暇つぶし (2)
仕事を終え、ドレイク卿と共に帰りの馬車に向かうマリアを、ウォルトン副団長が声をかけてきた。
「二人とも、今日はもう上がりか。マリアが来てくれたおかげで、ジェラルドも定時で帰るようになったな。感心、感心」
「レオン様……一緒に帰りませんか」
「うん?そうだな、僕も今日は――」
「だめだ」
マリアの誘いを、ドレイク卿が一蹴する。
口を挟んでくるドレイク卿に、副団長も目を丸くした。
「なんでお前に決められなくちゃならないんだ」
「今夜は、私が彼女の屋敷へ行く。貴公は来るな」
ドレイク卿の衝撃的な発言に、副団長が絶句する。
「私がチェスでドレイク卿に勝てないことが許せないみたいで、勝負の続きをすると……」
「無茶言うな。お前が彼女に勝てなくて悔しいなら分かるが、彼女が勝てないものを、どうしたって引っくり返せないだろう。弱い者いじめは、よくないぞ」
ドレイク卿は無視し、マリアを連れて馬車に乗り込む。
マリアはもう一度ウォルトン副団長をすがるように見たが、ドレイク卿が無情にも馬車の扉を閉めてしまった。
向かい合って座り、マリアは溜息をつく。
「……貴女が私に勝てないことが許せないのではない。私に対して本気を出そうとしないのが、腹立だしいのだ」
先に口を開いたのは、ドレイク卿だった。
「無意識だとは思うがな。公爵はどうも、男に対してへりくだる傾向がある。無理もない。女で、若いオルディス公爵が、男社会で男を敵に回すというのは最良の選択ではないだろう。男は、見栄や体裁を保てるようにしてやらなければならない面倒な生き物だ。処世術だと、私も理解している。理解してはいる、が」
ドレイク卿が、鋭くマリアを見つめる。
「私との勝負にまで、それをやろうとするのは気に食わん。公爵、貴女は自分が重要だと思ったことなら、相手がだれであろうと手は抜かない。競馬の時のようにな。あの本気を期待して勝負を持ちかけた人間としては、本気を出したくなるまで食い下がりたくもなる」
「ドレイク卿は、私を過大評価し過ぎです」
気に入ってくれているからこそ、マリアに期待し、それに応えようとしないことに腹を立てているというわけか。
……有難いことだが、無意識にやってると分かってくれているのなら、怒らなくても。
屋敷に帰り着くと、オフェリアはドレイク卿の訪問を歓迎した。
オペラをまた誘いたいという言葉はただの世辞ではなかったらしく、オフェリアの予定も尋ねて、休みを取るような旨を話していた。
オフェリアが起きている間は彼女の遊び相手も務めてくれて、チェンバロの腕まで披露してくれて。
ここまで妹に尽くしてもらったとなると、マリアはチェス勝負を引き受けないわけにもいかない。
上機嫌でベッドに入ったオフェリアを寝かしつけた後、マリアはドレイク卿を客室に案内し、チェスボードを持って来させた。
「できるだけ全力を出すよう努力はしますが……。私も故意にやっているわけではないのですから、ご期待に添えずとも容赦してくださいね」
「その心配は無用だ。私のほうで、貴女に全力を出させる方法を考えておいた。負けるたびに、私の要求を飲んでもらうことにする」
「ドレイク卿の要求ですか。いったい何を――」
ドレイク卿がベッドに視線をやるのを見て、マリアは笑顔を凍りつかせた。
「……あの、私、ホールデン伯爵から、浮気はほどほどにするよう忠告されているのですが」
「負けなければ良いだけの話だろう。最初は、浮気とも呼べぬような軽いもので済ませる。負け続けると、要求はエスカレートするぞ」
まさかこんなことで、ドレイク卿の執着を引きつけてしまうとは思わなかった。
やっぱりこれは不可抗力だ。自分は悪くない――と、マリアは心の中で言い訳をしておくことにした。
「それで、ジェラルドには勝てたのか?」
翌日。
事の顛末を聞きたがるウォルトン副団長に、他ならぬドレイク卿がすべて喋ってしまった。
「もともと、全力を出しても敵うかどうか分からない相手ですよ。勝てるわけがないじゃないですか」
かなり屈辱的な行為を散々要求されたマリアは、不機嫌さを隠さず答えた。
そのせいなのか、今日は騎士や役人もマリアを遠巻きにしている。
