毒の使い方 (2)
加害者、被害者、そして目撃者たちは、華やかなパーティーホールではなく、静かな応接室に集められていた。
重い沈黙が部屋を包み、侯爵夫人は、人を殺めてしまいそうなほどの強烈さでマリアを睨み付けている。
マリアのそばにはウォルトン副団長が立っており、侯爵夫人とマリアの間には立ち塞がるようにドレイク警視総監が立っていた。彼らがそばにいては、ラスボーン侯爵夫人も手出しはできない。
やがて、杖をついた老女が部屋に入ってきた。ゆっくりと歩く彼女は、上座に腰掛ける。
「話は聞きましたよ。困りますわね、ラスボーン侯爵夫人。このような騒ぎを起こすだなんて」
「またしても、先に仕掛けてきたのは彼女のほうだ。妻の報復は正当なものである」
ペンバートン公爵夫人の言葉を遮るように、ラスボーン侯爵がまくし立てた。
「妻の化粧品に毒を混ぜるなど、許されぬ行為だ。ドレイク卿、逮捕されるべきはエロイーズではなくその女のほうだ」
そう言って、ラスボーン侯爵はマリアを指差す。公爵夫人はマリアに視線を移した。
「侯爵はそのように話していますが……貴女はいかがです。何か言いたいことは?」
「侯爵の言い分は、お話になりませんわ」
マリアは鼻先で笑い飛ばした。
侯爵夫人につかみかかられたせいでほどけた髪が、ばさりと肩にかかる。
「よろしいですか、ラスボーン侯爵。いつ触れたのかも忘れた頃に効果が出る――そんな都合のよい毒が、果たして本当に存在するのでしょうか」
マリアの反論に、愕然とした面持ちで侯爵が力なく指を下ろす。
「存在するかもしれませんね、世界中を探し回ればあるいは。いつ、どこで接触したかも分からないような毒を発見する――矛盾しておりますわ。その時点で、私のホラだと笑い飛ばすべきでしょう」
「ほ、ホラ……?嘘だったのか……?」
「さあ、それはいまの段階では分かりませんわ。だって、いますぐに効果が出るものではないのでしょう?ならば私の話が本当だったのか否か、その時が来るまで誰にも分かりません。ラスボーン侯爵夫人の肌が腐り始める、その日まで」
意味ありげにマリアが笑いかければ、侯爵夫人は恐怖に顔をひきつらせ、ひいっと悲鳴を上げた。
顔を押さえて錯乱する妻を、侯爵が支える。しかし夫人は、自分の美しい顔に起きる恐怖に支配され、夫の存在すら意識にないようだった。
「それで。私はどのような罪に問われるのでしょう。公衆の面前で恥をかかされた意趣返しに、ラスボーン侯爵夫人をからかいました。それは犯罪なのでしょうか」
「……いかなる罪にも当たらない」
ドレイク警視総監が評を下した。
「たしかに、いささか度を越した悪質な冗談ではある。しかしオルディス公爵は、毒を仕込んだとは明言していない。あくまで、毒についての可能性をほのめかしただけ。脅迫も自白も成立していない。ラスボーン侯爵夫人の暴行は正当なものではなく、情状酌量の余地はない。やはり逮捕されるべきは、エロイーズ・ラスボーン侯爵夫人である」
「つ、妻は毒を盛られたんだ!殺人犯だぞ!」
「証拠がない訴えには応じられない」
「身体検査をしろ!それに屋敷中……周辺もくまなく捜査しろ!必ず証拠が見つかるはずだ」
「ラスボーン侯爵」
取り乱す侯爵に対し、ドレイク警視総監が氷のように冷たい声で言った。
「万一彼女の話が本当だったとしても、証拠は見つからないだろう。いまこの場で毒が発見されたとしても、それは証拠にはならない。何故なら、ラスボーン侯爵夫人が本当に毒を盛られたかどうか、それが証明ができないからだ」
いつ効果を発揮するのかもわからない毒。
そんな毒では、盛られたことを証明することは不可能だ。マリアが侯爵夫人に話したように、果たして顔の異変が毒のせいなのか、因果関係を証明できないのだから。
「身体検査も家宅捜査も拒否するわ」
沈黙していたペンバートン公爵夫人が、口を開いた。
「せっかく皆さんが楽しんでいらっしゃるのに、役人が立ち入るだなんてお断りよ。それも、何の確証もない話で。お客様の気分を害するような行為は認めないわ」
