花の園 (2)
フェザーストン子爵夫人は、きりりとした顔立ちと雰囲気を持つ女性だった。美女……と評するには平凡な容姿だが、その迫力は人の目を引くものがある。
年配の既婚者ということで、着ているドレスはガーネットのシンプルなものだが、それが彼女の迫力をより引き立てている。
子爵夫人は、マリアがホールに足を踏み入れるなり近付いてきた。
「まあ、レオン殿。今夜はずいぶんと、可愛らしいお嬢さんをお連れなのね。あなたにはしては珍しいこと」
「お手柔らかにお願いしますよ。まだ僕は、彼女の好感度を上げている最中でしてね。ようやく、エスコート役を任されるぐらいの立ち位置になったばかりなんです」
「それは悩むわ。むしろあなたの本性を教えて、お嬢さんの未来を守るべきじゃないかしら」
子爵夫人が、マリアに視線を移してにっこりと笑う。
「マリア・オルディスと申します。今宵はお招きいただき、ありがとうございます」
「ようこそ、マリアさん。先日の競馬大会は見事でしたわ。私も、夫と共に観戦しておりましたのよ」
「恐れ入ります」
表面上は子爵夫人と和やかな会話を続けながらも、マリアはホールの客をさりげなく観察した。
強烈な視線を感じる。招待客は各々のおしゃべりを楽しんでいる様子だが、その実は違う。
気にしないふりをしながら、マリアの様子を探っている。競馬での優勝と品評会での評判から、マリアは注目の集まる存在になっていることは分かっていたが……。
「ご機嫌よう、オルディス公爵」
まだホストから紹介もされていないマリアに声をかけてきたのは、ジェラルド・ドレイク警視総監だった。
「よう、ジェラルド。お前も来ていたのか」
「貴公に任せておくのは不安だからな」
夜会は、女主人である子爵夫人とウォルトン副団長のダンスからスタートした。招待客は二人のダンスを見届けてから踊り始めるのがならわしだそうだ。
二人が踊るのを笑顔で見届けながら、マリアは隣に並ぶドレイク卿に小声で話しかけた。
「私、異様なほど注目の的になっているようなのですが。評判が高いからと、自惚れてもよいのでしょうか」
「半分ぐらいは前評判の高さだろう。もう半分は、主にライオネルのせいだ」
ドレイク卿が静かに答える。
「招待客の半数は、子爵夫人と同じ王国騎士団の高位騎士の妻。残りは、ライオネルの歴代の愛人だ」
今夜の夜会、招待された女性はマリアを除いて全員既婚者である。時の人ということで、むしろマリアのほうが特別枠で招待されたのだ。
「ああ、道理で。女性からのほうが、視線が強烈だったわけです」
敵意はないが、マリアの一挙一動を見逃すまいと鋭く品定めしている。彼女たちの正体を知れば納得だ。
「すでに全員精算済みだ。自分が同時進行されるのは構わんが、自分が同時進行するのは面倒がっていた。いまは少々厄介な問題を抱えていることもあるから、特に。しかし、とうに終わった関係であっても、自分たちの後任に選ばれた女性というのは気になって仕方がないらしい」
「女心は複雑ですね」
ホストのダンスが終わり、周りに合わせてマリアも笑顔で拍手する。
子爵夫人の相手を終えたウォルトン副団長はまっすぐマリアのもとへ戻り、手を差し出した。
マリアがその手を取るよりも先に、艶っぽい黒髪と、見事な肉体美を持つ美女がマリアの前に立ちふさがった。
「次は私と踊る番よ、レオン」
「ラスボーン侯爵夫人……」
いつもの笑顔を辛うじて保ってはいるが、副団長がそのように苦々しい口調で答える姿は初めて見た。
「私は今夜、オルディス公爵のエスコート役です。彼女を放って、貴女と最初のダンスを踊るわけには参りません」
「だめよ。これ以上の待ちぼうけは許さないわ」
儀礼的に振るまい、副団長は侯爵夫人をやんわりとお断りしているが、彼女は引かない。
無礼で恥知らずな行いだ。注目が集まる中、これ以上の押し問答はマリアも副団長も――侯爵夫人自身も恥をかくことになるというのに。
ドレイク卿が溜め息をつき、マリアの手を取ってダンスホールに踊り出た。
仕方なく副団長は侯爵夫人と踊ることになったが、ホストの子爵夫人も招待客たちも、大きな揉め事に発展しなかったことにホッとしているようだ。
「あの方も、レオン様のかつての愛人の一人ですか?」
「詳しいことは知らんが、彼女が先ほど話した、厄介な問題だ」
はあ、とマリアは頷いた。確かに厄介そうだ。
侯爵夫人と踊る副団長も、愛想よくしてはいるが、明らかに余所余所しい。
「すまん、ジェラルド。助かった、恩に着る」
「やはりやらかしたのは、貴公の方だっただろう」
