表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第二部01 春の訪れ
38/252

-番外編- エリオット


「スカーレットをキシリアへ嫁がせるのですか?ローズマリーではなく?まあ、そんな……。妹に結婚相手を奪われただなんて、ローズマリーは、いい笑いものになってしまいますわ。いくらなんでも、可哀想じゃありませんの」


不意に聞こえてきた会話に、エリオットは足を止めた。

書斎を覗けば、オルディス公爵とその夫人が話をしている。


「これについて、お前の意見は求めていない。お前は、政治というものを分かっていなさ過ぎる。ただの結婚ではない。国同士の関係がかかったものなのだ。キシリア宰相に嫁ぐには並大抵の努力では叶わんと、あれには再三に渡り忠告してきた。それにも関わらず、一切努力もせず、それどころか、男と手を切ろうとせん。自業自得だ。我が家の――いや、エンジェリクの恥を晒すわけにはいかん。キシリア宰相クリスティアン殿には、妹娘のスカーレットを嫁がせる」

「その代わりの婿が、ポーダリオス男爵家の息子だなんて。あんまりの仕打ちですわ。ローズマリーの美しさにも、品格にも、釣り合いが取れません」


公爵夫人はエリオットを嫌ってはいない。だが悪意なく、エリオットを見下す傾向があった。

もっとも、それも当然の立場ではある。


十五で社交界デビューしたものの、その翌日には両親が他界。財産も後ろ盾もなく放り出されてしまったエリオットは、オルディス公爵の厚意で支えられていた。

本来、ローズマリー・オルディスの婿になれるような人間ではない。王妃にもなれる身分の女性だ。オルディス家に婿入りしてほしいと公爵から打診された時、エリオットもにわかには信じられなかった。


「釣り合いが取れんのは、むしろローズマリーのほうだ。それが分からんのなら、お前は黙っていなさい」


ローズマリーに相応しくないと自覚はしていても、公爵がはっきりと庇ってくれたのは嬉しかった。

ローズマリーとの結婚は正直気が重いが、自分に期待と信頼を寄せてくれる公爵のために頑張ろう。エリオットはそう決意した。




「妻がすまんな。八人兄弟の末っ子として蝶よ花よと育てられ、いささか考え方が浅いところがある。私のような男の妻には、あれぐらい楽観的な女のほうがよいと思っているのだが。君にとっては良い義母とは言えまい。不愉快な思いをさせてしまうな」

「いえ、そんな」

「母としても少々問題があった。いや、正確にはこのオルディス公爵家の母として、か。五人の兄と二人の姉に囲まれ育った妻が、その感覚でローズマリーの乳母や侍女を決めてしまったものだから、長子の自覚も責任感もない娘に育ってしまった。私も初めての子ゆえ、認識が甘かったのもあるだろう。次女のスカーレットには厳しく躾けたが……。もはやローズマリーのほうは、矯正することも不可能だ」


結婚するなら妹のスカーレットのほうがいい。それが正直なエリオットの気持ちだった。

心優しく聡明な彼女のほうが好ましく感じるのは当たり前だし、公爵夫人以上に自分を見下しているローズマリーと、とても上手くいくとは思えない。スカーレットは公爵同様、エリオットを見下すことなく対等に接してくれた。

だから彼女がキシリアへ嫁ぐことが決まった時は胸が痛んだ。しかし公爵の判断が間違っているとは思わない。


スカーレットを迎えにオルディス領を訪ねてきたキシリア宰相クリスティアンと会い、エリオットはそう感じた。


「宰相といっても、王位争いで揉めた結果空白になってしまった席に、たまたま私が座ることになっただけだ。本当は、宰相になどなれる器でもない」


クリスティアンは、美女と誉れ高いオルディス姉妹にも劣らぬ美貌の持ち主で、非常に感じの好い青年だった。

エリオットを真っ直ぐに見据え、気取ることなく声をかけてくれた。


「年の近い人と会えてよかった。皮肉なもので、いまは同じキシリア人より、外国人のほうがずっと信頼できるんだ。こんなに穏やかな気持ちで話ができたのは、とても久しぶりだった。あなたと義兄弟になれたことが、何よりの収穫かもしれないな。これからも、話す機会を持ちたいものだ」


そう言って差し出された手を、ためらいながらも握り返した。そして、とても素直な気持ちでスカーレットの結婚を祝福した。幸せになるわ、と言った微笑んだスカーレットは、いままで見たどの姿よりも美しかった。


一方で、ローズマリーとエリオットの結婚生活は、予想通りの悲惨なものだった。

妹に結婚を奪われたと思い込むローズマリーは、公爵への反抗も酷くなり、エリオットのことは夫として認めようともしない。


それでも、公爵への敬意がエリオットを支えた。ときおり届くスカーレットやクリスティアンの手紙にもずいぶん慰められた。子どもを身ごもった、という幸せいっぱいの知らせを伝える彼女たちが羨ましくもあったが、二人が幸せであることは救いだった。




