火が点く (4)
燃え盛る従業員寮の周りを取り囲む野次馬をかき分け、ホールデン伯爵は、寮の管理者でもあるハンナに呼びかけた。
「いったい何があった」
「一時間ぐらい前に、火事を見つけて……。男たちが消火したりもしたんだけど、火の手が一ヶ所じゃないみたいんだよ。皆で逃げ出すのが精一杯だ……」
ハンナが説明している間も火は燃え盛り、建物の一部が焼け落ち始めている。もう人の手で消火するのは難しそうだ。
「鎮火するのを待つしかないか。近隣の建物に燃え移らないよう注意しろ。被害を最小限に留めるためにも、いざとなったら壁を取り壊して……」
伯爵が従業員に指示を出していると、リースと、かつてキシリアでも世話になった元・同僚のテッド、ポールの三人が走り寄ってきた。ポールは、マサパンのリードを引いている。
「メレディス君を見ませんでしたか。一緒に逃げたはずなのに、気づいたら彼の姿が見えないんです!」
マリアは血の気が引いた。
三人がメレディスの安否を確認しようと他を探しに行く前に、マサパンが激しく吠え出す。
ポールが、燃える建物の三階を指差し、声を裏返しながら叫んだ。
「あれは、メレディスじゃないか!」
三階の窓から、炎に紛れてメレディスの姿が見えた。メレディスは窓から何かを放り投げると、すぐに炎の向こう側へと姿を消してしまった。
「メレディス!」
衝動に突き動かされるまま走り出すマリアを、伯爵が捕らえて押さえ込む。
冷静になって考えるということも忘れ、マリアはただ伯爵の腕の中でじたばたともがいた。
「マリア様はここにいてください!」
そう言って、ノアは燃え盛る建物の中へ突入していった。
「おい、お前は行かなくていいんだってっ!これ以上、事態をややこしくするなっ!」
必死にリードをつかむポールの制止もむなしく、ポールを振り切ったマサパンも、ノアのあとを追って走っていってしまった。
伯爵に引きずられるように、マリアは建物から離れる。炎で脆くなった建物の一部が、また落ちてきた。
「ホールデン伯爵ーっ!みなさーん!」
王国騎士団の騎士たちを引き連れ、マスターズがやって来た。騎士たちの先頭にいるのは、ウォルトン副団長の部下のカイルだ。
カイルは挨拶することもなく騎士仲間に指示を飛ばし、消火と救助に急いでいた。
「火事が発見されて一時間は経ったというのに、駆けつけた役人は君だけか。職務怠慢だぞ」
怒りを隠しもせず、伯爵が言った。
「監査のせいで、手続きやら手順やらを遵守することを優先させられるんです。しかも不審火が続いてたせいで、見回りに余分に人手が取られてるわ、伝達と統制が普段以上に厄介になるわで向こうも大混乱ですよ」
ならばこの火事も、マクファーレン判事の仕業なのだろうか。
警視総監は権限を失い、役人たちも動きを制限されたこのタイミングで、火事が起きた。続く不審火も、今回の布石のため……。
ワンワンと吠えるマサパンの声と、人々の歓声にマリアが振り返った。
メレディスを連れて、ノアが戻ってきている。
ノアに肩を支えられて咳き込んではいたが、メレディスも無事だ。
「メレディス!ノア様!」
伯爵に解放され、マリアがメレディスに抱きつく。
「よくやった」
心から安堵した様子で、伯爵もノアの肩を叩いた。
「残念ながら、手柄は彼女のものです。真っ直ぐメレディス君のもとへ向かって行って私を先導してくれたので、すぐ引き返してくることができました。相変わらず優秀で、美味しいところを持っていきますね」
ちょっぴり焦げ臭くなっているマサパンを見ながら、ノアが言った。
「ありがとう、マサパン。あなたは本当に勇敢で……誰よりも頼りになるわね」
マリアが抱き締めれば、マサパンはフリフリと尻尾を振る。自分の勇敢さを誇るでもなく、構ってもらったことを無邪気に喜んでいるようだ。
「絵……あの絵、回収しないと……」
まだ咳き込み、まともに話すこともままならない状態で、メレディスが言った。
「絵?もしかして、窓から投げていた、あれのこと?」
メレディスは、三階の窓から何かを放り投げていた。どこかの茂みに引っ掛かっていたはずだが、中身は確認できていない。
「それなら、騎士の人にお願いして、すぐ回収してもらいましたよ」
布に包まれた絵を、リースが差し出す。すぐに受け取り、メレディスは絵の無事を確かめていた。
「良かった……。これだけは、守らなくちゃいけないから……」
ホッとした表情で笑うメレディスに、馬鹿野郎、とテッドがらしくない荒い口調で怒った。
「まさか、それを取りに戻ってたのか?助かったから良かったものの、命を落としてたかもしれないんだぞ!生きていれば、またいくらでも描けるだろう、そんなもの!」
声を震わせて怒鳴った後、テッドは眼鏡を取り、乱暴に自分の目をこする。リースとポールが、そんな青年の心情を察して労わるように背中や肩を叩く。
メレディスも、困惑しながらも笑顔を浮かべた。
「心配をかけてすみません……でもこれだけは、替わりが利かないから」
そう言って、メレディスは絵をマリアに差し出す。いや、元の持ち主であるマリアに返した。
複製のために預けていた、マリアの両親の絵だ。絵を受け取ったマリアは、込み上げてくる感情を抑え、静かに言った。
「テッドさんの言う通りよ。こんなもののために命を賭けるなんて、本当に馬鹿ね」
