火が点く (3)
ドン、と目の前に置かれた植木鉢に、ヒューバート王子はやや困惑していた。
オフェリアも連れず、先触れの手紙も寄越さず突然やって来たマリアと、青々と生い茂る植物を見比べている。
「これの土の部分に、薬が混ぜられたであろうお茶を捨てました。恐らく睡眠薬の類いだと思うのですが、確認する方法はありませんか?」
「確認できないことはないけれど……」
困惑しながらも、ヒューバート王子は奥へ引っ込み、頑丈な木箱を持ってきた。箱からはゴソゴソと音がする。
また何かを王子が取りに行っている間に中を見てみれば、痩せたネズミが数匹入っている。
「そのネズミに、土を混ぜた餌を与えてみる」
パンと、園芸用に利用していると思われる木のスプーンを持って、王子が戻ってきた。
パンをちぎり、土の上でしっかりと転がして混ぜ込んで、ネズミにコーティング済みのパンを与える。
痩せたネズミたちは、パンに飛び付いた。
「お見事です」
「速効性の睡眠薬みたいだね。結果が早く出ると、観察のしがいがある」
一匹、また一匹とネズミたちが倒れていく。死んではいない。みな、眠りに落ちたようだ。
「やはり、ろくでもないお茶でした。このことも含めて、ドレイク警視総監に報告しに行ってきます。植木鉢は重たいので、ここに置いていっても構いませんか?あとで回収に参ります」
王子の返事を待たず、マリアはドレイク卿の執務室へ向かう。警視総監のほうでも、逮捕したグレアム伯爵の取り調べが始まっているはずだ。
ドレイク警視総監は、普段以上に冷たくも恐ろしい空気をまとっていた。
「……マクファーレン判事に、先手を打たれた」
重苦しく語る警視総監は、苦渋に眉間に皺を寄せている。
「グレアム伯爵が拘置所内で死亡した」
「それは……マクファーレン判事が口封じを図ったということですか?」
「いま、グレアム伯爵の家族の保護に向かわせている。やはり奴に、恩義を感じるなどという殊勝な感情が存在するはずがなかった」
保護、ということは、家族にも危険が迫る可能性があるということか。息子の嫁に選んだ少女すら、マクファーレン判事が……。
「グレアム伯爵に協力していたわけではない。いつ切り捨てても構わないと、利用していただけだ。次に打つ手はわかりきっている。私から権限を取り上げることだ」
ドレイク卿が苦々しく吐き捨てると同時に、執務室の扉を叩く音が響いた。
ドレイク卿の返事も待たず、男が入ってきた。上等な身なりに、威厳のある佇まい。年は警視総監の父親、フォレスター宰相よりは年下だろうか。
厳しい表情をしてはいたが、ドレイク卿に対する敵意は感じられなかった。
「まずは、君の部下からの報告を聞くといい」
貴族の威厳の前にすっかり存在感をかき消されていたが、彼のそばには小さくなっている役人がいた。
「報告を」
「は、はい。先程、タイタニア川で、ダーシー・グレアム嬢の遺体が発見されました。父親を不当に逮捕され、謀殺されたことによる身投げではないかと、ウィンダム市民の間では噂に――ひっ!」
報告を忘れ悲鳴を上げてしまった役人に、マリアは同情した。
激怒のオーラを発するドレイク卿を前にしたら、思わずすくみあがってしまうのも無理はない。
「詰めが甘かったな、ジェラルド。マクファーレンの狡猾さは骨身に染みていたはずだろう」
中年の貴族に言われ、面目もない、と努めて冷静にドレイク卿が答える。
「ジェラルド・ドレイク警視総監。ロナルド・グレアム伯爵の尋問に不信ありとの訴えにより、これより監査を行う。貴殿の身柄を拘束し、監査終了まで警視総監の権限は法務長官に委ねるものとする」
そういうことか、とマリアは納得する。
グレアム伯爵の死は、単なる口封じではない。役人に逮捕され、尋問されている間に突然命を落とした。当然、役人の行き過ぎた尋問による殺人を疑われる。
共犯者が逮捕されることすら、マクファーレン判事にはドレイク卿を追い詰める材料になるのだ。
威厳ある口調で言い終えると、中年の貴族は労るようにドレイク卿の肩を叩く。
「いまは耐えろ。所詮形式的なものだ。すぐにフォレスター殿が異議を申し立て、貴殿の解放は決まる」
「……はっ」
恭しく頭を下げているが、ドレイク卿は悔しさが隠しきれないでいる。
ドレイク卿が何に腹を立てているのか、マリアにはわかるような気がした。
