帰って来た人たち
この数日間、エンジェリクの王都では雨が降り続けていた。
窓から外を眺めるオフェリアの足元で、大きな犬のマサパンが退屈そうに横になっている。
「雨が続くから、お散歩に全然行けないね。来週は晴れるかなあ。レオン様と一緒に走りに行くお約束があるのに。リーリエも退屈しちゃうよ」
妹の髪を梳きながら、そうね、とマリアも相槌を打った。
「さあ、もうベッドに入る時間よ」
マリアが声をかければ、オフェリアがベッドに入る。ベッドの近くに椅子を引っ張り、本を持ってマリアはそれに腰かけた。
マサパンもついてきて、今度はマリアの足元で横になる。
「明日は、お城へ連れていってくれる?」
「明日は評議会だから、あなたは連れていけないわ。ヒューバート殿下のところへ寄る余裕がないもの」
「そっか……」
しょんぼりとする妹の頭を撫で、マリアは本を読み始める。
今日は七つの海を冒険し、宝物を探す少年の物語だ。
「……伯爵から、お手紙届いた?」
「いいえ、まだよ」
「なら、まだ海の上かなあ。みんな元気に帰ってきてほしいね」
マリアはもう一度妹の頭を撫でた。
キシリアへ行ってしまったガーランド商会――ホールデン伯爵やメレディスから手紙が送られてくることは、ほとんどなかった。代わりにマリアに近況を知らせてくれたのは、伯爵の従者ノアだった。
伯爵やメレディスは、キシリアでの仕事に夢中で取りかかっているらしい。没頭すると他が見えなくなるのは、彼らの共通点だ。
同じ共通点を持つガーランド商会の事務長デイビッド・リースも同じ有り様らしく、恋人に便りのひとつも寄越さないことを、侍女ナタリアと共にマリアは苦笑していた。
ノアはこまめに手紙を送り、最後の手紙には、これからキシリアを発つこと、海の上なのでしばらく手紙は送れないことが書かれていた。
「みんなに早く会いたいな……」
「私もよ」
オフェリアが眠ったのを確認し、最後の灯りを消す。
マリアが立ち上がると、マサパンも一緒に立ち上がった。
「今日はオフェリアと一緒に寝ないの?」
自分について部屋を出るマサパンに、マリアは声をかけた。
マサパンは廊下をうろうろと歩き回り、落ち着きなくあちこちを嗅ぎ回っている。顔を上げ、何かに気づいたように走り出した――と思ったら、立ち止まりマリアを振り返る。
ちゃんとついてきてるかどうかを確かめるように。
……その姿には、見覚えがある。まさか、という思いに、マリアはマサパンのあとをついていった。
マサパンは裏口の前で座り込み、マリアを見上げて尻尾を振る。ノックをするように前足を扉に置く姿に、マリアは笑ってしまった。
閂を外し、扉を開ける。やはり雨の日は、彼の訪問を期待したほうが良さそうだ。
「ヴィクトール様!」
濡れるのも構わず、マリアはヴィクトール・ホールデン伯爵に抱きついた。
雨から庇うようにマリアをコートに入れながら、伯爵はマサパンを見て苦笑する。
「相変わらず優秀だな、その子は」
「伯爵がワンパターンなだけです」
従者のノアも、以前と変わらず主人の伯爵に辛辣だ。
「いつお戻りに?」
「実は、一週間ほど前にはエンジェリクに戻っていた。途中、商会の仕事で何度か寄り道をして……。君たちを驚かせたかったものでな。ノアには、あえて手紙を書かないように言ってあったのだ」
子供みたいなことを企むのだから、とマリアは笑った。
伯爵とノアを招き入れ、濡れた服を乾かす。まだ暖かい季節だから、今回は暖炉を点けなくても大丈夫だろうか。
「湯の準備ができました。今夜も、私のお手伝いはいりますか?」
伯爵の濡れたコートを広げながらマリアが聞けば、もちろんだ、と即答されてしまった。濡れたマントを脱ぐノアにも、マリアは声をかける。
「ノア様も、よければお背中を洗いましょうか?」
「……きちんとお断りしますから、殺気を収めてください、伯爵」
マリアの髪を撫でる伯爵の指の感覚に、瞼が重くなる。
うつらうつらとし始め、マリアは自分を抱きすくめる伯爵の腕の中でもぞもぞと動いた。体勢を直し、伯爵に抱きつくかたちで彼の胸にもたれかかる。
伯爵からは、まだ潮の香りただよっているような気がした。
「キシリアはいかがでした?」
故郷キシリア。
あの国ではいま、二人の男が王冠を巡って争っている。
正統なるキシリアの王ロランド。先王の時代から王位継承を巡って対立を続ける伯父フェルナンド。
マリアの父クリスティアンは、先王に仕えた宰相であった。先王と共にフェルナンドと戦い続けたクリスティアンは、ロランド王のため、忠誠と命を捧げた……。
「内戦はこう着状態に陥った。長引けば、金のないフェルナンド側が不利になるだろう。だがロランド王も、早期終結に焦っている」
睡魔に抗うのに精一杯で返事ができないマリアに、伯爵が話を続ける。
「内戦につけこみ、隣国のオレゴン軍がキシリアへ侵攻してきている。私がいる間にも町をオレゴンに奪われていた。王冠にしか興味がないフェルナンドなら気にもならんだろうが、キシリアを治める使命を背負ったロランド王にとっては、フェルナンドに勝てばそれでいいというわけにもいかぬだろう。内戦などさっさと終わらせ、領土奪還を果たしたいはずだ」
キシリアでは夏になると、戦争中であっても夏休みとなる。
冗談のような話だが、キシリアの夏というのはそれぐらい暑さが厳しい。敵兵に殺されるよりも、暑さで命を落とす危険のほうが高いぐらいに。
だからロランド王は、戦時中にも関わらず国を離れてエンジェリクに訪問できたし、ガーランド商会も内戦が続く国へ渡った。