どんなに嬉しくても、マリアは素直に感謝の意を示すことができなかった。
全て焼失してしまった家族の絵。残った最後の一枚を守るために、炎の中を引き返して、自分の命まで危険に晒して……。
「亡くなった人のために、いま生きてるあなたが死んでしまったら……。本当に……絵のことになると、見境がなくなるんだから……」
思わず笑顔になってしまうのを見られたくなくて、もう一度メレディスを抱きしめる。
マリアの気持ちを察したように、優しく抱きしめ返すメレディスが憎らしくて、とても愛しかった。
火事で寮を追い出されたガーランド商会の従業員たちは、伯爵の速やかな手配により、すぐに仮の住まいを与えられた。
再び命を狙われる危険があるメレディスは、マリアたちの屋敷に匿われることになった。
メレディスはあのあとすぐに気を失い、昼が過ぎたいまも眠っている。何気ない様子で振る舞っていたが、煙を吸って危険な状況だったらしい。
痩せ我慢が過ぎるわ、とマリアがこぼせば、あなたには負けますよ、とノアに言われてしまった。
「今回の火事、役人は動かぬ。アレン・マスターズからの確定情報だ」
火事の後始末に終われていた伯爵は、夕方頃マリアのもとへ帰ってきた。
芳しくない情報にマリアは眉を寄せたが、伯爵は不敵に笑っていた。
「役人が動かぬと分かっているのなら、かえって都合がいい。役人の目を気にすることなく、私のやり方でゴーイング商会を潰させてもらおう」
看病のためにメレディスの眠るベッドのそばに座るマリアの隣に腰掛け、伯爵が言った。
「商売人の潰し方は、いやと言うほど熟知している。新参者など大した労も要すまい。問題は、背後に控えるマクファーレン判事だ」
「……判事のほうは、私が始末します」
そう言って、マリアはメレディスの髪を撫でる。ずっと眠り込んでいたメレディスが、身動ぎするのが見えた。
「何か、危険なことを考えているな」
「仕方がありません。私一人でできることなど限られていますから」
ドレイク警視総監、ガーランド商会、そしてメレディス。マリアのせいで、大勢の人を苦しめ、傷つける羽目になった。
いまのマリアでは力比べでマクファーレン判事には勝てない。ならば、多少のリスクは避けられないだろう。
「多少の手傷は覚悟の上です。片がついたら、ヴィクトール様からちゃんとお仕置きを受けます」
メレディスが目を覚ましたので、マリアはそこで話を打ち切った。
「……あれ、ここって……マリアの部屋、だよね」
部屋をぼんやりと眺め、マリアを視界にとらえたメレディスが呟く。
「あのあとすぐ気を失って、あなたは半日眠っていたのよ」
「そっか……。もうあの従業員寮には、戻れない感じ?」
メレディスの質問に、難しいだろうな、と答えたのは伯爵だった。
「倒壊こそ免れたが、壁も床も脆くなり、住み続けるのは無理だ。家財道具もほぼ燃え尽きているそうだ」
「じゃあ、僕が描いた絵も全部燃えちゃったんですね……。十三枚あったマリアの絵も、全部」
「ちょっと待って。そんなに私の絵を描いてたの。いつの間に」
悲壮感漂わせるメレディスには悪いが、マリアも口を挟まずには入られなかった。メレディスは、悪びれる様子もなく答えた。
「君が眠ってる時とかに、こっそりと」
「だから私が全て買い取ると言った時に、素直に渡しておけば良かったのだ」
伯爵が言った。
「十枚ほどマリアの絵を並べて、どれがいいですか一枚選んでください、と聞いてきたのだ、メレディスは。言い値で買うから全て譲ってくれと頼んだのに、頑として首を縦に振ろうとしなかった」
伯爵が、子供の悪さを母親に言いつけるかのようにマリアに説明する。メレディスも、まことに遺憾である、と言わんばかりの表情で反論した。
「伯爵には約束の一枚を、ちゃんとお譲りしたじゃないですか。残りは全部僕のですよ。約束を守って裸婦画でもきちんと譲ったんですから、もっと感謝されるべきだと思うんですが」
「裸婦画って言わなかった?私、初耳なんだけれど」
マリアの抗議を聞こえなかったふりで、メレディスも伯爵も聞き流す。
「……画材道具も全部買い直しか。痛い損失だな。かなりの出費になる」
「また私のために、マリアの絵を描けばいい。報酬を先払いで支払ってやろう。それで道具を買い揃えられるだろう」
メレディスが無事に絵を続けられるのは嬉しいが、思いがけない事実を知ったマリアの心境は複雑だ。
眠っている間にこっそり自分のことを描かれていたとか、裸婦画とか……。
マリアはハッと気づき、目を吊り上げて伯爵を睨む。
「……ということは、ヴィクトール様。いまヴィクトール様は、裸婦画を所持していらっしゃるということですか――目を逸らしていないで、私の目を見てはっきりお答えください」
「答えたところで、どうにもならぬだろう」
「隠し場所を見つけて燃やします。ノア様に聞けば、きっと教えてくださるでしょうから」
渾身の力作なのに、とメレディスから非難が飛ぶ。伯爵があわれっぽく、溜め息をついた。
「……仕方がない。ノアはきっとマリアの味方をし、あの絵は燃やされてしまうだろう。新しいのを描いてくれ、メレディス。今度はノアにも隠しておく」
「いつも火花を散らしているくせに、こんな時ばかり協力し合わないでください」
裸を見られるのは構わないが、その姿を無断で所持されるのは話が別だ。




