火が点く (2)
マスターズの潜入捜査よりも先に、ホールデン伯爵から、ゴーイング商会の調査結果をマリアは聞くことになった。
メレディスと共に呼び出されたので、最初は何事かと思ってしまった。
「マクファーレン判事がゴーイング商会に肩入れする理由らしきものが、判明した。マクファーレン判事とグレアム伯爵――双方の間に、メレディス、君がいる」
「僕ですか?」
メレディスは、心当たりがない、と言いたげな顔をした。
「グレアム伯爵家のご令嬢と君が、結婚する話になっているらしい」
「え、そんなまさか。マクファーレン家にいた頃ならともかく、いまやただの市井の男です。格は大したことがなくてもれっきとした貴族のご令嬢と、しがない絵描きの結婚なんて、有り得ませんよ」
「そういうことだ」
伯爵の言葉にメレディスはますます首をかしげたが、マリアには、マクファーレン判事の真意がわかった。
「市井の男では結婚できない。つまり、グレアム伯のご令嬢と結婚してしまったら、あなたは絵描きを続けられなくなるわ。それが狙いということでしょ」
グレアム伯爵に、マクファーレン判事が恩義を感じている……。あの時は当てずっぽうで言ったことだったが、当たらずとも遠からずだった。
恩というほどのものではないが、長年自分を悩ませてきた息子の問題を、グレアム伯爵が解決してくれる。だから、マクファーレン判事はグレアム伯爵やゴーイング商会に協力的なのだろう。
「グレアム伯爵のご令嬢って、もしかしてダーシー・グレアムという名ですか?」
メレディスが何かを思い出したかのように言った。
「お知り合い?」
「最近、仕事の依頼が来てた。絵描きのほうで」
罠だな、と伯爵が即答する。メレディスも、ですよね、と同意した。
マリアは考え込んだ。
「絵描きの依頼ってことは、グレアム伯爵のお屋敷に呼ばれているんじゃないの」
「絵を描くなら、屋敷に画家を招くのが普通だね」
メレディスの答えを聞き、マリアはホールデン伯爵と向き合う。
「なら、こちらにとってもチャンスかもしれません。マクファーレン判事の庇護下にあるゴーイング商会より、グレアム伯爵邸のほうがつけ入る隙があるかも。メレディス、危険な目に遭うかもしれないけれど、引き受けてくれる?」
今度はメレディスを見る。メレディスは、もちろん、と頷いた。
「メレディスの供ということにすれば、マスターズ様が屋敷に入れます」
「だが、彼は伯爵令嬢に顔を知られているのだろう。ノア、お前もメレディスについて行き、アレン・マスターズの捜査の手伝いと、メレディスの護衛をしろ。優先はメレディスだ」
伯爵の背後に控えていた従者は、主人の命令に頭を下げた。
「それでは、手筈を確認します。ダーシー・グレアム嬢に顔を知られているマスターズ様は、玄関先で待機というかたちでメレディス君と別行動となります。メレディス君はそのままご令嬢と対面し、なるべく彼女の気を引き付けておいてください。マスターズ様が屋敷を捜索する時間を稼ぎ、可能ならばゴーイング商会やマクファーレン判事の情報の聞き出しを。問題は……」
ポーカーフェイスのまま溜息をつき、ノアがマリアを見る。
「……なぜいらっしゃるんですか。あなたも、グレアム嬢に顔を知られているのでしょう」
「今日は化粧の雰囲気も変えて、しっかり男装してきたから大丈夫。さすがに男だと偽るのは無理があるから、男装の麗人止まりだけど。でも、以前顔を合わせた時の私はドレス姿だったし、私のほうでも彼女の顔をおぼろげにしか覚えていないんだから、きっと向こうもはっきりとは覚えていないはずよ」
ノアが、これ見よがしに再び大きく溜息をつく。メレディスも苦笑していた。
「危ないことはしちゃだめだろう」
「だから側に置いて、私のことをちゃんと見張っておくべきだと思うの」
ノアが三度目の溜息をついたが、もう反対はしなかった。
「私とマリア様は、メレディス君のお供として彼につきます。マリア様、私たちから離れることは固く禁止します。メレディス君やマスターズ様を危険に晒すことになるのですから、勝手な行為はいけませんよ」
マリアはしっかり頷いた。約束する、とは言葉にしなかったが。
グレアム伯爵邸はそれなりに大きな屋敷であったが、中身はイミテーションだらけだった。
オルディス領の屋敷を訪ねた時のことを思い出す。かつてのオルディス領の屋敷も、見た目だけ取り繕ったハリボテの屋敷であった。
伯爵の調査によると、グレアム伯爵家は、決して安定した財政状況にはないらしい。
ゴーイング商会でのなりふり構わぬ商売ぶりは、長年の赤字を回収しようと躍起になっているからであり、他店の従業員を脅迫まがいに引きぬくのも、人件費すらまともに払えないからだとか。
本来なら、マクファーレン伯爵家と婚姻を結べるような格ではないとか。
ダーシー・グレアム嬢は、そんなハリボテの屋敷のご令嬢に相応しい、見かけだけを取り繕った少女であった。
「あなたがメレディス?ふーん。みすぼらしい身なりだけど、見た目は悪くないわね」
執事に案内されて部屋に入ってきたメレディスを、足を組んで座ったまま、立ち上がりもせずダーシー嬢は出迎えた。
不躾にメレディスを眺め、彼への軽蔑を隠すことなく品定めしている。
「私と結婚するなら、ガーランド商会なんて似非貴族がやっているところは辞めてよね。そんなところで夫が働いてるだなんて、私まで格が下がっちゃうわ。でも見た目は及第点よ。さすがね。ジョージ様を誑かすような女が母親なんだから、見た目だけはそれなりにいいんじゃないかと思ってたわ」
メレディスがきつく手を握り締めるのを、マリアは視界にとらえた。
メレディスの母親は平民。恋人がいたが、横恋慕したジョージ・マクファーレン判事によって引き裂かれ、メレディスを生むことになってしまった。
しかし息子を生んでもマクファーレン判事の彼女に対する扱いは酷かったらしい。見かねた当時の正妻が、本来なら敵であるメレディスの母親に妻の座を譲ってくれるほどに。
母親のほうがマクファーレン判事を誑かしたなどというのは、メレディスにとって最大の屈辱だろう……。
「……せっかくお茶を出して持て成してあげてるって言うのに、全然口をつけてないじゃない。私の好意を無碍にするつもりなの?母親が卑しいと、その子どももどうしようもないろくでなしに育つものね。ジョージ様がお嘆きになるはずだわ」
「お茶は結構です。それより絵を……」
努めて冷静に、自分を落ち着かせながら、メレディスが口を開く。
「そんなもの必要ないわ。分からない男ね。この期に及んでまだ絵描きのまねごとをして、私に恥をかかせないでよ」
目の前に用意されたお茶に、マリアは嫌な予感しかしなかった。
召使いがお茶を運んで来たとき、メレディスの分はすでにカップに注がれた状態であった。グレアム嬢には、目の前でポットからカップに注いでいたのに。
メレディスがそれに気づいて、上手く飲んだふりでやり過ごしてくれるかどうか……。目の前の無礼な少女への怒りで、お茶の怪しさに気付いていない可能性もある。
なんとかメレディスに合図できないかとマリアが様子をうかがっていると、部屋の外から派手な物音がした。
「ちょっと、何の音?」
扉の前で控えている召使いに声をかけ、グレアム嬢が外を確認させる。
部屋の外にダーシー嬢やグレアム伯爵家の召使いが気を取られている隙に、メレディスの分のお茶をマリアが近くの植木鉢に捨てた。
召使いが扉を開けると、這いつくばったまますみませんを連呼し、ぺこぺこと頭を下げている女性がいた。
「あ、ダーシー様……。申し訳ありません。私ったら、扉の前で転んでしまって……。お騒がせいたしました」
「ジーナ様、なぜここにおりますの?」
部屋の外にいた女性は、以前マリアに、マクファーレン判事のことで警告した彼女だ。
ダーシー嬢と顔見知りなのは当然だが、メレディスも彼女を知っているとは思わなかった。わずかにだが、彼女の顔を見てメレディスが動揺していた。
「わ、私、お義父様に代わってグレアム伯爵に……」
「マクファーレン様が、お父様とお会いに……?明日ならば、たしかにそのような約束があると、お父様もおっしゃっていたけれど……」
「明日……?えっ、そんな……。申し訳ありません!私が日付を勘違いしておりました!」
またぺこぺこと頭を下げる女性に、ダーシー嬢が呆れたように溜息をつく。
「ジーナ様は本当に鈍くさいお方ですのね。ジョージ様も言っておられましたわ。気も利かぬ、子どもも生めぬ、とんだ外れ嫁をもらったと。でもご安心なさって。私がジーナ様のご負担を軽くして差し上げますから。私のほうがずっと若いですし、ジーナ様にはそろそろ、マクファーレン家の後継ぎを生む役目を免除して差し上げるべきだとジョージ様には伝えてありますわ」
ジーナと呼ばれる女性の正体を、マリアはなんとなく察した。
メレディスには腹違いの兄がいると言っていた。ダーシー嬢の発言から推測するに、彼女はメレディスの兄嫁だ。それならば、マクファーレン判事がグレアム伯爵と手を組んだことを知っているのも納得できる。
自分よりずっと年下のダーシー嬢の侮蔑的な言葉に、ジーナは小さくなってひたすら頭を下げるばかりだった。
「すみません……すぐに帰ります。本当に、お騒がせを……あっ、痛っ……」
立ち上がろうとしたジーナが、足を押さえて小さな悲鳴を上げる。
「申し訳ありません、足をひねったみたいで……。大したことはないので、どうかお気づかいなく……」
「そういうわけにはいかないでしょう、本当に察しが悪い人ね。このまま帰したら、私がいじめたと思われてしまうわ」
「も、申し訳ありません……」
ジーナ様を休ませてあげなさい、とダーシー嬢に声をかけられた召使いたちが、ジーナを案内していく。
メレディスも立ち上がり、ジーナに駆け寄った。
「義姉が心配なので僕も失礼します」
よろよろと立ち上がるジーナを、メレディスが支える。
ダーシー嬢は部屋を出ていくメレディスを止めなかったが、その視線はメレディスに出したカップを確かめていた。
客室に案内され、グレアム家の召使いが出ていくなり、おどおどとしたジーナの雰囲気が一変した。
「メレディス、すぐにここを出なさい。これは罠よ。お義父様は、あなたを屋敷へ連れ戻そうとしているわ」
「大丈夫ですよ。そんなことだろうと、最初から分かっていました」
メレディスがマリアとノアに振り返る。
「気付いていると思うけど、彼女は兄の妻のジーナ。信頼できる人だから安心して」
「先日は、私たちを助けてくださってありがとうございました」
マリアが感謝を伝えると、メレディスの義姉はいいえ、と首を振る。
「助けたわけではありませんし、私の意思であなたに味方をしているわけでもないので、感謝の必要はありません。アルフレッド様は、メレディスの道を心から応援しております。私はアルフレッド様の意に従うまで」
ジーナの口調はきっぱりとしていた。
「お義父様は、メレディス、あなたの道を本気で潰すつもりよ。明日ここへ来るのも、グレアム伯爵が捕えたメレディスを引き取るため……」
マリアは先ほどのお茶を思い出した。うさんくさいと思っていたが、やはりあれには何か仕込まれたと考えるほうが妥当だろう。
植木鉢の中に流してしまったが、薬の有無を確認する方法はないだろうか……。
「あなたはすぐに屋敷を出なさい。もうすぐアルフレッド様が私を迎えに来てくださるはずだから、屋敷の者は、できるだけ私たちにひきつけておくわ」
コンコン、と部屋の扉を誰かがノックする。グレアム伯爵邸の召使いが入室し、ジーナの夫が迎えに来たことを告げた。
「旦那様を、こちらへ案内してくださいませんか……。足が痛くて、私から赴くのは難しそうで……」
再びオドオドとした雰囲気で、ジーナが話す。
召使いは面倒くさそうな表情をしたが、一応はゲストであるジーナの頼みを聞き、アルフレッド・マクファーレンを迎えに行った。
部屋の前から召使いがいなくなったのを確認し、ノアが先導して屋敷の中を移動する。マスターズとの合流がどうなるのかが心配になったが、向こうがこちらを見つけてくれた。
「マスターズ様、首尾のほうは」
「上々です。各商店で在庫泥棒があったと報告されていましたよね?どうやら、盗んだ物はこの屋敷に隠していたようです。現物の一部を確保しました。家宅捜索とグレアム伯爵逮捕の理由ができましたよ」
どうやら、マスターズとノアの間ではもっと入念な打ち合わせが成されていたようだ。
二人は、こんな事態を予想していたと言わんばかりの様子でマリアとメレディスを外へ連れていく。
「屋敷の警備状況も確認済みです。こっちへ。裏口はかなり無防備ですよ」
今度はマスターズに先導されて屋敷を移動していたマリアは、先程ダーシー嬢と対面していた部屋の前で足を止めた。
扉に張り付いて室内の様子を伺うが、物音どころか人の気配もない。勝手な行動を取ることをノアが咎めたが、マリアはそっと扉を開ける。
「マリア様、指示に従うという約束を守ってください」
「どうしても、持っていきたいものがあるの」
部屋には誰もいない。きょろきょろと中を覗き込み、お茶を捨てた植木鉢に急いで駆け寄ると、それをしっかりと両手で抱えてノアたちのもとに戻る。
「草花は、伯爵も専門外ですよ」
「大丈夫よ。専門家に聞くから」
青々とした何かの植物が植えられた植木鉢――これを調査できそうな人物に心当たりがある。
研究熱心な母親から植物園を引き継いで育てている、ヒューバート王子だ。