戦を仕掛けるなら雪も解けた春。そして夏の間は中断し、秋に決着をつける――冬が到来する前に。
キシリアはもう秋を迎え、王もフェルナンドも、決着を望んでいることだろうか……。
「……なにか、決め手になるようなものがないと……ロランド様も、あまり芳しい状況ではないということですね……」
マリアの意識はだんだんと暗闇へと沈んでいく。伯爵も、マリアが眠るのを促すように頭を撫でてくれていた。
「……君に、おめでとうと言ったほうがいいのかな」
「なんのことですか……?」
ほとんど目をつむったまま、マリアは伯爵に言葉を返した。
「チャールズ王子との婚約だ」
パチリ、とマリアの目が開く。睡魔が引っ込んだ。
エンジェリクに帰って間もないというのに、伯爵はもう、マリアとエンジェリクの第三王子との婚約を知っていたのか。
「単なる候補の一人になっただけです。本気でめでたいと思っているわけじゃないですよね?」
「めでたいことではあるだろう。他に対抗馬のいない王子の妃。王妃の座が約束されていると言っても過言ではない」
「王妃になるのなら、ヴィクトール様たちとは手を切ることになります。ヴィクトール様を切り捨ててまで、手に入れる価値はないと分かっているくせに」
「チャールズ王子には会ったのか?なかなかの美男子だと聞いたが」
「……お会いはしていませんが、姿絵は見たことがあります。それに、陛下と兄王子のほうのにはお会いしたので、なんとなく想像はつきます。ヴィクトール様の足下にも及びませんから、ご心配なく」
チャールズ王子など、マリアにはまったく関心のないことだった。退屈な話題に、また瞼が重たくなっていく。
しかし、マリアは自分の体勢が入れ替わるのを感じて再び目を開けた。いつの間にやら、伯爵に押し倒される状態になっている。
「ヴィクトール様、私、さすがにもう眠いです。それに明日は評議会に赴く予定なので、徹夜はできません」
「その予定は、すでに今日のものになっているようだ」
「ならなおさら眠らせてください」
「しばらく禁欲生活を続けていた反動だ」
「お気持ちはお察ししますが、後日改めて……くださるつもりはないんですね」
自制と清貧が苦手だと伯爵が豪語していたことを思い出し、マリアは諦めることにした。
そのくせ、翌朝マリアがあくびをしながら伯爵のクラバットを結んでいたら、寝不足か、などと言ってくるものだから、伯爵の頬をつねっておいた。
「いつもと逆だな」
悪戯が見つかった子どものように笑う伯爵に、マリアも溜息をつき、つねったほうの頬にキスする。
「無事にお帰りくださって、安心しました。不安な気持ちがなかったわけではないのですよ」
「……手紙を書けなくてすまなかった」
頬にキスを返されながら、いいんです、とマリアは呟く。
「そのほうが、ヴィクトール様らしいですから。商会のことに夢中になったら、私のことなんか忘れてしまうと分かっておりました。私のもとに元気に帰ってきてくださるだけで、十分です……」
食堂では、すでにオフェリアが朝食を食べていた。お腹が空いて待ちきれなかったようだ。
「お姉様、お寝坊さんよ」
「お客様がいらしてたから、その対応に出ていて遅くなったのよ」
伯爵が食堂に姿をあらわすと、オフェリアは歓喜した。
上座に伯爵が座り、両隣にマリアとオフェリア。ノアにも同席を勧めたのだが、従者に徹する彼からは遠慮されてしまった。
「伯爵が帰ってきてくれて嬉しいな。そこに伯爵が座ってるのを見るのも久しぶりだね!」
ティーカップに口をつけながら、伯爵の笑顔が反応するのをマリアは見逃さなかった。
「……その口ぶりだと、最近は、私以外の誰かが座っていたのかな」
「んーっとね。一昨日が警視総監のジェラルド様で、その前が、王国騎士団副団長のレオン様。伯爵がキシリアに行ってからは、二人がよく遊びに来ていたの」
オフェリアにいつもの笑顔を向けつつも、浮気はほどほどにするように忠告しただろう、というオーラをマリアに向けてくる。
そんな伯爵に気付かないふりをして、マリアも紅茶を口にした。
「みんな元気にしてた?メレディスやリースさんも元気にしてる?」
途端、伯爵が動きを止めた。意外そうな顔で、マリアたちを見ている。
オフェリアですら、その変化には気づいた。
「デイビッドは相変わらずだ。ナタリアに会うために仕事を一気に片付けてしまうと言って、一週間ろくに眠ろうともしなかったので、実力行使で寝かしつけてきたところだ。メレディスは一週間前、エンジェリクに着いた時に別れた。君たちに、キシリアで描いた絵を見せたいからと、先に王都へ向かったはずだが……会いに来ていないのか?」
マリアはティーカップをテーブルに置いた。不吉な予感に、胸の奥がざわつく。
「王都に向かう途中で、メレディスに何かあったということですか……?」
「いいえ。従業員寮で、彼の姿は目撃されています。王都には着いているはずです」
ノアが口を挟んだ。
――ということは、一週間も前には王都に着いていたのに、メレディスはマリアたちに会いに来なかったということか。
その事実は、思った以上にマリアにショックを与えた。
「君たちに会いに行くはずが、何か題材を見つけて、また絵を描いているのかもしれないな。それで、君たちのことも忘れてしまっているのかもしれん」
伯爵がフォローするように言ったが、それでもマリアの不安は消えなかった。
メレディスは、意図的にマリアに会わないようにしているのではないか、と。




