毒の使い方 (1)
「お姉様、今夜は一段と綺麗ね」
着飾ったドレス姿のマリアを見て、オフェリアが言った。
「ありがとう。今夜は気合いを入れて仕上げたのよ。オフェリアに褒めてもらえる出来栄えなら、大丈夫ね」
今夜の夜会の招待主は、ペンバートン公爵夫人。夫人と呼ばれているが、実際には未婚者。エンジェリクの先代国王の妻となるはずだった女性だ。
先代のエンジェリク王は離婚と再婚を繰り返し、十三人目の妻との再婚直前に病死した。すでに数年前から男としての機能を失っていた王とは肉体的な関係はなく、長い年月を共にした親友でもあった。
そのため、現在のエンジェリク王が即位した後も、先王の良き友人として一目置かれた存在であり、王にすら人脈を持つ貴族社会でも特別な女性である。
夜会やサロンの招待を受け続けたマリアは、ようやく彼女の夜会にまで呼ばれるようになった。今夜は気合いを入れて、臨む必要がある。
「いいなぁ。私も綺麗なドレス着て、いつかパーティーにお呼ばれしたい」
「もう二、三年もすれば、あなたも社交界デビューすることになるわよ。そのためにもいまはしっかりお勉強して、自分を磨かなくちゃね」
マリアが頭を撫でれば、オフェリアは満面の笑顔で頷く。
妹が社交界デビューする時のため、マリアは顔を売り、人脈を繋いでいるのだ。
この子がデビュタントを踏む時には、マリアよりも華やかで、美しく飾らせてあげたい。
――だから今夜の夜会は、ひとつ大きな勝負の場になる。
「ようこそ、マリア・オルディス公爵。時の人である貴女に会えることを、コンスタンス様も楽しみにしていらっしゃったのよ」
マリアを出迎える女性は、件のペンバートン公爵夫人ではない。公爵夫人の取り巻きの一人。
取り巻きから噂を聞き入れた公爵夫人が招待客を選び、夜会の開催を決める。
高齢の夫人に代わって任され彼女たちが夜会を執り仕切り、彼女たちからの覚えがめでたければ公爵夫人へ案内される――そういった一連の流れができていた。
取り巻きはマリアに挨拶の言葉はかけたものの、公爵夫人へは取り継がなかった。
「オルディス公爵」
「ご機嫌よう、ドレイク卿。執務室以外でお会いするのは久しぶりですね」
「そうだな。ドレス姿の貴女に会うのも久しぶりだ」
ドレイク卿に挨拶をしながら、マリアは周囲を見回す。彼がいるのなら、ウォルトン副団長もいるのではないのかと思っていたのだが……。
「ライオネルなら、そこだ」
マリアの視線の意味を察したドレイク卿が、柱の影を指す。
彼の性分には似合わない物影に、ウォルトン副団長がいた。
「気付かなかったふりをしたほうがよいでしょうか」
「私はそのつもりだ。ラスボーン侯爵夫人が来ている」
だから隠れているのか。マリアも納得した。
「今夜は夫連れのようなので、いつものような軽率な振る舞いはしないだろう――と信じたいが、厄介事は無視するに限る」
「そうしたいのは山々なのですが、私も彼女の恨みを買ってしまっているので、放っておいてくださるかどうか……。すでに熱い視線を送っていらっしゃいますし」
「年の離れた妻を、夫は甘やかしている。多少の揉め事は、侯爵の力でどうにでもなってしまうだろう。こちらに不利だ」
「多少の揉め事、ですか」
ならいっそ、侯爵の力でもどうにもできないほどの騒ぎになればいいのでは。
マリアの考えを見通したように、ドレイク卿が皮肉っぽく笑っていた。
「今晩は、レオン様。今夜は、ずいぶんと静かでいらっしゃるのですね」
「嫌味はよしてくれ。理由は分かっているくせに。そういうわけだから、今夜はあまり僕に構わないほうがいいぞ」
「お気遣いありがとうございます。でも今さらですから。ほら、もう目ざとく見つけて、さっそくこちらにいらっしゃいましたよ」
赤色で満たしたワイングラス片手に、ラスボーン侯爵夫人がマリアたちに近づいてくる。
明らかに何かしでかすつもりの彼女に、マリアは内心苦笑した。
「ご機嫌よう、レオン。またそんな女と一緒なのね。あなたにはがっかりだわ。例え一時の火遊びの相手であっても、ウォルトン侯爵家ににふさわしい、釣り合いの取れる女でなければ。ご自分の評価まで下がってしまいましてよ」