「返す言葉もない。まさかフェザーストン子爵夫人が、彼女を招くとは思わなかった」
ダンスが終わると、副団長が急いでマリアの元へ再び戻ってくる。周囲を警戒し、さりげなくラスボーン侯爵夫人の視界から逃れようとしていた。
「ずいぶん厄介な女性に気に入られましたのね」
「言っておくが、僕は彼女を口説いたりしてないぞ。声はかけられたが、あんな面倒そうな女にちょっかいをかけるものか。だがそれが、かえって彼女の執着を強めることになったらしい」
フェザーストン子爵夫人も、マリアたちに声をかけてきた。
「ごめんなさいね、レオン殿。私も、彼女を招いてはいないのよ」
子爵夫人が、ラスボーン侯爵夫人に視線をやる。
侯爵夫人は、彼女の美貌には不釣り合いな、冴えない男性を連れていた。男のほうは明らかに侯爵夫人にのぼせ上がっている様子で、彼女がちょっと視線を送れば、間抜けな表情でぼーっとそれを見つめていた。
「ハワードか。真面目で色恋に疎い分、すっかり彼女のいいように利用されてるな、あれは」
「妻以外の女性を同伴させるだなんて。主催した私まで、恥をかくことになるわ」
副団長と子爵夫人の会話から察するに、ハワードと呼ばれた男が勝手に侯爵夫人をパートナーにして今夜の夜会へ連れてきてしまったのだろう――それも、互いに別の配偶者がいながら。
「マリアさんもごめんなさいね。せっかく来てくださったというのに、不愉快な思いをさせてしまって」
いえ、とマリアは笑顔で首を振る。
こういった厄介事も、経験のうちだ。あまり頭の回転がよろしくなさそうな女性だし、最初に出くわすトラブルとしてはあれぐらいがちょうどいい。
「さあ、さあ。お友達に、貴女を紹介させて頂戴な。みんな、貴女とお話がしたくてたまらないのよ」
子爵夫人に連れられ、マリアは副団長や警視総監から離れることになった。
子爵夫人に紹介されると、彼女のお友達から矢継ぎ早に質問される。その様子に、子爵夫人が笑った。
「あらあら。皆さまいけませんよ。そのように大勢で取り囲って迫っては。若いお嬢さんを怖がらせるのは感心しませんわ」
「だってスザンナ様、私たち、気になって仕方がないのですもの」
「そうですわ。あのウォルトン副団長が未婚のお嬢さんをエスコートするだなんて」
「いままで、どれほど勧められても、未婚の女性と二人きりになることすらしなかったのに」
「既婚者ではないということは……そういうことなのでしょう?」
なかなかミーハーなご婦人方だ。それに、最初に会ったときの子爵夫人もそうだったが、あっさりと副団長の女性遍歴を暴露している。
パートナーであるマリアに対してかなり礼を欠く言動なのだが……。恐らく、自分の反応を試しているのだろうな、とマリアは思った。
「ご出身はキシリアだそうですね。かの国は太陽がいちだんと眩しく、住む人々もそれに劣らず情熱的だとお聞きしましたわ」
子爵夫人のお友達の一人が言った。
「広い大陸ですが、高低差も大きくて。人が移動する際には、馬車よりも直接馬に乗ったほうが楽なんです。それで、私も乗馬を覚えましたの」
「先日の競馬は見事でしたものねえ。まるで猪のよう」
聞こえてきた声に、おしゃべりなお友達一同は口を閉ざす。
おしゃべりな彼女たちを黙らせるとは、ラスボーン侯爵夫人も面白い特技を持っているものだ。
「キシリアの女性は、ああやって男の方を追いかけ回すのかしら」
「あんなものでは済みませんわ。キシリア女の情熱的な姿を見たら、猪も思わず回れ右をしてしまうほどで」
侯爵夫人の嫌みにも、にっこり笑って応じる。
マリアが冗談で返したことで、お友達は安堵し、わざと明るく笑う。ラスボーン侯爵夫人も、軽蔑したようにクスリと笑った。
「貴女のお父様も、猪女を好むような野蛮人だったということね。猪と野蛮人の間に生まれたのでしたら、先日のあの走りも納得ですわ。エンジェリクの紳士では、太刀打ちできるはずありませんもの」
マリアは心の中で失笑した。
的外れな悪口というのは、腹も立たないものらしい。マリアの両親を侮蔑したつもりなのだろうが、ラスボーン侯爵夫人の頭の空っぽさを披露しただけ。
幼稚な嫌みに反論して自分の価値を下げたくないが……間抜けな勘違いをさせたままというのも、気の毒というもの。
彼女も、もう少し恥を知ったほうがいい。
「侯爵夫人ったら。そう卑下なさらずともよろしいのに。エンジェリクの女性も、素晴らしいものですわ」
目を瞬かせる侯爵夫人に対し、子爵夫人はため息をつく。