御意に、とドレイク警視総監は頭を下げる。
これで決まったな、とマリアは思った。ペンバートン公爵夫人が捜査を拒否した。この疑惑は、これで終いということだ。これ以上の追及にペンバートン公爵夫人が協力しないというのであれば、ラスボーン侯爵は訴えを取り下げるしかない――真相がどうであれ。
「小娘、覚えておくがいい。私を敵に回したことを、必ず後悔させてやるからな」
負け役らしい捨て台詞を吐き捨て、侯爵は、いまだ恐慌状態の妻と共に部屋を出ていく。
マリアはペンバートン公爵夫人の前に進み出て、ふわりとお辞儀をする。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
「ほほ、退屈を紛らわすにはなかなか面白い見せ物でしたよ。それで、ドレイク卿。あの女を逮捕して、何が目的かしら?」
ペンバートン公爵夫人はおっとりと微笑みながらも、眼差しは抜け目なくドレイク卿の態度を探っていた。
ドレイク卿は動じる様子もなく、普段と変わらぬポーカーフェイスだ。
「夫の贈収賄疑惑について。ラスボーン侯爵夫人を見張る口実で、侯爵の周囲を探らせます。レミントン侯爵との繋がり……必ずや尻尾をつかんでみせましょう」
「あいつ、王妃派だったのか。いつの間に中立から転身したんだ」
ウォルトン副団長が口を挟んだ。
「いまも変わらず中立派だ。金を積まれれば、王妃派にも便宜を図っているだけでな。次の法務長官にレミントン侯爵が推薦している人間を推すよう、頼まれているらしい」
「ああ、それは、お前にとって一番目障りな人事だな。お前のところの部署を監視する立場になるわけだから。王国騎士団にも口出しできるようになるから、僕にとっても有難くない話だ」
ペンバートン公爵夫人が、マリアを見た。
「つまり、貴女は宰相派ということかしら。オルディス公爵」
「……私は、そんなことでは動きません。もっと私的で……個人的感情で動く人間です。単純に、あの女性が嫌いだっただけです」
「まあ」
ほほ、と公爵夫人が声をあげて笑う。
「私にも嫌いな女がいるから、よく分かるわ。そうね。仕掛けるのなら、単純で、下らないぐらいの理由のほうが面白いわね。政治的理由だとか、そんなもの。つまらないだけだわ」
持っていた杖でトン、と床を小突き、公爵夫人はわずかに顔を曇らせた。
「それにしても王妃の外戚も、ずいぶん出しゃばるようになってきたものね。王太子擁立に向けて、本格的に乗り出してくるつもりなのかしら」
「父はそう考えております。公爵夫人も、どうぞ身の周りにはお気をつけて」
「私の権威も、もう大したことはないわ。あの女に睨みを利かせるのも、そろそろ限界でしょうね。私に代わる女性を、早く見つけたいと思っているのだけれど」
マリアを見つめ、公爵夫人がにっこりと微笑む。マリアはその微笑に応えず、静かにもう一度頭を下げるだけだった。
それから数日後。
マリアはいつものようにドレイク警視総監の執務室で秘書として働き、相変わらず空いた時間には、チェスでの対戦を挑まれていた。
「エロイーズ・ラスボーンは領地へ下がり、侯爵監視のもと、そこで療養するようだ」
「あの女が王都から出ていくのなら、ひとまずは溜飲を下げましょう。何の償いにもなりはしませんが。あの女の顔を見ずに済むのなら、被害者の方々も多少は心落ち着くでしょうか」
「ラスボーン侯爵夫人の保釈金は、件の事故の遺族への賠償金として寄付しておこう。金で何が贖えるというものでもないが」
「ないよりはましです。痛ましい子どもの死を悼む気持ちは、大事ですもの」
秘書としての権限を使って過去の捜査資料を読んでいたマリアは、ひとつの事故を見つけた。
ある日の早朝、平民の子供が貴族の馬車に跳ねられて命を落としたというもの。
子どもの両親が訴え出たが、捜査は強引に打ち切られ、犯人の名すら明かされることはなかった。