「最終的には引き分けにまで持ち込んだ」
「あんな要求は呑めません!」
顔を真っ赤にして反論するマリアに、ウォルトン副団長はうーん、と唸った。
「ジェラルド、お前、結構な変態だったんだな」
「こんな仕事を、好きこのんでやりたがる人間だぞ。まともな嗜好を持っているわけがないだろう」
「おお、開き直るか……」
ドレイク卿のこんな姿は、ウォルトン副団長にとっても意外だったらしい。
……特に嬉しくもない発見だ。
「ドレイク卿、次は罰を吊り上げるのではなく、褒美を吊り上げて私のやる気を出すようにしてください」
帰る間際に再戦を申し込まれたマリアは、半ば不貞腐れながら言った。
「褒美か。私に勝てたら、ライオネルの過去について話すというのはどうだ。やつの屋敷へ行ったのだろう。なら、母親のことが気になるのではないか」
「気にはなりますが……それは、私が教えていただいてもいいことなのでしょうか」
「屋敷にまで連れ込んで、思わせぶりなことをしたのはあっちだろう。それで、秘密にしておきたかったなどという戯言は通じん」
なかなか魅力的な褒美だ。
マリアは考え込む素振りを見せ、それから、にっこりと笑う。
「その勝負、お引き受けします。ドレイク卿が親友の秘密を守るために力を尽くすか、はたまたそう思われたくなくて負けてくださるか、見ものですね」
今度は、ドレイク卿が凍りつく番だった。
親友のウォルトン副団長に義理立てして全力を尽くしたと思われるのも癪だが、だからわざと負けたなどとも思われたくはないだろう。彼の葛藤が、手に取るようにわかる。
「……心理戦か。貴女も、勝負の駆け引きを理解してきたようだな」
「私の全力を期待なさっているのでしょう。私もそれに、応える努力をしているだけです」
先手はドレイク卿だった。
ポーンを動かしながら、ドレイク卿が話し始める。
「私が奴の母親のことを知っているのは、過去の捜査資料を読んでいる内に事件を知ったからだ。エリザベス・ウォルトン侯爵夫人殺人事件をな」
自分もポーンを動かし、マリアはドレイク卿を見た。
「殺人事件ですか」
「この事件は公にされていない。むごい真実がある」
再度ポーンを進めると、ドレイク卿は言葉を切る。マリアが駒を動かすまで、続きを話すつもりはないらしい。
「被告のジェーンは、ランドルフ・ウォルトン――エリザベスの夫の、愛人の一人だった。ジェーンとランドルフとの間には娘がいた。正妻との仲は良好で、ジェーンの娘は正妻の息子――ライオネルとも交流があるほど、愛人の中では格別の地位にあった。ウォルトン夫妻からも信頼されていた彼女も……男児を生んだことで、心境に変化が起きた」
ドレイク卿はビショップを動かす。マリアがポーンでそれを潰すと、さらに話を続けた。
「ウォルトン侯爵家の嫡男が、十五歳を迎える日だった。腹違いの妹から誕生日プレゼントを受け取ったライオネルは、それを屋敷へ持ち帰った。妹は当時五歳。彼女の無邪気さを疑うはずもない。しかし、持ち帰ったプレゼントは悪意に満ちていた。薬で眠らされていた毒蜘蛛が目を覚ました時、屋敷は悲鳴と恐怖に包まれた。偶然近くにいたエリザベスが、その犠牲になったのだ」
話に気を取られ、マリアはクイーンをドレイク卿に奪われてしまった。憎たらしいナイト――いまは潰す手がない。
「毒蜘蛛は、ジェーンが仕掛けたものだった。ライオネルの命を狙って。彼を殺すため、何も知らず兄を慕う我が娘の無邪気さを利用したのだ」
「そのような真実があっては、事件が公表されるはずもありませんね」
母親に利用され、五歳の少女が殺人の片棒を担がされたとあっては、公にできるものではない。ドレイク卿も頷いた。
「話のせいで勝負に集中できません。ドレイク卿もなかなか卑怯です」
「心理戦を先に仕掛けてきたのは、そちらだ」
もうひとつのナイトが飛んできて、マリアのキングは倒れてしまった。
今回の勝負にはドレイク卿も満足したらしい。マリアのキングを手に、微かに笑っている。
「マリア、今日は僕と一緒に帰るぞ。まーたチェス勝負をしていたのか」
執務室を訪ねてきたウォルトン副団長は、チェス盤を挟んで対面するドレイク卿とマリアを見て言った。
