雨が降る (1)
シルビオから話を聞き終えたマリアは、ほとんど逃げるように部屋を出た。
そんなマリアを気遣わしげに見て来るロランド王たちの視線すら、いまのマリアには煩わしいだけで……。
足早に廊下を歩くマリアを、ノアだけが追いかけていた。
「ノア様、私、先に屋敷へ帰ります」
城の出入り口で足を止め、振り返ることなく後ろで控えるノアに声をかける。
今日はマリアを始め、色んな人間が城に出入りしている。そのため、城の出入り口には送迎用の馬車があちこちに用意されていた。
「ノア様から、皆に話しておいてくれませんか。私……自分の口から伝える自信がありません」
特に、オフェリアを前にして。
父の最期を、あの子に冷静に話すなんて、きっとできない。
「……わかりました」
背後で、ノアが頭を下げるのを感じた。
マリアは馬車に乗り込み、窓にカーテンを引く。引いたカーテンの端をぎゅっと握りしめ、反対の手で、ポケットに入れたままの父の指輪を握りしめた。
父の話を終えたシルビオからこれを渡され、その存在をはっきりと感じた時、マリアは冷静でいられなくなった。
シルビオがマリア宛に父から託されたもの。それは結婚指輪だった。母の物は、キシリアを出るときにマリアたちが持ってきた。
セレーナ家に伝わる指輪と、父の結婚指輪。どちらも、生前のクリスティアンが絶対に手放さなかったもの。
その両方が、いまマリアの手の中にある。父を喪ってしまった証……。
ツメが食い込むほど、マリアは自分の手をきつく握りしめた。
昼間はよく晴れていたというのに、いつの間にやら空は暗くなり、マリアが屋敷へついてほどなく、雨が降り始めてきた。
雨の中、あの子たちを帰らせる羽目になってしまった……マリアを待っていてくれてただろうに……可哀想なことをした。
やがて、静かな屋敷に響くほどの雨となり、そんな中を、一台の馬車が屋敷に走って来る。
出迎えれば、雨でずぶぬれになったオフェリアが抱きついてきた。
マリアに抱きつくと、オフェリアは声をあげて泣き始める。
今回ばかりは、マリアが慰めても無理だ。オフェリアの涙がおさまるまで、マリアは妹を優しく抱きしめた。
国王主催の交流会。朝出発するときはうきうきした様子だったのに、帰って来てからのオフェリアは一言も話さず、マリアにぴったりくっついてばかりだった。
思い出したようにぐずぐずと泣き出すオフェリアは、やがて泣き疲れて眠ってしまった。
「マリア様、ナタリア様もお休みになったみたいです」
オフェリアの寝顔を眺めていたマリアに、ベルダがおずおずと声をかける。
「……そう。あなたにも、気を遣わせるわね」
「そんな、いいんです。こんなことしか私にはできないし……遠慮せず、何でも言いつけてください!」
馬車から下りてきたとき、ナタリアも目を真っ赤にしていた。
オフェリアの手前必死で我慢しているが、ナタリアも悲しみを堪えるのに精一杯で――耐えられないだろうと判断したマリアは、ナタリアを無理やりにでも自室に下がらせるよう、ベルダに頼んだ。
ナタリアも、今日ばかりは強がることもできないようだ。ベルダに後を任せ、自室に閉じこもった。
心配したベルダがときおり様子を見に行き、ナタリアも泣き伏せていると、マリアに何度か報告しに来た。
沈むナタリアを叱咤激励するべき……それが自分の役目だと分かっているけれど……今回ばかりは、行動を起こす気になれない。
深く溜息をつくマリアに、ベルダがさらに話しかけてきた。
「あの、伯爵が来てくれてますよ。マリア様の部屋に案内したらいいですか?」
「いいえ」
間髪入れず断るマリアに、ベルダがびくりと身をすくませる。
「お帰りいただいて。慰めてもらう必要はないわ。同情はごめんよ」
いつもより口調が強くなってしまうが、自分を抑えることもできない。ベルダの返事も待たず、マリアは自室へ引っ込んだ。
乱雑に服を脱ぎ捨て、適当に寝衣に着替える。マリアはふと、窓を見た。
真っ暗で、外は何も見えない。雨は止まず、ステンドグラスにつく水滴をマリアはなぞる。
――そう言えば、あの人が初めて部屋を訪れた日も、こんな雨だったわ……。
「お帰りくださいと、ベルダには伝えさせたはずですが?」
ガラスに映る伯爵に向かって、マリアが言った。
今回はマサパンもいなかったから、簡単に侵入できたようだ。振り返ることもなく、ガラス越しに伯爵を見つめる。
「今夜はそういう気分になれません、伯爵――いやです、ヴィクトール様!いや……!」
無遠慮に近付き、伯爵は軽々とマリアを持ち上げる。
片手で引っ張り上げられ、担がれてしまったマリアは、そのままベッドに放り出された。