いま処罰を言い渡した貴族は、フォレスター宰相のかつての部下。恐らくマクファーレン判事がグレアム伯爵の不審死を理由にドレイク卿を貶めようとするのを、フォレスター宰相と共に阻止しに来たのだろう。あるいは、宰相本人が信頼できる部下に頼んで、助け船を出させたのかもしれない。
父親の威光もあっていまの地位に就いたドレイク卿は、自分自身の力を渇望している。
だが長年の敵であるマクファーレン判事を出し抜くどころかやり込められ、父親に助けてもらう羽目になってしまった。
――それは、不甲斐ない自分への怒りだ。
「……そちらのお嬢さんは」
中年の貴族はがマリアを見る。マリアが口を開くよりも先に、ドレイク卿が答えた。
「個人的な知り合いです。ゴーイング商会を調べるにあたり、私的に協力していただきました」
「そうか。捜査への協力、感謝致す。しかし少々取り込んでおる。速やかに帰られよ」
反論を許さない厳しい口調であったが、要するに、監査には関係ない人間と見なすので早く立ち去れ、とマリアを見逃そうとしているのだ。
ドレイク卿はもう動けない。役人たちも、監査の対象として行動を制限されてしまう。
「お忙しいところを大変失礼いたしました」
お辞儀をし、マリアはすぐに執務室を出た。マリアを見逃そうとする彼らの気遣いを、無駄にする意味はない。
それにしても、ずいぶんと大きな事件へと発展してしまった。最初はささいなトラブルだったのに……。
そう、ささいなトラブルだったのだ。
マリアがジュリエット王女に立てついたこと。それが最初だった。
「遅くなって申し訳ありません、殿下。鉢植えを引き取りに参りました」
「それは、持ち帰らないほうがいいかもしれない」
ヒューバート王子のもとへ戻るなり、深刻な顔をした王子に忠告された。
「これを見てくれ。あの後もネズミを観察していたんだが……」
木箱の中に入ったネズミは、異様な様子になっていた。
土まみれのパンを貪り、痩せ細っているのに、お腹だけが異常に膨らんでいる。薬で眠っていたネズミも、目を覚ますとフラフラしながらもパンにかじりつく。そのネズミのお腹も、はちきれんばかりにパンパンだ。
「ネズミたちは食べては眠り、眠っては食べてをずっと繰り返している。腹の部分が異常に膨れているのも、無理やりパンを詰め込んでいるからだ。食べることに苦しむ様子も見せているのに、それでも食べるのを止めない。フラフラと起き上がってはパンを……というより、薬が染み込んだ土を食べる……。もしかして、この睡眠薬は、純度の高い阿片で作られているんじゃないだろうか」
「阿片ですか。痛み止めとしてよく売られている、あの?」
「あまり知られていないことだけど、東方では、阿片には重度の常習性がある薬として危険視する研究者もいるんだ。専門じゃないから僕も詳しくは知らないが、たぶんこれは、一般で売られているような阿片の睡眠薬じゃない。特別な精製方法で作られてるはず」
フラフラした足取りで、それでもパンを食べようとするネズミたち。薬を求めてしまう常習性のせいで、どんなに苦しくてもパンを欲してしまう。眠るか食べるかしかできなくなった姿……。
こんな薬を、メレディスに飲ませようとしたのか。誰が発案したのかは知らない。だが自分の息子に、婿になる男に……。
マクファーレン家に無理やり連れ帰るなんて、その程度で済ませるつもりはなかったのだ、あの男は。
二度と自分に逆らえないように、絵描きの道を完全に絶ってしまえるようにするつもりだった……そのためなら、息子を薬物中毒の廃人にすることもためらわず。
「ありがとうございました。薬のこと、大いに助かりました」
特別な精製方法を必要とする薬。そんな物、簡単に手に入るはずがない。流通ルートは限られてくるはず。
そしてマクファーレン判事のことも。どんな人間なのか、これで思い知った。薬のことを確認したのは無駄ではなかった。
鉢植えは、屋敷に持ち帰ってオフェリアに万一のことがあってはいけないからと、ヒューバート王子が引き取っていった。
マリアはそのままガーランド商会へ行き、メレディスに、絶対一人になるなときつく注意した。
「最低でも、商会の誰かとは一緒に行動するようにしなくちゃだめよ。絵描きの仕事も、しばらくは我慢して」
絵描きの仕事を制限したくはなかったが、メレディスの命が惜しい。メレディスとしても、マリアの真剣な迫力に頷くしかなかったようだ。
「ところで……マスターズ様は今日もいらっしゃってますが、本格的にガーランド商会に転職なさるおつもりで?」