公爵の死が、エリオットにとって地獄の始まりだった。


第二の父として仰いだ公爵の死を嘆く暇もなく、全ての重圧がエリオットの肩に圧し掛かって来た。

公爵夫人は倒れてしまい、妻は失踪、頼りにしていた執事や召使いたちも悲劇に苦しんで辞めてしまい、オルディス領を支えるのはエリオット一人だった。


なんとか領を支えようと苦心するエリオットに、妻は完全に敵となった。

エリオットが奔走している間に屋敷へ戻って来たローズマリーは、長らく仕えてくれた忠実な召使いたちを全員首にしてしまい、自分に都合の良い人間を雇った。

彼女たちは夫を見下す主人にならい、エリオットを侮蔑した。おまけに財政も顧みず浪費を繰り返すところまで主人にならい、ろくに働きもせず財産を着服していく。彼女たちが働いてくれない分、他の人間を雇う羽目になり、余計な出費が増えていくばかり。


領民たちはエリオットを慕ってくれたが、その期待も辛かった。

もう立て直すことのできないオルディス領。領主ならどうにかしてくれるという期待。それに応えられない現実。破産の足音も、すぐそこまで近づいている。


とどめは、ローズマリーの妊娠だ。


「妊娠したわ。もちろん、あなたの子じゃない。オルディス家の後継ぎはこの子よ。父親ですらないあなたには、何の権利もないわ。それを自覚して、せいぜい分を弁えなさい」


冷たく言い放った彼女に、そこまで憎まれなくてはならないのか、と反論が喉まで出かかった。


それを押しとどめたのは、どうしようもない絶望感と虚しさ。

どうして自分ばかりこんな目に遭わなくてはならないのだ……。




バサバサッ、と本が滑り落ちていく音に、エリオットはハッと気がついた。


「ああ、やってしまった……」


資料を読みふけるあまり、左手に力が入らないことを忘れ、つい本を持ってしまった。本棚に右手をつき、慎重に膝を折る。左脚が不自由なエリオットには、屈む、立ち上がるといった行為は一苦労だ。


「おじ様、いまの音は……?まあ、そんなこと。人を呼べばいいではありませんか。そのために新しく雇ったのですから」


エリオットの失敗に気付き、マリアが書斎に入って来た。落とした本を、一緒に拾う。


屋敷には、新しい召使いが雇われていた。男が六人、女が四人――女性は全員年配だった。若い子なんてだめですからね、と悪戯っぽく言ったマリアは可愛らしくて、エリオットも思わず笑ってしまった。


「退院した翌日から、お仕事だなんて。勤勉が過ぎますよ」

「むしろ、早く仕事がしたくてたまらないんだ。リハビリ以外は特にやることもなくて、病院での生活は暇で仕方なかったよ」

「お気持ちは分かります。私の手伝いは必要ですか?」


マリアの申し出を有難く受け入れ、仕事を始める。


かつて公爵が座っていた机にエリオットが腰掛け、公爵の助手として自分が座っていた席にはマリアが座る。書類と向き合いながら、時々マリアに視線をやった。


初恋と呼ぶには淡い想いの相手であったスカーレットと、瓜二つのオフェリア。自分が敬愛した人たちの面影を、両方色濃く宿すマリア。彼女たちが自分を訪ねて来てくれた時、追い返すという選択肢は存在しなかった。

けれど、顔を合わせるのは辛くて――彼女たちを通して、不甲斐ない自分を彼らに見られるのが情けなくて。

こんな自分を、マリアは救ってくれた。


――今日までオルディス家が続いているのは、おじ様のおかげです……。

あの言葉がエリオットにとってどれほど嬉しいものだったか、きっとマリアは知らないだろう。

何よりも、キシリア宰相と同じ顔で、オルディス公爵と同じ瞳で。彼女はそう言ってくれた。


彼女から敬意の眼差しを向けられ、堪らなくなり、手を伸ばしてしまった。嫌がる素振りも見せず自分を受け入れてくれた彼女に、どんどん欲深くなっていった……。


「おじ様、少しお聞きしたいことが……」


書類から顔を上げたマリアと目が合い、彼女を見つめていたエリオットは慌ててしまう。マリアにクスクスと笑われてしまった。


「やっぱり、仕事はゆっくり始めることにしましょう」

「面目ない」


自分から言い出したことなのに、さっそく休憩になってしまった。やはり長い間休んでいたせいか、仕事への集中力がいまいちだ。

……というか、マリアに気が取られて仕方がない。自分は淡白なんだと思い込んでいたのだが、どうやら人並みに欲はあったらしい。


マリアから女性の柔らかさを教えられて以来、エリオットは性欲を抑えるのに、意外と苦労していた。対象はマリア限定なので、彼女と二人きりにならなければ問題はないのだが……。


