火が点く (1)
マスターズを紹介されたリースは、大喜びで仕事をやっていた。
やはりドレイク卿のもとで働いてきたマスターズは優秀で、リースの激務にも軽々とついてくる。
「クリス君にメレディス君にアレン君……。優秀な人ばっかりで、仕事がはかどって楽しくて仕方ありません。アレン君、いっそうちで本当に働きませんか」
「それは、さすがにちょっと……」
マスターズはあくまで潜入捜査のために商会に来ているのだと、ホールデン伯爵はもちろんリースにも伝えているはずなのだが……。
思いっきり仕事をやらせてていいのかな、と思いつつも、マリアは放置していた。
ゴーイング商会やグレアム伯爵のことは気になるが、久しぶりに顔を合わせたメレディスが、何が何でも自分を避けようとすることのほうがマリアは気になっていた。
仕事で必要な会話には応じるし、最低限の挨拶はしてくれているが、それ以外は徹底的にマリアと会話をするのを避けていた。
何か心境に変化があってマリアと決別したいというのなら、仕方ないと思う。
でも話をして、ちゃんと互いに納得し合ってから別れるものじゃないのか。それぐらい心を許し合っている関係だったと思っていたのに。
……だんだん腹が立ってきた。
マリアは、たしかに恋人としては誠実ではない。でも怒る権利ぐらいはある。と、都合のいい言い訳をして、従業員寮の、メレディスの部屋の合鍵をホールデン伯爵から貸してもらうという反則行為を強行した。
「お帰りなさい、メレディス。話があるの――待ちなさい!逃げるのなら、私だって考えがあるわよ!」
部屋を開けて、合鍵で先に侵入していたマリアの姿を見るなり踵を返そうとするメレディスを、マリアは制止する。
ボタンを引きちぎる勢いでシャツを脱ぐマリアに、メレディスがぎょっとした。
「なんで脱ぐの!?」
「逃げるのなら、大声を出して叫ぶから。女の叫び声を聞いて駆けつけてきた人たちが、私のこの姿を見たらどう思うかしら」
「そんな理由……。とにかく前、締めて!」
顔を真っ赤にして視界に入れまいとするメレディスに、何をいまさら、とマリアは頬を膨らませる。
シャツはボタンが取れてしまったので、ベストのボタンをきっちり留めておく。胸元が露わになっているが、この部屋にはメレディスしかいないからいいだろう。
メレディスはマリアから必死で距離を取り、壁にぴったりと貼り付いている。
それに近づくのはやめ、マリアは部屋のベッドに腰掛けた。
「私と別れたいのなら、はっきり言いなさい。私を避けて、自然消滅を待つのは卑怯よ」
「……別れの言葉を聞きたくないから、君のこと避けてたんだよ」
メレディスががっくりとうなだれる。
――何を言っているのか、意味が分からない。どうしてマリアが、メレディスと別れたいなんて思うと考えたのか……。
まさか。
「嘘でしょ。メレディスまで、私が本気でチャールズ王子と結婚したがってるなんて思ってるわけじゃないわよね。私がそんなこと望むような女だと思ってたの?」
はっきり言おう。ものすごく心外だ。
伯爵といい、メレディスといい。マリアのことをそんなふうに思っていただなんて。
「違うとは思ってたよ。公爵位を自分で継いで……両親のいない君が王子の妃になるのは危険だ。後ろ盾のない君は、王子の寵愛にすがるしかなくなってしまう。そんな立場、君ならごめんだって、一蹴するだろうなって」
さすがにもとは貴族だけあって、メレディスも、そういった立場の危うさはよく理解している。
でも、とメレディスは言葉を続けた。
「王妃になりたいって、もしかしたらそう考えてしまうんじゃないかって、不安でならなかったんだ。何も持っていない僕より、王位継承権のある王子のほうが、君には相応しいのは事実だ」
「……もう。王子なんかより、自分のほうが良い男だって――もっと自分に自信を持ちなさい」
クスクスとマリアが笑えば、メレディスの顔にも、いつもの明るい笑顔が戻った。
「誤解が解けたのなら良かった。合鍵は伯爵に返しておくから、心配しないで。こんな反則技は、今回限りにしておくわ」
腰かけていたベッドから立ち上がるマリアを、メレディスが引き止める。
「待って。来てくれたのなら、絵を見ていって」
マリアをまたベッドに座らせ、メレディスは部屋の片隅に積み上げられた荷物を漁り始めた。
メレディスの部屋には、ベッドと簡素なテーブル、画材道具一式と、いまメレディスが漁っている布のかかった荷物の山だけ。
彼の様子から見るに、どうやら描き上げた作品をそこに並べているらしい。
その中でも特に大きなキャンバスを引っ張り出し、厳重に絵を包む布を取った。
「これは……ドラードの町ね。真っ赤な夕陽が沈む時間のあの町は、夢のように美しいのよ」
「僕もそう思った。昼と夜が入れ替わる幻想的な空の色も、王城に沈んでいく夕陽も描き逃したくなくて、良いアングルを探すのに一週間もかかったよ」
メレディスが見せた絵は、キシリアの王都ドラードを描いた風景画だった。
日が沈んでいく美しくも儚い町の姿を、完璧に描いている。町も、空の色も、マリアの記憶にあるままだ。
題材も絵の技術も素晴らしいが、それ以上にマリアの心を惹きつけたのは、メレディスのドラードの町に対する思い入れだった。