「いやなの……やだ……!」
小さな子どものように嫌がり、覆い被さってくる伯爵の胸を、弱々しく押し返す。マリアのささやかな抵抗など、あっという間に封じられてしまった。
口先ばかりの拒絶では、伯爵は追い返せない。
もっと脱がしにくい服を着ていればよかったのだ――手伝いがないから面倒だったなんて、ただの言い訳。部屋に鍵もかけず、本当は、来てくれることを期待していた。
……まったく。マリアの期待に応えるのが上手い人なんだから。
「ヴィクトール様はひどい人です」
そう言いながら、マリアは伯爵の胸に甘えるように寄りかかり、彼の腕の中で抱きすくめられていた。
何をいまさら、と伯爵が笑う。
「私が優しい紳士だなどという幻想は、とうに壊しておいたはずだろう」
マリアの髪を優しく撫でる指先を、ピッと弾く。わかったわかった、と伯爵が観念したような口調でささやく。
「何か詫びをしよう。何がいい?」
「でしたら、昨日私が着ていた乗馬服を、もうしばらく借していただけませんか」
「貸すも何も、あれはもう君の物だ。しかし、改めてそう言ってくるということは、何か用があるのか?」
「メレディスが、乗馬をする私も描きたいと」
途端、マリアの頬を伯爵が引っ張る。
「わざと彼の話題を出したな」
「ヴィクトール様は、こういう私のほうがお好きみたいなので」
胸にもたれ掛かったまま、上目遣いで伯爵を見る。
「いやだなんて、嘘ですから。ヴィクトール様の腕の中が、私にとって一番安らげる場所ですわ……」
「君は本当に、分かりやすい態度を取るな。浮気をすると、可愛らしく甘えてくる」
「お気に召しません?」
甘えるようにマリアが問いかければ、召さん、と伯爵がきっぱりと答える。
「もっとサービスすべきだ」
もっと頑張らせていただきます、と笑い、マリアは伯爵の首に腕を回した。
オフェリアは朝からマリアにぴったりとくっつき、いつもより言葉少なであった。
それでも昨日よりは落ち着いた様子で――やはり、昨日はマリアも不安定な状態だったというのも影響していたのだろう。
ナタリアも、マリアが穏やかに笑っている姿を見て、気持ちが落ち着いたようだった。
ベルダもいつもの調子を取り戻し、そんな顔で仕事とか無理でしょ、と軽口を叩いてナタリアに休みを取らせた。マリアも、今日の仕事は、ベルダに半分は任せておくよう言いつけた――何もしないというのは、かえって辛いだろうから。
緩やかに普段の調子を取り戻していくオフェリアのため、伯爵はノアに命じてマサパンを連れて来てくれた。伯爵、ベルダと共に、オフェリアはマサパンと散歩に出かけていく。
妹を気分転換も兼ねて連れ出してくれたことに感謝しつつ、マリアはナタリア、ノアと共に再び城へ向かった。
目的はもちろん、ロランド王とシルビオに会うため。
「昨日は無礼を働いてしまい、申し訳ありませんでした」
「気にすることはない」
マリアの再訪を、ロランド王は歓迎してくれた。
「余にとっても、クリスティアンは大事な人間だった。父の部下というだけでなく、忙しい父に代わって余の面倒もよく見てくれた……第二の父とも呼べる存在だった。キシリア王への忠誠に殉じたが、余としては、例え父王殺しの汚名を着せられようと、厳しい戦になろうと、彼には生きていて欲しかったぞ」
それは、マリアを慰めるための方便ではなかったと思う。
シルビオが父の最期を語った時、ロランド王は涙こそ見せなかったが、さりげなく目元を押さえていた。
「マリア、そなたたちは必ず生き残れ。例えキシリアの王を踏み台にしてもな」
力強く言い切るロランド王に、マリアははっきりと頷いた。それを受けて王も穏やかに笑い、マリアの頭をポンと撫でた。
「美しく成長したな。きっとクリスティアンも、いまのマリアの姿をとても誇らしく思っていることだろう」
「ありがとうございます。ロランド様のお言葉は、何よりの励みになります」
ロランド王の手が、そっとマリアの頬に触れる。
「父親に似ていたが、そうやって笑っていると特に見間違えそうになるな。だが不思議なものだ。父親と同じ顔ではあるが、そなたには女性特有の美しさもある。やはり、母親の美しさも引き継いでいるからだろう。クリスティアンの容貌を持ってしても、その緑色の瞳は美しい……」
これはまずいな、とマリアは思った。
ロランド王の背後に控えるサンチョも、また王の悪い病気が始まったという表情をしている。
マリアが言える立場ではないが――ロランド王の女好きは有名な話だ。
マリアの顎に手を添えて軽く上を向かせ、王が顔を近づけて来る。
「アルフォンソ様はお元気ですか?」
女性の名前に、ロランド王がぴたりと動きを止めた。