「マリアさんのお母様は、エンジェリク人です。そうでなければ……なぜ、彼女がオルディス公爵家を継げたのか、疑問に感じなかったのですか。お父様はキシリアの宰相。キシリア宰相とエンジェリクの公爵令嬢の結婚は、国同士の友好を深めるものとして有名な話です。ラスボーン侯爵夫人、あまり無知を披露なさらないでくださいませ。エンジェリク貴族とはこの程度なのかと、私たちまで恥をかきますわ」
子爵夫人がピシャリと言った。招かれざる客人に、夫人もあたたかく接する様子はないようだ。
「まあ、失礼いたしましたわ。私は皆さまと違い、まだまだ若輩者。年寄りの教えは、素直に聞き入れることにしますわ」
ピシイッと、その場にいる女性たちの額に青筋が入る音が聞こえたような気がした。
子爵夫人のお友達は、だいたいが夫人と同じ年配の既婚者。既婚者の中では、ラスボーン侯爵夫人が最年少ではあるだろうが……。
「そうですわね。私たちのような若輩者は、若さと素直さを武器にするぐらいしか、取り柄がありませんものね」
招待客の中で最年少のマリアが、天然を装ってチクリと言えば、侯爵夫人の口の端が一瞬動いた。
「……やはり、猪を追いかけ回すような野蛮人に育てられただけありますわね。ご両親の躾けのほどが、うかがい知れますわ」
「私の父は、キシリア王への忠誠に命をかけた人間でしたわ。主君に忠義を尽くした者を、そのように貶めるのはいかがなものかと。それとも、それがエンジェリク流なのでしょうか」
マリアが意味ありげに視線をやれば、フェザーストン子爵夫人はいたく機嫌を害したようだ。
「その物言いは許しがたいことですわ、マリアさん。私の夫はエンジェリク王国のために剣と命を捧げ、忠義というものを最も重んじております。それは妻の私も同じこと。ラスボーン侯爵夫人、いい加減口を閉ざしなさい。あなたのせいで、私や私の夫まで不愉快な評価を被ることになりますわ」
マリアを咎めながらも、子爵夫人は厳しい視線をラスボーン侯爵夫人に向ける。周囲のご婦人方も、冷たい眼差しを侯爵夫人に向けていた。
フェザーストン子爵夫人の夫は、王国騎士団団長。彼女のお友達は、騎士を夫に持つ女性ばかりだ。
国に剣と命を捧げる夫を持つ者として、マリアの言葉は許せないだろう。その矛先が、発端を生み出した侯爵夫人に向かうことも分かっていた。
侯爵夫人は敵意を向けられることには慣れているのか、それとも鈍いのか。これだけの女性に睨まれていても動じる様子はない。
くすりと笑い、侮蔑を隠すことなく彼女たちを見つめ返す。
「……王国騎士団の妻風情では、それぐらいのことしか誇ることがありませんものね」
ピシリ、という効果音が聞こえそうなほど空気が凍りついた。
完全に彼女たちを敵に回したな、とマリアは思った。もっとも、侯爵夫人のほうも彼女たちと表面上でも仲良くするつもりもないようだが。
エンジェリクには二種類の騎士がいる。国の治安と防衛に従事する王国騎士団と、王族や宮廷の風紀を守る近衛騎士隊。
近衛騎士になれるのは、伯爵位以上の貴族のみ。
王国騎士団は、役職のある者こそ爵位を持つ貴族だが、大半は平民。数少ない貴族も爵位が低かったり、貴族という肩書きこそあっても平民と変わらない者も多い。むしろ、ウォルトン副団長のように、侯爵にまである者が所属しているほうが珍しいのだ。
ラスボーン侯爵夫人ともなれば、王国騎士団程度の男の妻と、慣れ合うことも不本意なのだろう。
マリアも、くすりと笑う。
「その王国騎士団風情の男を、振り向いてもらえないのに追いかけ回す女は何なのでしょうね。私が猪だとしたら……無様な豚といったところでしょうか?」
侯爵夫人は目を血走らせ、マリアに向かってサッと手をあげる。反射的に、マリアは悲鳴をあげた。
「きゃあっ!」
「マリア!?」
マリアの悲鳴を聞きつけ、ウォルトン副団長が駆けつける。
副団長の腕の中に飛び込み、マリアは怯えたように彼の胸にすがりついた。
「レオン様、私、侯爵夫人を怒らせてしまったみたいで……。怖いです。もう帰りたいわ……」
怯えるマリアをなだめるように、副団長は優しく頭を撫でる。
その腕の中で侯爵夫人に嘲笑の表情を向け、声を出さず唇の動きだけでマリアは罵った。
――ブ、タ。
子供っぽい挑発に、侯爵夫人が憤慨して詰め寄って来る。副団長がマリアを腕の中で庇うので、余計に怒りに火をつけたようだ。
「落ち着きなさいませ、ラスボーン侯爵夫人。年長者として、若者の失敗ぐらい大目に見てあげませんと」
にっこりと微笑み、フェザーストン子爵夫人が皮肉をこめて侯爵夫人を制止する。周りのお友達も、そうですとも、と同調する。
マリアは怯えたような芝居を続け、自分を気遣う副団長と共にホールを出た。