「いやいや、違いますって。監査対象の事件が起きる前に謹慎処分を受けたので、自分は監査の対象外なんですよ。自由に動けるのなら、まだしばらくはゴーイング商会を捜査していようかと」
会長のグレアム伯爵が亡くなったが、ゴーイング商会は存続していた。なんでも、もとは会長補佐だった従業員が引き継いで運営しているらしい。
「結局は、私たちがグレアム伯爵の不法行為を暴くことすら、罠だったということね。こうなってくると、私がグレアム伯爵とマクファーレン判事の関係をドレイク卿にお伝えしたことすら、罠だったのかも」
「そうかもしれない。義姉は父を止めたかったのだろうけれど、たぶん父は、ドレイク卿に知られようが気付かれないままだろうが、どうだってよかったはずだ」
メレディスは、グレアム伯の娘の死にも、特に驚いていないようだった。
「グレアム伯は、爵位こそ同等だが、家の格にはマクファーレン家の足元にも及ばない。娘のダーシー・グレアムが、マクファーレン家の後継ぎを自分が生むとか言ってただろう。あの言葉は、絶対に父の怒りを買うと思ってたよ。父は義姉に好意的ではないが、それでも、義姉の生家はマクファーレン家と並ぶ名家だ。彼女を差し置いて、格下の女がマクファーレン家の後継ぎを生むなんて屈辱、許さないだろう」
「プライドの高い男なのね」
「プライドの高さだけは、エンジェリクでも並ぶ者がいないかもしれないな」
皮肉っぽく笑っていたが、そんな男を父親に持ち、支配的な干渉のもとに育ったメレディスにとっては、マクファーレン判事の冷酷さもいまさらなのだろう。
それはとても、気の毒な感覚だ。
「それほどまでにプライドの高い男ならば、この情報は無駄にはならんかもしれないな」
夜、オルディス邸を訪ねた伯爵にマリアがこれまでの経緯を全て話すと、意味ありげに彼は笑った。
マリアを手招きし、自分の膝に座らせる。そして一枚の紙を見せた。
どうやら、マクファーレン判事がゴーイング商会で購入した際の領収証のようだ。
とんでもない金額が書かれているが、品物の名は読めなかった。エンジェリク語どころか、近隣諸国の言語ですらない。
はるか東で使われている漢字、という文字ではないだろうか。
「何と書かれているのですか?」
「オットセイ」
「おっと……?」
「動物だ。東の黄金の国より、さらに東の海に生息している。一部の男たちに、強い需要がある」
一部の男たち――マクファーレン判事も、その一部の男に属しているのか……。
「精力剤だ」
「せーりょく……何ですか、それ」
「上品な言い方をすると、男としての自信や元気を取り戻す薬だな。病気や年で、それに悩む男も少なくない」
「ヴィクトール様も使っていらっしゃるのですか?」
素直な疑問をぶつけただけなのに、マリアは頬を引っ張られてしまった。
「プライドの高い男が、こんな薬に頼っていると知られるのは耐え難い屈辱だろう。他にも、効果の強い物をいくつも購入している。実際に会ったマクファーレン判事は、かなり短慮な印象を受けたと言っていたな」
マリアは頷いた。
ドレイク卿に連れられた評議会で見たマクファーレン判事は、短気で浅はかな言動がたびたび見受けられた。あの姿が印象に残っていたから、狡猾な人物と聞かされていても実感がわかなかったのだ。
「もとは慎重で狡猾な人物だったのだろう。しかし精力剤を服用しすぎて、日常での言動にも影響が出始めているのかもしれん。気持ちを昂らせ、興奮させる薬だ。公私における思慮分別はできていた男が、職務中にもその影響を受けるほどとなると、重度の常用者ということになるな」
つまり、マクファーレン判事にとっては重度の悩み――男としての自信と元気がないことが。
マリアの思考は、そこで中断された。
寝室のドアを荒っぽくノックしてきたかと思うと、マリアたちの返事も待たずにノアが飛び込んできた。
「伯爵、マリア様、失礼します。いますぐ外を見てください」
ノアは窓に一目散に駆け寄り、カーテンを引く。真っ暗な空に、赤い色が映り込んでいる――王都のどこかで、火事が起きている。
あの方向は――。
「ヴィクトール様。あれはガーランド商会の、従業員寮がある方向ではありませんか」
さすがのホールデン伯爵も、顔色を変えていた。
馬車を出せ、とノアに命令し、部屋を飛び出していく。
寝衣のままなのをナタリアに止められたのも構わず、マリアも伯爵たちのあとを追いかけた。




