運命と出会う (4)
目を覚ますなり、起きているマリアの姿を見たナタリアが仰天した。
「クリス様、まさかずっと起きていらっしゃったのですか?私がベッドを占領したせいで――」
「違うわ。色々考えたいことがあり過ぎて眠れなかっただけ」
部屋のベッドは二つ。
オフェリアとマリアにベッドを使わせて自分は床で眠ろうとしたナタリアを、マリアは認めなかった。
自分とオフェリアが同じベッドを使い、もう一つはナタリアに与えた。ナタリアはかなり抵抗していたが、なら主人として命令するわ、とマリアが言えば、恐縮しながらも従うしかなかった。
「本当に早いのね。もうこの時間から?」
「はい。従業員は多いので、全員の朝食を作るとなると、この時間から始めないと」
マリアは眠るオフェリアに近づき、妹を起こした。
「オフェリア様はまだ眠っていても――」
「だめよ。商会の人たちから気に入られたというのなら、このまま信頼関係を築けるよう、この子もちゃんと働かせて」
オフェリアは寝ぼけ眼だったが、それでももぞもぞと起き上がり、マリアとナタリアに手伝ってもらいながら着替えていた。残っていた夜食のパンをひとつ食べると、ナタリアの手を引っ張って部屋を出ていったのはオフェリアのほうだった。
「お兄様行ってきます。朝ご飯はちゃんと食べに来てね」
元気よく手を振るオフェリアに安堵しながら、マリアも手を振り返して二人を見送った。
妹は夜泣きもせず、姉から離れることに不安も見せない。オフェリアにとっても居心地の悪くない場所になったらしい。妹が落ち着いたのはマリアにとっても喜ばしいことだ。なにせマリアは、自分のことで手いっぱいの状態なのだから。
昨夜伯爵から聞いた話が、頭の中を渦巻いている。キシリアの混乱、王位争い、自分たちの身の振り方……。考えるゆとりができたことで、かえってマリアは落ち着かなくなってしまった。
伯爵との会話を思い出しながら、ほとんど無意識のうちにマリアは自分の頭に触れていた。昨夜、伯爵が触れたところ――なんだか、まだ熱を持っているような気がする。 そう考えることも、マリアを落ち着かなくさせて……。
眠れなくてリースからもらった教本を読んでいたら、いつの間にか夜が明けていた。おかげで商売の基礎はしっかり学べたが。
いまさら眠る気もしなくて、マリアも宿舎を出た。もしかしたらリースもすでに仕事を始めているかもしれない。朝食の時間にもまだ早い。マリアは仕事場へ向かった。
「……あの、リースさん。まさか一晩中仕事してたんですか?」
最後に見た時よりずっと小さくなっている書類の山を見比べ、マリアはリースに声をかけた。
リースは相変わらず笑顔だが、その表情はどこかうつろだ。
「いえ、ちゃんと眠りましたよ。五分ぐらい?」
「それは一瞬気を失ってたとかじゃないんですか。仮眠にすらなってませんよ」
もっとも、マリアもまたおまえが言うな状態ではあるが。
「もうこうなったら、このテンションのまま突っ走るだけです。さぁ山を崩してしまいますよ!」
リースはもう限界を突破してしまったのだろう。諦めてマリアも仕事に取り掛かることにした。
書類の分類はもう終わりそうだったし、エンジェリク語は大勢でやっていただけあってすでに整理が終わっている。ならばキシリア語の書類の時系列整理と、対応するエンジェリク語の翻訳資料を探し始めたほうがよさそうだ。
マリアは、整理された山をもう一度自分で積み上げていくという気の遠くなる作業を始めることにした。
今朝はリースは一度も愚痴を言わなかった。愚痴を言う余力すらなくなっているのかもしれない。ひたすら目の前の書類に集中するリースにマリアもならった。
部屋の中は静かで、しだいに建物の外から人の声が聞こえるようになり、人の行き来が増えていくのを感じ取ることができた。
そろそろ朝食に行ったほうがいいのかもしれない。相変わらず書類に没頭しているリースを、今回ばかりは自分が引っ張っていこう。そう思い、マリアが持っていた書類を片付けた時だった。
筋骨隆々の大柄な男性が、ドスドスと音を立て慌ただしくやって来た。
「おい、馬車に馬をつなげるのを手伝ってくれ。伯爵が急に出発するって言い出した」
「私じゃ戦力になりませんよ。馬は苦手です」
「心配すんな。馬車の準備もまだだから、そっちを手伝えばいい。そこのちっこいのはキシリア人だろ。なら馬には慣れてるんじゃないのか」
「はい」
突然話題を振られ、マリアは思わず頷いた。反射的なものだったが、馬なら大丈夫だ。
大柄な男はチェザーレという名前で、商会の馬番だと軽く紹介された。昼に出発だと思っていたものが、朝食前には出発するという伯爵の急な意向で、馬車の準備も馬の整備も追い付いていないらしい。