広いドラードの町並みを、限られた空間であるキャンバスの中にしっかりとおさめ、夕陽が沈む短い一瞬の姿を描ききっている。
冗談めかして話したが、これを描くために、長い時間をかけてドラードの町並みを観察してくれたに違いない。
自然と、感嘆のため息がこぼれた。
「素晴らしいわ。きっとこれは、あなたの傑作になる。ロランド様が、よくこれを持ち帰ることを許したわね」
「自分に買い取らせてほしいと、かなりねだられたよ。でもこれは、マリアに贈るための絵だったから」
「私に……?嬉しいわ。でも、こんなに素晴らしいものを、私が一人占めするなんて。そんな……」
芸術に関心のないマリアでも、喉から手が出るほど欲しくなる作品だ。
だからこそ、多くの人に見てもらい、メレディスの才能と情熱を披露して、評価してもらうべき――自分のものにしたい欲望と、こんなにも葛藤させられるものは初めてだった。
「いいんだ。マリアへの想いがあったから描けたものだから。ドラードは素晴らしい町だね。あの町を、一緒に眺めたかったよ」
「そう……。そうね。私も、いつかメレディスと一緒に、キシリアを見て回りたいわ」
視線を絵に奪われたまま、マリアが答えた。
「絵のお礼ができるものが、あればいいのだけれど……」
「それなら、マリアのご両親を描かせてほしい」
「私の両親?」
「キシリアで聞いたんだ。君の住んでいた家や生家はすべて焼けてしまって、ご家族の絵は一枚も残っていないって。君たちに似ていたんだろう?なら、君やオフェリアをモデルにしながら姿を教えてもらえれば、僕でも描けるんじゃないかなって」
「両親の絵なら、一枚だけ持っているわ。色あせてしまったけれど」
キシリアから逃げ出す時に、侍女が持たせてくれた小さな両親の肖像画。
大切に取り扱ってきたが、旅をしていては、多少の損失は避けられなかった。
「じゃあ、それを複製するよ。まったく同じにとはいかないけれど」
「同じにする必要はないわ。メレディスの絵が好きよ。メレディスらしい絵で描いてくれれば、それでいいの」
メレディスにきつく抱き寄せられ、彼の腕の中でマリアは苦笑する。
「男の人って、欲望に忠実すぎない?」
「可愛いこと言って煽るマリアも良くないと思うよ。しかも僕、しばらく君に触れられない生活してたっていうのに。そんな目のやり場に困るような格好して。前から思ってたんだけど、マリアは自分のことを粗末に扱い過ぎだよ」
そんなことないわよ、と反論するマリアに、メレディスがちょっと意地の悪い顔をする。
「ラスボーン侯爵夫人と揉めた一件。本当に不可抗力の被害者だったの?」
なんでそれを、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。だが、表情には思いっきり出てしまったらしい。
今度はメレディスに苦笑されてしまった。
「キシリアから帰って来てから、絵描きとしての仕事も始めたんだ。まだ片手で数えられる程度だけど。絵を描いている間は世間話をして間持たせしたりするから、自然とゴシップや噂話なんかは知る機会が増えて……。こら、露骨に目を逸らさない。やっぱり侯爵夫人に攻撃されて怪我をしたって言うのは、マリアから仕掛けたことだね」
「……ホールデン伯爵には、それを話した?」
以前、メレディスに関わる事件で、自分から危険な場所に飛び込んで行ってダメージを負ったことがあり、伯爵からとっても怒られた。その経験を思い出し、メレディスの腕の中でマリアは小さくなる。
「話してないよ、まだ。でも、君がわざと傷つくことをし続けるなら、伯爵に告げ口してお仕置きしてもらう」
「伯爵に言わないで。なるべくやらないようにするから」
「……それでも、なるべくなんだね」
だって、絶対とは言い切れないんだもの。メレディスの背に腕を回し、マリアは心の中で言い訳をした。
まだ未熟な自分が、自分より格上の人間を引きずり降ろそうと思ったら、傷を負うのは避けられない。またそれが必要になる時がやって来るかもしれない。
それが無縁の世界で生きるつもりがないのだから、例え伯爵に何度怒られることになったって止められるはずがない――できるだけお仕置きは受けたくないが。
「心配してくれるのは嬉しいわ。自分で感じてる以上に、私のこと想ってくれる人たちに助けられてるのはわかってる。でも、生き方を変えられないのが私なのよ」
「そうだね。そうじゃなくなったら君のいまの輝きは消えてしまうから、芸術家としては変わらないでほしいんだけど……。僕もたいがい、罪深いな」
似た者同士だものね、とマリアは笑う。
「ところで私、これも外してしまったほうがいい?」
自分のベストを指して聞けば、それは僕が外したいからだめ、と真面目に返されてしまった。
「念のため言っておくけど、その姿で帰るのも絶対だめだからね。本当に襲われるよ。というか、こんな恰好させたって伯爵に知られたら、僕までとばっちり受けそう」
「帰りはメレディスの服を借りることにする」
メレディスが自分のベストのボタンを外していくのを眺めながら、マリアは言った。