「まあ、レオン様。ラスボーン侯爵夫人に見限られてしまいましたわね。ならばこれからは、私のことだけ見つめていてくださいませ」
マリアがにこやかに言えば、侯爵夫人がぴくりと動いた。
さりげなく距離を取り、ウォルトン副団長を盾にしてこっそりと後ろに下がる。パステルカラーのドレスを着ている状態で、ワインを引っかけられるのはごめんだ。
しかし、ラスボーン侯爵夫人も浅はかながらに少しは考えたらしい。
持っていたワイングラスを傾け、自分のドレスの裾にワインをかけた。
「きゃあっ!」
そうきたか、とマリアは思った。隣に立っていたウォルトン副団長も、同様のことを考えたに違いない。
「おお、エロイーズ、どうしたんだい」
ラスボーン侯爵が、妻の悲鳴を聞きつけてやって来た。
夫人は憐れっぽく夫にすがる――以前、マリアが同じようにウォルトン副団長の腕の中にかばわれたように。
「ドレスが……ひどいわ」
「なんてことだ。君、どういうつもりかね。ラスボーン侯爵家の妻に、このような無礼な振る舞いは許されんぞ」
暗めのワインレッドのドレスに、ワインの染みなどほとんど見えない。だがそれでも、この場はマリアが頭を下げるしかないだろう。
目撃者がウォルトン副団長だけでは、どうにも分が悪い。
「大変失礼いたしました。どうか私の粗相、お許しくださいませ――」
バシャリ、と残っていたワインを、下げた頭にかけられる。
ウォルトン副団長が顔色を変えた。クスクスと笑う妻を、さすがのラスボーン侯爵も、これと短くたしなめていた。
周囲の客もトラブルに気付いたようだ。
マリアは溜息をついた。やはり彼女は、どこまでも浅はかだ。
「何の騒ぎですの。まあ、その姿……」
最初にマリアに声をかけてきたペンバードン公爵夫人の取り巻きが、ワインを滴らせるマリアと、空になったワイングラスを片手に笑うラスボーン侯爵夫人を見て、眉をひそめた。
「困りますわ。ペンバートン公爵夫人の夜会で、騒ぎを起こすだなんて」
「元はと言えば、彼女が妻に粗相を働いたからだ」
侯爵は妻を庇った。しかし、取り巻きの視線は冷たい。
「だから腹を立て、あえて騒ぎを大きくしたと?」
「いや、それは……」
恐らく、取り巻きの身分は侯爵に及ぶほどのものではない。
しかし今夜はペンバートン公爵夫人の手足となって動いているのだから、彼女の不興を買うことは、公爵夫人の不興を買うことになる。この男も、公爵夫人と対立する勇気はないようだ。
「ラスボーン侯爵のおっしゃるとおり、私がいけなかったのです。この見苦しい姿を直してまいります。控え室をお借りしてもよろしいでしょうか?」
マリアが言えば、取り巻きは少し黙りこみ、溜息をついて頷いた。
侯爵夫人は事の重大さを分かっていないのか、マリアが出ていくのを笑って見ている。
公爵家の侍女に案内され控え室に下がったマリアのもとへ、ナタリアが手伝いにやってきた。
「ラスボーン侯爵夫人のあの落ち着きのない侍女は、今夜も来ているの?」
「はい。私がマリア様に呼ばれていると知って、興味津々といった顔をしておりました。いまも、控え室の外で様子をうかがっているのではないでしょうか」
部屋の扉を見ながら、ナタリアが小声で言った。
「あの侍女、前に見たとき荷物を持っていたわね」
「たぶん、中身は化粧品でしょう。今夜も何度か直しに来ている姿を見ました」
「そんなものだろうと、思ってはいたわ。そうね……それなら……」
ドレスの染みは落ちそうもない。それ以上に、髪が酒臭くてべたついて不愉快だ。早く屋敷に戻って洗ってしまいたい。
鏡に映る自分の姿を見つめて対応を考え、マリアはわざとらしく大きな声で言った。
「もういや。屋敷へ帰るわ」
きょとんとするナタリアに合図を出し、二人で部屋の外の様子をうかがう。
扉の外に聞き耳を立て――誰かが忙しなく立ち去るような足音が聞こえてきた。
マリアがにやりと笑ってナタリアを見れば、ナタリアは頷き、主人と共に次のタイミングを待つ。
――分かりやすくて扱いやすいことには、好感が持てる。
ナタリアを連れ、マリアはゆっくりと帰りの準備をした。
そろそろ件の人物を連れて、彼女が戻ってきた頃だろうか。控室の扉のドアノブを手にかけると……勢いよくドアを開けた。
