陰りを見る
ソフィーに連れられてマリアに与えられた部屋は、壮麗だがどこか寂しい雰囲気に包まれていた。
たぶん、この部屋がもう何年も使われていないからだろう。掃除は行き届いているのだが、人が使っている様子を感じられない。
大きなクローゼットには衣装もアクセサリーもたくさん収納されているが、ウォルトン副団長の話していたように、デザインが昔のものばかり。
ソフィーはその中から、マリアのような若者に映えそうなものを一所懸命探してくれていた。
「そうよ……あのドレスは確か、別の場所にしまっていたんだわ。ごめんなさい、ちょっと待っていてくださいね」
血で汚れたドレスを脱いでいたマリアは、すでに肌着一枚。そんなマリアを残したままソフィーは部屋を出て行ってしまい、マリアは苦笑した。
ベッドサイドのテーブルにはマリアが、身に着けていたものが置かれている。毒の入った香水瓶のお守りもそこに……。
この屋敷ではそれの出番がないことを信じ、マリアは大きなベッドに腰掛けた。
手触りの良いシーツ……しかし、もう長い間、ここで眠った人間はいないのだろう。質の良いもののはずなのに、何とも言えない冷たさが異質だ。
「君は、一度心を許すと途端に無防備になるな。こういうのは、決して手放さず常に身に着けておくべきだと思うぞ」
ウォルトン副団長の声に、マリアは振り返った。
マリアの正面にある出入り口ではなく、背後に彼は立っている。サイドテーブルに置かれた香水瓶を手に笑っていた。
よく見てみれば、ウォルトン副団長のその後ろに、もうひとつ扉がある。
「隣は僕の寝室だ。かつては、父が使っていた」
「……なるほど。夫婦の寝室でしたら、内扉ぐらいついていても不思議ではありませんね」
マリアが案内されたこの部屋は、女主人の寝室――要するに、副団長の母親が使っていた部屋だろう。隣に夫の部屋があり、内扉で繋がっているのは当然だ。
「レオン様の好みは既婚者では?」
肌着一枚の自分に無遠慮に近づいてくる副団長に向かって、マリアは言った。
自分を見つめる副団長の目は、マリアにとって身に覚えのあるものだった。
ホールデン伯爵やメレディスから、時々向けられるもの。まさかウォルトン副団長からまで、そんな目で見られるなんて、という意外な思いはある。
以前、肌着だけの無防備な姿を見られ、からかわれたこともあったが……あの時とは、まるきり様子が違う。
「別に人妻が好きなわけじゃない。そういった女性のほうが、後腐れなく遊べるから選んでいただけだ。未婚のお嬢さんだと、責任を取らなくてはならないだろう?そういうのが煩わしいんだ。だからラスボーン侯爵夫人なんかは、絶対にあり得ないのさ。既婚者であっても、厄介な女は御免だ。しかし……」
そう言って、ウォルトン副団長はマリアの髪を撫でた。
「身体こそ立派な女性だが、そういった相手として見るには君はまだまだ幼い。それにも関わらず、男を虜にする魅力……僕にもぜひ、教えて頂きたいものだね」
「期待されても困ります。私、女としては、ごく一般的なものしかありません」
「うーん。そういう無自覚なところが可愛いのかな、彼らにとっては。騙し討ちのような真似に怒ったり戸惑ったりする姿を期待したんだが、正直拍子抜けだ。抵抗もせず、人形のような子だな。何が良いのかは僕にはまだよく分からんが……」
腕を引っ張られ、ベッドの上に押し倒される。
覆いかぶさって来るウォルトン副団長にいつもの明るい雰囲気はなく、獰猛で、先ほど敵を容赦なく倒した時にも似た迫力があった。
「僕より身分が高い相手というのは初めてだ。せっかくの機会なのだから、じっくり楽しませてもらおう」
長い間、人が使っていないベッドというのは、やはり独特の雰囲気がある。なんとも眠りづらくて、ウォルトン副団長の腕の中でマリアは目を覚ましてしまった。
枕代わりにしていたウォルトン副団長の腕――以前ちらりと見ただけだったが、騎士の腕というのはすごいものだ。
マリアの白く細い腕の倍ぐらいの太さがあり、筋肉質で硬い。自分もこれぐらい鍛えたら、毒のお守りなど必要なくなるだろうか。
マリアが腕の中から這い出そうとすれば、ぐいと片手で簡単に引き戻されてしまった。
「あれだけ抱き潰してやっても、僕より先に目が覚めるとはな。やはり若さか?」
マリアが早々に目を覚ましたのが気に入らないのか、ウォルトン副団長はさらにマリアを腕の中に閉じ込めようとする。
「そんなことありません。もう体力の限界です。おかわりは受け付けませんよ」
「君の魅力が分かって来たぞ。その飄々とした態度が気に食わないんだな。それで君を振り向かせようと、こっちも必死になる。なかなか駆け引きが上手い」
「誤解です。レオン様は私と戯れて楽しんだように、私もただ戯れを楽しんだだけ。そういう関係がお望みだったのでしょう」
「可愛くないな」
そう言って、さらに束縛がきつくなる。
マリアの力では、ウォルトン副団長の腕を緩ませることはできない。
「もう、離してください。いくらなんでも、ナタリアも戻ってきているでしょう。あの子に会わないと」
「……マリア、怒っているのか?」
尋ねるウォルトン副団長の声には、いつもの親しみやすい雰囲気が戻っていた。マリアは、腕の中から彼を見る。マリアと視線が合った副団長は、自嘲気味に笑っていた。
「すまなかった。侯爵夫人の一件で、しばらく女遊びは控えていてね。それで欲求不満気味で――おまけに昨夜は計画が狂いっぱなしだったから、少し……いや、正直かなり苛立っていた。それを君に、ぶつけてしまったところはある。本当にすまない」