マリアの女性としての魅力は増すばかりで。昨夜の大胆な誘い方には参った。思い出さないよう努力しているが、女性経験の乏しいエリオットでは思うようにはいかない。


「おじ様、まだ昼間ですが」


気がついたら、長椅子に座ってマリアにぴったり寄り添ってしまっていた。マリアにたしなめられ、エリオットは頭を抱えた。


エリオットの腕からするりと抜け出したマリアは、扉に近づく。ガチャリ、と鍵を閉める音がした。そしてまた、エリオットの腕の中に戻って来る。


「マリア、僕を恨んではいないのかい」

「恨む。また、どうして?」

「僕は、君が拒めない立場なのを利用して、君に迫った」


そんなつもりはなかった。

あのときは、自分に敬意を向けてくれるマリアが愛しくて堪らなくて。拒まれないことに舞い上がってしまって……。


だが冷静になって考えてみれば、マリアは拒まなかったのではなく、拒めなかったのではないか。エリオットに追い出されたら、彼女たちには行き場がない。特に、妹を抱えているマリアには……。


自分が追い出される立場になり、彼女に泣いて縋って思い知った。快くエリオットの面倒を見てくれたマリアに対して、自分は何をしたのか、ということを。


「私が自ら望んだことなのに?そんなの、逆恨みではありませんか」

「そう選択せざるを得なかった。ナタリアが一時僕に冷たかったのは、そのせいだろう」

「気付いてましたの」

「気のせいで誤魔化してたけど、いまから思えば、やっぱりそうだったのかなって」


マリアは、甘えるようにエリオットの胸にすり寄る。


マリアに他に男がいることは、三度目の逢瀬で気付いた。義理の娘の死で頭がいっぱいで、すぐには気付かなかったけれど、明らかに反応が違った。それまでエリオット任せで拙かった彼女が、さりげなく主導権を握るようになり、妖艶さと可憐さに拍車がかかっていた。


気付かないふりをしたが、オルディス領に戻ってからは無視できなくなった。

ガーランド商会の、ホールデン伯爵。彼のマリアに対する思い入れは、単なる親切を超えている。自分もそうだから、彼が女としてマリアを見ていることを、分からないはずがない。

伯爵には勝てない――こんな身体では、なおのこと。

そう思って諦めようとしたのに、マリアはなぜか、まだエリオットの腕の中にいる。


「おじ様ったら、片手で服を脱がせるのがすっかり上手になって」


からかうように言われ、エリオットは気付いた。

ほとんど無意識に、右手でマリアの服のボタンを外している。一人でボタンを留めるのは、まだ難しいというのに。


「こんなに欲望に弱いおじ様を、一人残していくのはとっても心配です」

「いや、マリア限定だから」

「本当に?」


本当に、と相槌を打つ。

名残惜しいというのもあると思う。

もうすぐマリアは王都へ戻ってしまう。領の立て直しが始まり、エリオットはそう簡単にはオルディス領を離れられなくなった。

しかもこの身体では、いままでのように気楽に出かけることもできない。当分彼女に触れられなくなるのかと思うと、本当は一日中でもベッドにいたい気分だ。


「……おじ様は、人が好過ぎです。私は男性の好意を利用する、ただの淫蕩な女です。それが私の本性なのですから、気遣う必要はありません」


そう言ってマリアは笑ったが、どこかそれは自嘲気味な笑みだった。


マリアは卑下し過ぎだとエリオットをたしなめたが、マリアも自分を卑下し過ぎていると思う。

例えエリオットを利用する打算があったとしても、それだけで自分やオルディス領に献身的になれるはずがない。完全な打算だったとしても、彼女の行いは評価されるべきだ。


現に、オルディスの屋敷は身体が不自由になってしまったエリオットが過ごしやすいよう、配慮が行き届いている。

書斎と寝室は一階に移され、廊下には手すりが完備されている。粗末な家財道具しかなかったエリオットの部屋には、いくつか買い戻された品が替わりに置かれていた。帳簿を確認したが、公爵領の予算から購入したわけではない。マリアが自費で支払ってくれたもの。これだけの献身の前に、理由がどうとか、考える必要もない。

……ちゃっかり風呂まで作っていたのには、さすがに笑ってしまったが。


「マリア、用水路修復の一件が僕の手柄になっているのは、いくらなんでも譲り過ぎだ」

「そんなこと。橋渡しをしたのは私ですが、十四年もの間、私が来るまで耐え抜いたのは間違いなくおじ様の功績でしょう。最後の良い結果だけを掠め取っていくような真似はできません」


打算だとか、そんなことどうでもいい。利用されているだけであっても構うものか。

自分に惜しみない賛辞と敬意を送ってくれるマリアを、手放したくはない。恋や愛というよりもっと重苦しい感情だが、エリオットには間違いなく彼女が必要だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