「今回は、貴公の母親の事件についての情報を賭けての勝負だ」
「親友の過去を利用するんじゃない。まったく。愉快な話でもないというのに」
ウォルトン副団長が、苦虫を噛み潰したような表情でドレイク卿を睨みつける。ドレイク卿は涼しい顔で、副団長の視線を受け流した。
「帰るぞ、マリア」
「はい。それではドレイク卿、本日の業務はこれで終了です。また明日」
半ば引っ張られるように強引に腕を取られ、マリアはウォルトン副団長と共に帰りの馬車に乗ることになった。
やはり母親の事件を知られたせいか、普段と比べてどこか副団長の陽気さも陰りがあった。
「歪んだ奴だとは思っていたが、あそこまで面倒な性格をしているとは思わなかった。僕に出し抜かれたことも、相当悔しかったみたいだな」
「……どういう意味でしょうか?」
マリアが尋ねると、ウォルトン副団長がニヤリと笑う。ちょっと意地の悪い笑い方だ。
「男にへりくだる傾向のある君に、本気を出してもらえないのが悔しい――要するに、その他大勢の男と同じ扱いをされたのが、ショックだったのさ。自分は特別扱いをしてもらえると思い込んでいたから」
「えーっと……ドレイク卿が私のことを、その……とても好意的に見ていてくださると思っても、私の自惚れにはならない、ということでしょうか」
「そんな控え目な言い方をすることはない。あいつは君に惚れてるのさ。嘘だと思うのなら、名前で呼んでもいいか、今度聞いてみるといい。二つ返事で即答するぞ」
「はあ……」
惚れられている……のだろうか。たしかに嫌われてはいないし、好意的に接してくれてはいるが、そこまでの実感はわかない。好かれるようなことをした覚えもないし。
「あれで意外と面食いだ。しかも絶世の美女を母親に持っていたものだから、理想が非常に高い」
「ドレイク卿のお母様は、舞台女優をしていらっしゃったのですよね」
「ああ。エンジェリクでも評判の美女だったそうだ。彼女の美しさは単なる容姿の良さに留まらず、舞台に立つと光り輝いていた。自信と、それを裏付けるだけの実力と才能が、彼女の美しさをより一層際立てていたそうだ」
「なるほど。それでは理想も高くなりそうです」
そんな女性と引き合いに出されて、面食いのジェラルド・ドレイク卿に気に入られた。
名誉なことなのだろうが、彼に惚れられている実感がわかないマリアとしては、素直に喜ぶことはできなかった。
「レオン様、今夜は屋敷へ泊まって行かれますか?」
屋敷が近づくのを見て、マリアが聞いた。
「そうだな……。ジェラルドが余計なことを吹き込んだのは気になるが、せっかく時間を作ったんだ。泊まらせてもらおうか」
「なら、屋敷に着いたらナタリアに湯の用意をさせますから、ちゃんとお風呂に入ってくださいね」
「またそれか。君は風呂が好きだな。風呂に入り過ぎると、病気になるぞ」
「不潔にまみれて死ぬぐらいなら、風呂の入り過ぎで命を落とすほうがましです」
そう言って渋った割に、当たり前のようにウォルトン副団長はマリアに身体を洗わせるのだから、彼も十分面倒な性格だ。
上機嫌で風呂から出た副団長は、マリアが着ているドレスを見て顔をしかめる。
「よりによって、それを着るのか」
ウォルトン副団長から貰った、彼の母親が倒れた時に着ていたというドレス。つまり、例の事件が起きていた時に着ていた物なのだろう。
……そんな不吉なものに平然と袖を通せる自分は、我ながら良い根性をしていると思う。
「お母様の話を伺ったばかりですし、レオン様を慰めようかと思いまして」
「慰める。悪くない響きだな」
抱き寄せてくるウォルトン副団長に、違います、と言って、マリアはぺちっと彼の手を叩く。
「口下手なので身体で慰めようとは思いましたが、そういう方向ではありません。こちらにどうぞ」
ベッドに腰掛けたマリアが自分の膝を示すと、副団長は苦笑した。
「待ってくれ。僕は本当に、そういう嗜好の持ち主だと思われているのか?いつまでも母親に甘えたがる、乳離れのできない男だと」
「オフェリアにしか、してあげたことがないんですよ、これは」
「……ホールデン伯爵にも?間違いなく、オフェリアだけか?」
「間違いなく」