「こういう無茶は伯爵にしちゃ珍しいんだが、なんでも今朝方、フェルなんとかってのの姿が近くの町で目撃されたって情報が入ったらしい。俺はキシリアのお家騒動についてはよくわからんが、フランシーヌと仲良しやってるやべえ奴だってのだけはわかった」
道すがらチェザーレの話を聞いていたマリアは、動揺を忙しさのせいに見えるよう努めた。
父の逮捕がフェルナンドの仕組んだものなのかどうかは分からないが、マリアにとっても出くわしたくない人物であることだけは間違いない。フェルナンドとの接触を回避しようとする伯爵の意向は、大いにありがたかった。
チェザーレに連れられてたどり着いたのは、商会の宿舎の裏――広い牧草地になっている。簡易な柵の中を走り回る馬たち、それを追う男たち……。
「あーあ、こっちの焦りが伝わっちまってるな。キシリアで買った馬が多いから、ただでさえ扱いづらいっていうのに」
完全に馬になめられている。
チェザーレも同意見だろう。
追いかけっこでも楽しむかのように、馬たちは軽やかに走り回っている。数人がかりでなんとか馬を捕まえ、馬具をつけていた。
……のだが、馬具をつける担当の青年は明らかに馬に慣れていない。馬の扱いに慣れた者たちは馬を追いかける役目のほうに回っているらしい。
そう判断したマリアは、不安しか感じられない手つきでガースを締める青年のそばに近づいた。
「急いでるんだ。僕たちに力を貸してほしい」
もたもたする青年に不満そうな馬が、マリアのほうを見た。そっと手を伸ばして首筋を撫でれば、仕方がないなぁとばかりに頭を下げた。
轡を噛ませ、手際よく手綱をつけていく。すごい、と青年が感心したように呟いたが、マリアは苦笑するしかなかった。
「手は止めないでくださいね。まだ一頭目なんですから」
馬具をつけ終えると、マリアは馬に乗った。
まだ柵の中で馬は人間と追いかけっこを続けている。マリアは馬を走らせ、逃げる馬の誘導を手伝った。
馬を追いかけていた人間たちはマリアの意図をすぐに察し、自分たちが追って誘導するのをやめ、マリアに追われて逃げてきた馬を待ちかまえる体制に切り替えた。
走り回って満足したのもあるのだろう。馬たちは、一頭、また一頭と捕まり、馬具をつけられていった。
馬の残り数も減って来たとき、一際白く美しく輝く馬に、先ほどの馬に不慣れな青年が馬具を持って近づくのを見て、マリアは血の気が引いた。
「その子はダメです!」
慌てて馬を走らせたが、近づく青年に白馬は不快感を示し大きく嘶いた。
後ろ脚で青年を蹴飛ばし、驚いた青年は尻もちをつく。かろうじて馬の足は当たらなかったが、腰が抜けたのか青年は地面に座り込んだまま動かない。
「落ち着いて。君を侮ったわけじゃないんだ。慣れない人間だから、敬意の払い方が分からなかったんだよ」
声をかけながらゆっくり近づけば、白馬はフンと荒く鼻を鳴らした。不機嫌な様子ではあるが、マリアを見る目に敵意はなかった。
「許してくれてありがとう。次からは気をつけるよ」
マリアが手を伸ばして頭を撫でれば、もっとしっかり撫でて機嫌を取りなさい、とばかりに顔を近づけてくる。
ホッとしていると、ようやく駆けつけたチェザーレが尻もちをついたままの青年を起こした。
「間抜け!リーリエはプライドが高くて男嫌いだから近づくなって、言っておいただろう!」
「すみません、うっかりしてて……。というか、どれがリーリエなのか分からなくなってました……」
牧草地にいた人間がこちらに注目している。大事にならなくてみな安心したようだ。
リーリエと呼ばれた白馬が、明らかに格の違う馬だということはマリアにもわかっていた。
マリアの誘導にも乗る気配がなかったし、他の人間もあえて放置している様子だった。チェザーレのようなベテランが担当している馬なのだろうと考え、マリアも彼らにならって白馬には近づかないようにしていたのだ。
「何の騒ぎですか」
決して大きくなかったのに、彼の声は一帯によく通った。
伯爵の従者ノアが、柵を乗り越えてこちらへやってきた。
「リーリエに不用意に近づいた奴がいてな……まあ何事もなかったから心配するな。ちっこいのがなだめてくれた。キシリア人は馬に慣れてるって聞いてたが、なかなかどうして、やるじゃねえか」
そう言って、チェザーレはぐしゃぐしゃとマリアの髪を撫で回す。ノアのほうをちらりと見れば、相変わらず真意の読めないポーカーフェイスでマリアを見ていた。
「気難しい性格の馬なので気をつけてください。婦人や子供には比較的寛容なものの、それでも格下と見なした相手には容赦がありません。気に入らない相手が乗れば、振り落としてきます」