「ぎゃっ!?」
やはり扉の前に戻っていたか。ドアの外に人の気配があったように感じて、わざと勢いをつけて扉を開けたのだ。
跳ね飛ばされたラスボーン侯爵夫人の侍女が、持っていた荷物をぶちまけながら倒れ込んだ。
「まあ、失礼。ナタリア、拾うのを手伝ってあげなさい」
ナタリアの言っていたように、侍女が持っていた荷物の中身は化粧品。
ラスボーン侯爵夫人が、廊下の向こうからやって来ているところだった。マリアが帰りたがっているのを盗み聞きしていた侍女から知らされ、様子を見に来たのだろう。
倒れている自分の侍女とマリアを見比べ、嘲笑った。
「猪に育てられるような人は野蛮で嫌だわ。さっさと巣に帰ればいいのに」
侯爵夫人の足下に転がる化粧品を拾ったマリアは、にっこりと笑う。この化粧品、中身は白粉だろう。
「ラスボーン侯爵夫人、自分にわざとワインをかけるのは、やり過ぎましたね」
「……なんのことかしら」
「ワインがはねて、お化粧が落ちておりますよ。直しにいらっしゃったのでしょう?お年を取ると大変ですわね」
キッとマリアを睨みつけ、侯爵夫人はマリアの手にある化粧品を、ひったくるように奪う。
自分と入れ替わりで控え室に入っていく侯爵夫人に、マリアはほくそ笑んだ。
「それじゃあナタリア。タイミング良くレオン様たちがここに来るよう、声をかけてきてちょうだい」
ナタリアは静かに頭を下げ、夜会が行われているメインホールへと戻っていった。
控え室の扉からは、ときおり女性の声が聞こえてくるだけ。話し声がどちらのものかは分からない。だが室内にいる時間を考えれば、恐らく侯爵夫人は化粧を直していることだろう。
控え室から出てきた侯爵夫人に、待ち構えていたマリアは微笑みかける。マリアが待っていると思わなかった侯爵夫人は、少し驚いたようだった。
「やはり、お化粧を直されていたんですね」
侯爵夫人はフン、と鼻を鳴らし、マリアの横を通り過ぎようとする。
「侯爵夫人、ご存知かしら。南の大陸に、人間の皮膚を腐敗させる、少し変わった毒熱があるんです。何が変わっているのかと言うと、その効果が表面化するまでに時間がかかるということ。だからたいていの人間は、毒に触れたことにも気付かず、どれが毒だったのかということも分からず、気付いた時には手遅れとなるそうです」
「……それが何だと言うの」
「その毒を使えば、完全犯罪も容易だと思いません?だって、気付いた時には時間が経ってしまっていて、毒物の特定ができない。そもそも、果たして本当にその毒が原因なのかも分かりませんわ。効果が出るまでの時間が長すぎて、毒の効き目よりも先に、病や老化で皮膚が衰え始めたのかも。他の要因が考えられる以上、毒との因果関係すら証明が難しい……」
「何が言いたいのかさっぱりだわ。下らない世間話なら――」
苛立ち、立ち去ろうとする侯爵夫人だったが、マリアがあざけるように笑ったことで、足を止めた。
「察しが悪いのね。さっき私が手に持っていた貴女の化粧品。あれに、その毒を仕込んだのかも、と疑いもしないなんて」
言葉の意味を理解した侯爵夫人は、ゆっくりと、驚愕に目を見開く。
そして、怒りに顔を歪ませた――あまりの醜さに、マリアも思わず声をあげて笑い出す。
「この――小娘がああぁっ!よくも――よくも、この私に――このっ――殺してやるっ!!」
つかみかかってくる侯爵夫人に抵抗せず、マリアはあえて、されるがままになった。
後頭部を何度か壁に打ち付けられ、長く整えられた夫人の爪が、頬に食い込むのを感じた。
「何をしている!?」
ウォルトン副団長の声が響く。副団長が興奮する侯爵夫人を羽交い締めにしていた。
焦るナタリアがマリアの頬を拭う。ハンカチにつく赤い染み……夫人の長い爪で、マリアの頬が切れていた。
「エロイーズ・ラスボーン。オルディス公爵暴行の現行犯で、逮捕する」
静かだが鋭い声で、ドレイク警視総監が言った。
ウォルトン副団長にドレイク警視総監、ラスボーン侯爵とペンバートン公爵夫人の取り巻き……目撃者はバッチリだ。
ナタリアは完璧な仕事をしてくれた――あとで彼女を労ったら、マリア様が怪我をされるような事態になるなんて聞いてません、と怒られたが。