男は自分だけというのが気に入ったのか、マリアの膝を枕に、ウォルトン副団長は横になった。
ずっしりとした重みがマリアの膝にかかる。当たり前なのだが、オフェリアよりも重い。柔らかく滑らかなオフェリアの髪に比べて、副団長の髪は硬質だ。それでも、優しく髪を撫で、額にかかる前髪を払えば、副団長はまんざらでもなさそうな反応を示した。
「……ジェーンたちのその後は聞いているのか」
「いいえ。公表できない経緯を教えていただいただけで、その後のことは何も」
「侯爵夫人殺害の罪で、ジェーンは死刑。腹違いの妹は修道院に入った。弟のほうも、遠いところへ養子に出されている。ウォルトン侯爵家とは、一切の縁を切らせた」
話をするウォルトン副団長は、どこか遠いところを見ている。たぶん、昔のことに思いを馳せているのだろう。
彼の髪を撫で、マリアは黙って話を聞き続けた。
「両親は政略結婚でね。互いに愛人もいる仮面夫婦――だと思っていたんだが、親父は親父なりに、妻を愛していたらしい。母が倒れた時の嘆きようと憔悴ぶりは、息子の僕でも意外に感じるほどだった。他の愛人もすべて清算し、庶子たちの処遇も決め、侯爵家の全てを僕に継がせて自分は王国騎士団を辞職……その後、巡礼の旅に出た。そして旅先で、風邪を引いてぽっくりと……。幾多の戦場も生き抜いてきた男の最期にしては、あっけないものだった」
ライオネル・ウォルトンの父親もまた、王国騎士団の団長を務める騎士だったと言っていた。高位の騎士にしては、たしかに呆気ない最後かもしれない。
「ジェーンの狙いは僕だった。自分の息子に侯爵家を継がせたくて、嫡男の僕が邪魔になったらしい。そういった思惑には、慣れていたつもりだったんだがな……。普段だったら贈られたプレゼントなんか疑ってかかったんだが、五歳の妹から、まさかそんな物を渡されるとは思っていなくて。迂闊に持ち帰った物が母の命を奪い、結果的に父も死に追いやった」
そう……。
この事件の卑劣なところは、仕掛けた人間はジェーンでも、手を下すのは別の人間――罪のない人間を共犯者にしてしまうことだ。
何も知らず善意でプレゼントを贈った少女……善意を疑わず受け取ってしまった青年……。彼らもまた、事件の加害者であり、被害者だった。
「私、レオン様が女性に誠実な関係を求めない理由がわかりました。レオン様も、結構なロマンチストなのですね」
「……いまの話を聞いて、そういう結論になるかい?」
「たった一人の運命の女性に、巡り合いたいのです。お母様を愛していらっしゃった、お父様のように。でも、それが怖いのですね。身近な女性を守れなかった経験をお持ちですから。本心では運命の女性に会いたくても、彼女を傷つけてしまうのが怖くて、探すことができないでいるのです」
「おかしいなぁ。この話を聞いたら、そんな不幸があったから女性不信なのね、とたいていの場合は同情してもらえるはずなんだが」
そう言いつつも、ウォルトン副団長はマリアの言葉を否定しない。
マリアはくすりと笑った。
「出会えると良いですね。でも、運命の女性のためにも、女遊びはもう少しお控えになってください。いずれ女性や、女性の夫たちから刺されるのではないか心配です」
「言っておくが、僕も相手はちゃんと選んでるんだぞ。遊びと割りきれる女性だけ――少なくとも、上司や部下の妻には手は出していないからな」
「でしょうね。遊び人を気取るには、レオン様は情が深すぎるお人ですもの。現に、ラスボーン侯爵夫人のような変な女に執着されても、優しすぎて冷酷に切り捨てることもできず……」
「わかった、わかった。親身に心配してくれる君のためにも、ちゃんと自制するようにする。だからラスボーン侯爵夫人の話はしないでくれ。彼女に振り回されて散々だし、僕としても彼女のことを言われるのは情けない気分になるから嫌なんだ」
起き上がり、ウォルトン副団長はマリアを黙らせるために唇をふさごうとする。彼の背に腕を回し、マリアは静かにベッドに横たわった。
良い人だと褒められるのを嫌がるなんて――マリアは内心笑った。
偽悪的に振る舞おうとしても、結局彼の情の深さや優しさは隠しきれないでいる。ライオネル・ウォルトンは、実はとても可愛らしいところのある人だ。