その馬車は、愛人のもとから朝帰りをするエロイーズ・ラスボーン侯爵夫人のものであったため、醜聞を疎んだ侯爵によって揉み消されてしまったのだ。
事故のことで、あの女の罪を問うことはもうできない。
だからマリアも、容赦なく彼女を陥れた。加害者であるはずのマリアは罪に問われることなく、被害者が泣き寝入りするように。
マリアが果たして本当に毒を仕込んだのかどうか、ラスボーン侯爵夫人には分からない。自分の顔が醜く腐り始めるその日まで。
これから先、夫人は吹き出物ひとつにも、毒が効果を発揮し始めたのかもしれないと神経をすり減らすことになる。
永遠に解けることのない呪縛――それこそが、マリアが仕込んだ最大の毒だ。何もせずとも口先一つで相手に毒を盛れる。毒と言うのは本当に面白い。
「貴女の機転は、大いに役立った。私は感謝の意を示さなければならない。女性の顔に、傷まで作ってしまった」
「気になさる必要はありません。もうすぐ傷跡も消えてしまいます」
ラスボーン侯爵夫人につけられた頬の引っかき傷は、かすかに赤い線となって、まだマリアの顔に残っている。
気にするほどのものではないと思うのだが、ナタリアもウォルトン副団長もドレイク警視総監も、マリア以上にマリアの顔の傷を気にしていた。
「ですが……ドレイク卿が気になさるというのでしたら、何かご褒美を頂きましょうか」
「私でできるものなら、何なりと」
かすかにドレイク卿が笑った。
「では、ジェラルド様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「は……」
マリアが微笑んで言えば、ドレイク卿が凍りついた。
「だめですか?」
「だめというわけでは……。それは、何も褒美などにしなくとも……」
「あら、ジェラルド様ったら。そんな甘い手でよろしいのですか?」
動揺したドレイク卿に目を輝かせ、マリアはクイーンを動かした。ドレイク卿の白いキングを追い詰め、チェックメイトだ。
キングに迫るクイーンを見つめたドレイク卿は、何度か目を瞬かせ、それから笑った――今度ははっきりと。
「貴女の心理戦も、腕を上げたものだ」
「初勝利です。今回は私が勝者となって、ジェラルド様を言いなりにする番ですよ」
白いキングを手に、マリアはニヤリと笑う。
「今夜は、優しく可愛がってくださいね。あまり恥ずかしい行為を強いられるのは嫌です」
駒を片付けていたドレイク卿が再び動揺し、盤上の駒を引っくり返した。
初めて会ったときは彫像のようにクールだった彼が動揺する姿は、なかなか見物だ。
「またチェスをしてるのか。お、その様子だともしかして今回の勝者はマリアか」
冷やかしにやってきたウォルトン副団長に、私が勝ちました、とにこやかにマリアは返す。
「ならこれでもう彼女に用はないな。マリア、今夜は君の屋敷に――」
「だめだ」
ウォルトン副団長の言葉を、ドレイク卿が遮る。
「申し訳ありません、レオン様。今夜は、ジェラルド様とオペラの約束をしておりまして。オフェリアも楽しみにしておりますので、今夜ばかりは私も譲れません」
マリアもごめんなさい、のポーズを取って言葉を続けた。
「おいおい。ジェラルド、彼女が勝たないのが不満だったんだろう。マリアが勝ったんだから、もうお前はマリアに興味はないはずだ」
「私は彼女に惚れているのだろう。そう言ったのは、他ならぬ貴公だ。チェス勝負に一度負けたぐらいで、執着が終わるはずがあるまい」
「くっ。またもや開き直りか……。お前、本当に面倒な性格をしているな」
「何とでも言え」
相変わらず良いコンビだ。マリアはクスクスと笑い、立ち上がった。
「それでは、本日の業務はこれで終了です。着替えがあるので、私はお先に失礼いたします」
「あとで迎えに行く」
「オフェリアと共に、お待ちしております」
マリアの手を取って口付けるドレイク卿に挨拶し、執務室を出た。
扉を閉める直前、まだウォルトン副団長とドレイク卿は言い合いをしていたが――男の喧嘩に女は首を突っ込まないもの……ということにして、放っておくことにした。




