羽織らせ、宰相が自分の腕の中にしっかりと抱き寄せる。
マリアの姿をなるべく人に見られないようにしながら左手の人差し指にはめた指輪を抜き、宰相は、自分の部下である貴族に素早く指示を出す。
「医者と、ガードナー隊長を階下に呼べ。ジョージ・マクファーレン伯爵が、酔ってバルコニーから転落したようだ。オルディス公爵が、詰めかけた野次馬で負傷した。彼女の手当てのために、私は控え室に下がる」
宰相から指輪を受け取った貴族は、何も言わずに立ち去った。
宰相に連れられ、マリアは静かな控え室へと移動する。長椅子に腰かけ大きく溜息をつくと、改めて痛みが身に染みた。
「すまなかった。息子のアルフレッドを止めそこなった」
マリアの怪我の具合を確認しながら、宰相が言った。
「いいえ。手間取ってしまった私も悪かったのです」
怒れる判事に近づく人間はいないだろうと思っていた。それでも念のため、バルコニーに人が立ち入らないよう宰相に足止めを依頼しておいた。他は止められても、息子が父親を呼びに行くのは制止しづらいものだ。
「何があった」
アルフレッドの乱入で、彼もマリアの計画が失敗したと思い込んだのだろう。
マリアが最初に想定していた通りにマクファーレン判事が墜落したことについて、宰相が尋ねた。
「アルフレッド・マクファーレンが、父親を突き落とした……ように見えました」
本来は、マリアがそれをやるつもりだった。
毒で呼吸困難に陥らせところをバルコニーから突き落とす。
弱った状態なら、女のマリアでも男を突き飛ばすぐらいできる。そして、酒に酔った判事が誤って転落したように装う。それがマリアの考えた計画だった。
例え命を落とさなかったとしても、手当てと状況確認のために一番に呼ばれる近衛隊長が、すべてを揉み消す。
そうなるはずだった。
「はっきり見たわけではありません。ただ……」
マリアの目にはそう映った。
アルフレッドはさりげなく父親を手すりに追いやり、息も絶え絶えに手すりにすがりつく彼の背を押した……ように見えた。
控え室にノック音が響き、ガードナー隊長が入ってきた。
「ジョージ・マクファーレン伯は即死だった。詳しい聴取と検分はこれからだが、息子アルフレッドは、酒に弱い父親が、酔って転落したと話している。マクファーレン伯は足元も覚束ない様子だったと、他の客も証言した。事故と片付けてもよいのだが……」
隊長は、整えられた自身のあごひげを弄る。何やら考え込んでいた。
「アルフレッド・マクファーレンからも、事故として早急に処理して欲しいと嘆願があった。酒に酔って、ご婦人を襲おうとしたらしい。マクファーレン家の名誉のためにも、穏便に、事故として片付けてしまいたいそうだ」
そう言って、隊長がチェーンのちぎれたネックレスをマリアに差し出す。それを受け取りながら、マリアはアルフレッドの姿を思い浮かべた。
――アルフレッド・マクファーレンは、自分を庇おうとしている?
マクファーレン判事の転落死は、単なる不幸な事故。翌朝には、あっさりとそう結論付けられていた。
判事が酒に弱いことは有名な事実であったし、天敵にからかわれた判事が腹立ちまぎれに酒を飲んだことも、最近の彼の短慮さを知っていた身近な人間は、誰も疑わなかった。
マリアは二日ぶりに城を訪ねた。顔の腫れは引いたが、青アザはまだくっきりと残っている。
似たようなところに宰相も青アザを作っているのには、目を丸くした。
「ジェラルドにやられた」
マリアが聞く前に、宰相が説明した。
「ジョージ・マクファーレンの死について問い詰められ、隠す必要もないので正直に答えたところ、オルディス公をわざと危険な目に遭わせたことにジェラルドが腹を立てた。それを許した私も、そうせざるを得ない状況に追い詰めた自分も。自分の未熟さのせいだと分かってはいるが、殴らせて欲しい、と」
「親バカですこと」
マリアがからかうように言えば、息子そっくりのポーカーフェイスでフン、とかすかに笑う。
「いくつになろうと、我が子というのは可愛いものだ。ましてや、妻の忘れ形見でもあるのだからな」
デスクの上の肖像画に目を落としながら、宰相が言った。
「貴女のほうは大丈夫だったのか。昨日は城に姿を見せなかったので、心配していたが」
「……自分の身を粗末に扱ったことで、お仕置きを受けていただけです。ご心配をおかけしました」
あのあと、馬車でマリアの帰りを待っていた伯爵に拉致され、そのまま彼の屋敷……というか、彼の寝室に閉じ込められてしまった。
もっとも、あの姿ではオフェリアのもとへ帰るわけにもいかなかったので、伯爵の誘拐を受け入れるしかなかったのだが。
前回のように、きつく責められることはなかった。ただひたすら甘やかされた。溺れてしまいそうなほどに。
伯爵の思いやりや気遣いを踏みにじった罪悪感に激しく苛まれ……ああいうお仕置きの仕方もあるのか、とマリアは学習した――不要な経験な気もしなくはないが。