「この状況で、あいつの名前を出すか」
「私、アルフォンソ様のことが好きですわ。母が亡くなった時、私たちを気遣い、大変親切にしてくださいました」
王太子時代からの恋人であり、いまやキシリア王妃となったアルフォンソにマリアは想いを馳せる。
マリアやロランド王より年上の彼女は、控えめながらも世話好きで、心優しい女性だった。それでいてロランド王を諌めることができる数少ない人でもあり、王も彼女には頭が上がらないところがある。
「ロランド様の寵愛を巡って、彼女と対立してしたくありません。どうかロランド様のことは、純粋にお慕いさせてくださいませ」
「……やれやれ。クリスティアンと同じ顔でそう言われては、私も強くは出れんな」
浮気な夫ではあっても、やはり王と王妃は強い絆で結ばれている。それにマリアが割り込みたくはなかった。
クスクスと笑いながら、マリアは本題を切り出すことにした。
「ロランド様。私、もう一人会いたい人物がおります。シルビオと、もう一度会って話すこと、お許し頂けますでしょうか?」
「それはたやすいことだ」
ロランドがサンチョに視線をやる。サンチョも同意し、マリアは再びシルビオのもとへ案内されることになった。
シルビオは昨日と同じ部屋に軟禁されていたが、見知らぬ男が一人増えている。
シルビオの従者らしい。かなり年配の男性だが、幼い頃からシルビオに仕え、彼の忠誠はベラルダ家ではなくシルビオ個人にあるそうだ。シルビオの背反にも、共に付き従うらしい。
「昨日は動揺していたが、もう元に戻ったのか。もう少し見ていたかったのに残念だ。お前が取り乱す姿など、貴重な場面だったのに」
マリアを見るなりシルビオが言った。にこりと笑い、マリアはロランド王を振り返る。
「ロランド様は、シルビオを部下にしたいとお考えなのですよね」
明言はしなかったが、ロランド王はシルビオを部下に加えたいに違いない。その意思がないのなら、悩むことすらしない御方だろう。
だが懸念材料が多過ぎる。クリスティアンの話も、完全な作り話という可能性だってあるのだから。
「私、シルビオを懐柔しようと思いますの」
ロランドは目を丸くし、シルビオは興味深そうにニヤリと笑った。
「面白い。どうやって俺を手懐けるつもりだ?」
「買収よ」
「買収されるほど、金には困っていないぞ」
「違うわ。私が持つ財産と言えば、これに決まっているじゃない」
マリアは自分の胸元に手を当てる。意味を察したロランドは口をあんぐりと開け、今度はシルビオが目を丸くした。
「私は拒んだのに!?」
「すみません。妻帯者は面倒くさ……いえ、厄介だと骨身に染みているので、本気で遠慮したかったんです」
先ほど拒否されたロランド王が異議を唱えたが、彼を見もせずマリアは答える。シルビオは低く笑った。
「生憎、女にも不自由していない。王家の血筋というだけで、有難がる奴は山ほどいてな。どうか抱いてくださいと懇願してくる女が、部屋の前で列を成すほどだ」
「あら。だったら、私が初めての女になってあげるわ」
挑発的に笑いかけ、マリアが言葉を続ける。
「私に跪いて、どうか一夜の相手に選んでくださいと、あなたに懇願させてあげる」
「この俺に、そんな真似をしろと」
そう言いつつも、シルビオは気分を害した様子はない。見え透いた挑発を、かえって愉快に感じているようだ。
「負けっ放しのあなたに、雪辱を果たす機会をあげるのよ。今夜あなたが私の部屋を訪ねてきて跪けば、の話だけど」
「待て。俺は監視されている身だぞ。この部屋から出ることすら許されていないというのに、お前の屋敷にまで忍びこめと?お前の住んでいる地域も、警備は尋常ではないはずだろう」
「その通りよ。それぐらいのことができない男なんか、部屋に入れるわけないじゃない」
マリアの屋敷があるあたりは、上級役人や高位の騎士による巡回も頻繁に行われ、厳しい警備が施されている。 一度ならず者に侵入されたことはあるが、あれは元の屋敷の持ち主の手引きがあったりと特殊な事情があったから成し得たこと。ウィンダム市民であっても気軽に立ち入ることすらできない地域――そんなところへあっさりと侵入できる、伯爵のような例外もいるだろうが。
「ロランド様。シルビオへの警戒は容赦なく行ってください。部屋からの逃亡は、反逆の証として斬り捨てても構わぬかと。それぐらいの気骨も才覚もない男では、どうせ部下にしたところで役に立たないでしょう。父が見込んだ男なら、きっと軽々とやってのけてくれるはずです」
笑顔でマリアが言い切れば、ロランドも声をあげて笑った。舌打ちしながらも、シルビオも笑っていた。