「しおらしく言われてしまうと、許すしかありませんわね。我慢は身体によくありませんし、レオン様には色々と助けられていますから、大目に見て差し上げます」
「感謝する」
マリアの頬にキスをし、ウォルトン副団長は拘束を解いた。
「……やはり、この部屋に連れ込むべきではなかったな」
ぼそりと呟いた声は、いつになく重苦しかった。しかしマリアがそれを問う隙も与えず、副団長はいつもの陽気な笑顔を向ける。
「次回は君の部屋を訪ね、手順をきちんと踏んで口説くことにしよう。リベンジはそれまでお預けだ」
呆気に取られ、それからマリアはクスリと笑った。
この状況で次回があると思い込むなんて、図々しい男だ――でも不思議と憎めない。
ウォルトン副団長は呼び鈴を鳴らし、侍女のソフィーを呼びつけた。あられもない姿でベッドに横になっているマリアを見ても動じないあたり、彼女も確信犯だ。
「ソフィー、マリアを迎えに来た侍女がいるだろう。彼女をここへ連れて来てやってくれ。それからマリア。持って帰るドレスに関しては本当に遠慮しなくていいぞ」
着替えを持ってウォルトン侯爵邸を訪ねてきたナタリアは、部屋に入るなりウォルトン副団長に冷たい眼差しを向けていた。
女主人の寝室にマリアを連れ込んでいるという時点で、何が起きたのかは予想していたらしい。
ナタリアの白い目にも動揺することなく、副団長は陽気に手を振る――ドレイク警視総監と親友をやっていこうと思ったら、ナタリアの視線なんか怖くもないはずだ。
「マリア様。よろしければ、こちらのドレスをお持ちくださいな」
ナタリアに手伝ってもらいながらマリアが着替えていると、ソフィーがドレスを持って部屋にやって来た。
ベッドの上でマリアの着替えを眺めていたウォルトン副団長が、ぎょっとした顔で慌てて立ち上がる。
「おいおい。いくらなんでも、それはダメだ。縁起が悪過ぎるだろう」
「ですが、処分するわけにもいきませんし……。坊ちゃまが気に入ったお嬢さんに、着ていただいたほうが……」
「私、構いませんわ。レオン様にとって思い入れのあるものだと言うのでしたら、受け取らせていただきます」
マリアが了承すれば、ソフィーが安心したように笑った。
「優しいお嬢さんで良かったですね、坊ちゃま。レオン坊ちゃまはお母様っ子でしたから、こうしていまでも奥様の物を処分することもできず……。この部屋も、奥様が生きていた頃そのままなのです」
「まるで僕が、乳離れのできていない坊やみたいじゃないか……勘弁してくれ」
しかし、マリアがドレスを受け取る時、ウォルトン副団長は複雑そうな表情をしていた。安心したような、苦しんでいるような、何とも形容しがたい表情だ……。
母親の存在は、ウォルトン副団長にとって重要なものであり、彼の心に何かしらの影を落としているのではないか。マリアはそう思った。
ドレスを渡して満足したソフィーが部屋を出ていくと、低い声でウォルトン副団長が言った。
「それは、母が倒れた時に着ていた服だ。はっきり言ってしまえば……死人が着ていた。不吉なんてものじゃない。あとでこっそり捨ててくれていい」
「縁起の悪いものだと分かっていても、レオン様が手放すことのできなかったものなのでしょう?大切にします」
いますぐ捨てていい、とは言えないことが、すべてを物語っている。
マリアが笑って答えれば、参ったな、と副団長は苦笑した。
「君は駆け引きが本当に上手い。目が覚めたときは素っ気ない態度を取っていたくせに、こういう場面では僕が喜ぶことばかり言ってくる。伯爵たちが夢中になる理由が、だんだんわかってきたぞ」
帰りの馬車の中、ナタリアの機嫌は直らなかった。
「マリア様や、ウォルトン様に怒っているわけではありません。自分の人を見る目のなさに怒っているだけです」
「そんなことないわよ。レオン様だって良い人ではあるわ。それに、男としてどうかと思うという点では、私の近くにいる男性はそんな人たちばかりじゃない」
「だからです。男性というのはそういう生き物だと、もう嫌というほど分かっていたはずなのに……!」
信頼していた男性に裏切られ、主人を食い物にされる。その経験はこれが初めてではない。それなのに、またおめおめとしてやられてしまったことに憤慨しているようだ。
「ここまでくると、相手が悪いと言うより、そんな男を惹きつけてしまう私に問題があるような気がするのよね」
「男性の節度のなさが問題なんです!」
ナタリアは、溜め息をついた。
「……結局、力ある男性にすがるしかないのはわかっています。いつも、マリア様に犠牲を強いることになるのが悔しいだけです」
「犠牲だとは思ってないわ。自分が欲深いせいか、私は相手に対価を要求されたほうが安心するみたい」
まだ何か言いたげな様子ではあったが、ナタリアは黙っていた。反論しすぎると、かえってマリアを侮辱することになるからだろう。
マリアは笑った。
「心配しなくても、いつまでもこんなことを続けたりしないわよ。いずれできなくなるんだから。色仕掛けなんて、若さと美しさがある時しか通用しないもの。どちらもいずれは陰るわ」
だから、それが使えるうちは最大限に利用してしまえばいい。
それが通用しなくなった時、誰かにすがらずとも自分の足で立っていられるようにするためにも。
いまのマリアには、まだ力が足りない。