「ゴーイング商会は、事実上の倒産となりました」
「ホールデン伯爵の手腕は実に見事であった。やはり我々では、ああはいかなかっただろう」
ホールデン伯爵はまず、大口の客を用意し、ゴーイング商会に取引をさせた。
多額の前金を支払って商品を取り寄せさせたのだが、肝心の商品が輸送中に紛失。
仕方なく預かった前金を返却しようとするも、なぜか金庫の中の前金は消えてしまっている。
そうなると、返金のためにゴーイング商会は金をかき集めるしかない――他の客から預かっている前金も含めて、商会にあるだけの金をすべて。
そこに、ひとつの不思議な噂が流れる。
ゴーイング商会は近々計画倒産する予定であり、客から預かった前金を抱えて夜逃げするつもりだ、というもの。
老舗の商会であれば、そんな噂程度で客が動揺することもなかっただろう。
しかしゴーイング商会は信頼度のない新参商会。しかも前会長は不審死を遂げており、どうもその経営は荒っぽい。
そうなると、不思議な噂を信じる客は当然のように現れた。
客の一部が返金を求めてきたが、前述のトラブルで金をかき集めてしまったゴーイング商会は返金できない。
返金されなかったという事実が広まり、あっという間に返金を求める客が殺到。対応できなくなった商会は袋叩きに遭い、潰れてしまった。
ちなみにこの騒動、ホールデン伯爵は大した苦労をしていないそうだ。
なにせゴーイング商会の従業員は、脅迫まがいに引き抜かれた他店の従業員がほとんど。以前の店に戻れるよう取り計らう、と伯爵が一声かければ、すすんで協力してくれた。
だから輸送中の商品を紛失させるのも、金庫に預けてあった前金を取り戻すことも、何の問題もなかったらしい。
「ただ、ゴーイング商会の資金の大半は、すでにどこかへ移してあったそうです。ゴーイング商会の会長――もとは、グレアム伯爵の会長補佐をしていた従業員が一人、姿をくらましているそうです」
「恐らく、それが朱の商人だ。金は奴が持ち逃げしたか……」
「伯爵も同意見でした」
ホールデン伯爵は、朱の商人のことを知っていた。封印された歴史ではあるが、裏の事情に精通した商売人にとっては、やはり知らずに過ごせるものではない。そう語っていた。
「ゴーイング商会の在庫と流通ルートは概ね確保できたので、必要ならば宰相閣下に全て差し出すそうです。肝心のところはどうせ押さえられていないだろうから、朱の商人を捕えるのにどこまで役に立つかは分からぬ――と、伯爵は仰せでした」
「その見解は正しい。恐らく朱の商人は捕まるまい。まずはエンジェリク側の協力者を抑えねば、奴を捕えられない。こちらの情報が筒抜けになってしまう恐れを抱えていては、動くこともできないからな」
前回の逃亡にはレミントン一族が絡んでいた……。今回も、そうなのだろうか。
母親に新しいドレスを買ってもらったと、自慢げにはしゃいでいた王女の姿を思い出す。あのドレスの資金は、いったいどこから出たのか……。
「それと伯爵から、閣下にお願いしたいことが。客の金を巻き上げることになってしまったので、それを閣下のほうで返金していただけないかと」
ホールデン伯爵の計画では、ゴーイング商会が荒稼ぎした資金で何とか大口の客の返金を賄うもの、となっていたそうだ。
資金が底を尽いたところに追い打ちをかける――つもりが、他の客の預かり金にまで手を出したことで、予想外に早く決着がついた。
同時に、何の落ち度もない人間の金を、自分たちが不当に得ることになってしまったという問題も発生した。
まさかホールデン伯爵から返金するわけにもいかず。宰相のほうで穏便に返金を済ませるようマリアに依頼していた。
「それについてはジェラルドに頼むといい。捜査の一環であったことにして、役人のほうから返金させるのだ。ホールデン伯爵には、いずれ何らかのかたちで感謝の意を示すことにしよう。朱の商人絡み故、あまり大っぴらには動けぬが。ガードナー隊長も、彼には感謝しておる」
「私からも、お礼を伝えておきます」
マリアは頭を下げ、退室しようとした。ふと足を止め、宰相に振り返る。
「そう言えば、閣下。新しい絵描きをお探しのようでしたが、よろしければ私のほうから一人、推薦させていただけませんか。メレディスと言って、とても素晴らしい画家ですの」
デスクの上の肖像画に目を落としたまま、宰相が言った。
「それは非常に有難い申し出だ。懇意にしていた絵描きが亡くなったというのは事実だ。おかげで絵の修復などができなくなってしまった。妻の絵も、いくつか状態が悪くなったものもあって、複製画を依頼したいと思っていた」
きっとメレディスなら、完璧に修復してしまうだろう。もしかしたら、元の絵以上に彼女を美しく輝かせてられるかもしれない――ジェラルド・ドレイク卿が敬愛する母、そして、ニコラス・フォレスター宰相の最愛の妻を。