「伯爵のお気に入りでな。手に余るぐらい育てがいのある女がタイプなんだよ、あの人は」
チェザーレは笑いながら言ったが、マリアは笑っていいものなのかどうか困惑した。
ノアはチェザーレの話には反応せず、リーリエに馬具をつけ始める。マリアもそれを手伝い、リーリエの支度を終えるとノアがチェザーレに振り返った。
「車の準備は終わっています。馬はこれで全部ですか?」
「リーリエが最後だ。ちっこいの、リーリエを連れてノアについていけ」
マリアは頷き、指示通りノアについていった。
慌ただしく人が行きかう中をリーリエを引いて歩き、馬のない馬車の前で止まった。
「リーリエをこちらへ。御者を兼ねて、君はこれに乗ってください。本当は婦人用の馬車なのですが、妹と離れたくはないでしょう。ハンナさんが配慮して、皆さんを説得してくれました。彼女に感謝しておいてください」
そうだった。
男のフリをしている自分は、オフェリアたちとは別の馬車に乗せられても不思議ではなかった。幼く見えるようだし、もっと年齢を下にして偽っておけばよかった。そうすれば、女性たちとの同室も大目に見てもらえただろうに……。
「お兄様!」
馬車に近づくと、オフェリアが嬉しそうに抱きついてくる。
馬車の中はノアの話した通り女性ばかり。中心となって座っているハンナに、マリアは頭を下げた。
「ノア様から、僕が乗れるようはからって下さったと聞きました。ありがとうございます」
「気にしなくていいよ。小さい妹がいたら心配だろう?あんたなんか私の半分もないんだ。イイ男がいてくれたほうが、女たちもやる気が出るってもんさ」
ハンナが快活に笑うと、周りの女性たちも笑った。
「それは……?」
ナタリアの周りに積み上げられている衣類を見て、マリアが尋ねた。
「馬車で移動してる間に任された繕い物です」
「年を取ると目が遠くなって針仕事がやりづらくなるからねぇ。こればっかりは若い子に任せたいのさ」
オフェリアに針は危なっかしいからと、まだ刺繍はやらせていない。マリアがナタリアを見ると、彼女はにっこりと笑った。
「オフェリア様の裁縫の腕は素晴らしいですよ。あっという間に上達してしまって。私のほうがはるかに長くやって来たのに、すっかりかたなしです」
料理といい、裁縫といい、意外な才能を妹は発揮しているようだ。得意なことへの集中力はもともと高い子だったし、人から指示された通りに作業をこなすだけならオフェリアでもできるとは思っていたが……。
セレーナ家のお嬢様だったらやるはずもないことだった。オフェリアの才能は見つからないままだったかもしれない。こんな状況になったからこそ発見されるとは、なんとも皮肉の話だ。
「お兄様、朝ご飯食べに来てって言ったのに、来なかったでしょう」
ちょっと拗ねたようにオフェリアが言った。
「食べに行こうとは思ってたんだよ。でも馬の手伝いに駆り出されてしまって」
「もう。きっと食べにこないって私は思ってたの。だからはい!」
ちゃんとマリアの分の朝食を確保しておいたらしい。
差し出された籠を受け取りながら、マリアは苦笑した。放ったらかしにされて、妹はややご機嫌ななめのようだ。
「ごめん。僕の分を用意してくれてありがとう」
「リースがあれじゃあね。あんたも自分で気をつけないとだめだよ。あいつも仕事に夢中になるとすぐ寝食を忘れちまうんだから」
「そうですね……。仕事を貰いに行くついでに、ちゃんと朝食は食べたのか聞いてきます」
オフェリアから貰った籠を持って立ち上がれば、オフェリアがぎゅっとマリアの服の裾を握った。
「お兄様、どこへ行くの?」
「リースさんのところへ行って、仕事をもらってくるよ。馬車で移動してる間、僕も働いたほうがいいだろうから」
早く戻ってきてね、と声をかける妹に頷き、マリアはリースがいる馬車を探した――探すまでもなく、昨日も会った眼鏡の真面目そうな青年に呼び止められた。
「クリス!すぐリースさんのところへ来てくれ!伯爵がもう次の商談を決めてきたんだ。急いで準備しないと!」
青年と一緒にリースの乗っている馬車に行ってみれば、すでに大量の書類が乱舞している。真ん中で新たな書類と格闘していたリースは、マリアの姿を見るなり指示を飛ばしてきた。
「クリス君、この契約書の清書を三部、キシリア語とオーシャン語の翻訳版を二部ずつ書いてください。それが終わったらこちらの書類のエンジェリク語翻訳をお願いします」
彼らは、当然マリアもこの馬車に乗るものだと思っているようだった。説明している時間もなさそうだし、マリアは諦めて馬車に乗り込んだ。
――またオフェリアに拗ねられてしまうが、仕方ない。




