ある陽気な一日 (4)
マリアが屋敷に戻ってくると、庭でメレディスとオフェリアが並んでスケッチを取っていた。
「お姉様だ!お帰りなさい!」
マリアを見つけ、オフェリアが飛び付いてくる。そして、嬉しそうに描いた絵を見せた。
「お庭を描いたのよ。でも、お花もあんまり咲いてないし、ちょっと寂しい絵になっちゃった」
「用水路が修復したら、花を育てるのも楽になるわ、きっと。来年には、色んな花を植えられるようにしましょうね」
オフェリアと話をしていると、メレディスが近づいてくる。
「マリア。今日もモデルの続きを、お願いしてもいいかな。今日は勝手に寝てしまわないよう、気を付けるから」
マリアに一服盛られたことに気付いていないのか、突然の寝落ちはよくあることなので気にもしていないのか――メレディスの場合は後者だろう、おそらく。
今度は、寝室へメレディスを案内した。 あの様子では、マリアはまた途中で眠る羽目になりそうだし、メレディスを眠らせてしまうにしても、最初から寝室にしておいたほうがあとが楽でいい。
女性の寝室に入るというのにメレディスは何らためらうこともなく、画材道具を広げ始める。
マリアはベッドに腰掛け、溜め息をついた。
「ねえ、メレディス。いまのあなたに、私を描くのは無理だと思うの」
どう描き始めるか悩んでいるメレディスに、マリアは声をかけた。
「あなたが言ったのよ。私の見てくれが描きたいんじゃなくて、内面に持つものを描きたいんだって。私、見ただけで何もかもわかるような、単純な女ではないつもりよ」
マリアの言葉に、メレディスも思い当たるものがあるようだった。
芸術には疎いが、見ただけでは見えてこないものがあることは、マリアもよく知っている。以前商会で働いていたときに、見かけに侮って失敗したことがあるのだから。
「自分の目で見て確かめるのは大事だけど、耳で聞いて、肌で感じて、そうやって相手を見抜いていくものでしょ。メレディスは、目に頼り過ぎじゃない?」
しばらく黙り込んで考えたあと、メレディスは手に持っていた画材道具を置き、マリアに向き合った。
「マリアの言う通りだ。僕、君と話をしたこともほとんどなかったのに……それで内面まで描き切ろうなんて。そもそもが無理な話だった。うん……そうだね。絵を描くのは一旦中止して、おしゃべりでもしようか」
マリアが頷くと、メレディスは改めてマリアと自分の足元を見比べる。
どうやら、この距離が気になっているらしい。
「えーっと……僕も、隣に座らせてもらってもいいかな?」
端に寄り、メレディスに座るよう促す。
マリアが腰かけているベッドに座り、メレディスはまた考え込んだ。
「改めて考えると、おしゃべりっていうのも難しいね。うーん……そうだな……好きな花は?」
「クラベルよ」
なんとも滑稽な質問に笑いながら、マリアが答えた。花の名に聞き覚えがないのか、メレディスが首をかしげる。
「エンジェリクでは、違う呼び名だったわね。カーネーションのことよ」
「カーネーションか。うん。華やかだけど、派手じゃなくて、綺麗な花だ。マリアにぴったりだね」
「ありがとう。そうね、それじゃあ……私の好きな色を当ててみて。ちゃんと私を見てれば分かるはず。カーネーションに関係ある色よ」
うーん、とメレディスが考える。
「赤とか?」
「カーネーションだから赤って単純過ぎ。それでも芸術家なの?」
「えー……じゃあ、白……いやピンク……。マリアのイメージじゃないな。分かった、紫だ」
「紫は素敵ね。でもはずれ。正解は緑よ」
「えっ。カーネーションって、緑色の花もあるのかい?」
「探せばあるんじゃない。カーネーションの葉は緑色でしょ」
そんなのヒントになってないよ、と言いつつ、メレディスは笑った。明るい笑顔につられ、マリアも笑う。
そして、メレディスは優しい笑顔でマリアを見つめた。
「でも言われてみれば、君がいつも髪を束ねるのに使っているリボンの色は緑だし、いま着てる服のリボンタイも緑。ちゃんと観察していれば、すぐにわかることだったんだ。目の色に合わせてるだけだと思って、僕が見落としてた……」
そう言って、メレディスはマリアの顔に手を伸ばす。
存在を確かめるようにマリアに触れ、瞳を覗きこんだ。
「マリアって……よく見ると、結構童顔なんだね。普段、大人びた振る舞いをしてるから気付かなかったけど……もしかしたら、単純な顔の造詣は、オフェリアより幼いんじゃないか」
「たぶん、そうだと思うわ。私がよく似ていると言われたお父様は、年相応に見られたことがなかったそうだもの」
若く見えると言えば聞こえはいいが、年相応の見た目ではなくて……父は、それがちょっとコンプレックスだったらしい。若く見られると、侮られることのほうが多いし。
「それに髪の色も、僕と同じ茶色だけど、僕が黒っぽい茶色なのに対して、マリアのは少し赤みがかってる。参ったな……僕、本当にちゃんと見れてなかった」
マリアの顔に触れるメレディスの手が、下へと降りてくる。指先が、マリアの唇をなぞった。
「ドレス姿を見て初めて君の美しさに気づいたけど、どんな姿をしていたって、マリアは綺麗なのに」
メレディスの顔が近付いてくるのを、マリアは目をつむって受け入れた。
後から考えてみれば、メレディスを寝室に招き入れたことがそもそもの過ちだった。
偉そうに説教しながらマリアもどこかでメレディスを侮っていたのか、それとも……。
なぜか、マリアはメレディスに強く惹かれていた。だからきっと、こうなることを心のどこかで期待していたのだと思う。
いったい彼の何に惹かれたのかは、いまのマリアにはわからなかった。
聞き慣れない物音に、マリアは目を覚ました。
木炭がキャンパスをこする音――静かな音ではあったが、聞き慣れていないマリアの耳はその音をよく拾った。
目を開けてみれば、隣で眠っていたはずのメレディスが遠い。ベッドのそばに椅子を引き寄せて、デッサンに集中していた。
「おはよう、マリア。起きたばかりのところを申し訳ないんだけど、いますぐあのドレスを着てもらえるかな。もう色塗りに入れそうなんだ」
着替えをするということは部屋に人を呼ぶということなのだが、メレディスは自分たちの姿を分かっているのだろうか。
マリアは裸、メレディスは――下はちゃんと履いているが、上はシャツを引っかけただけの姿。何があったか一目瞭然だ。
もっとも、ナタリアを友人や家族のように扱って、召使いの反応を気にするマリアのほうが、貴族としては異質なのだろうが。絵に夢中になって忘れているのもあるが、メレディスもたぶん良いところの育ちで、召使いの存在に慣れているのだろう……。
呼ばれて部屋に入ってきたナタリアの反応は、おおむねマリアが予想していた通りだった。ただ、彼女もメレディスの真剣な様子に水は差せず、マリアの着替えを手伝った。
しばらくはマリアも黙ってメレディスに付き合ったが、今日の予定が気になり、口を開いた。
「まだかかる?今日はオフェリアの誕生日だから、私もパーティーの準備を手伝いたいのだけど」
「うん……そうだね。一通りのところは描けたから、抜けてもらっても大丈夫だと思う。もうしばらく、部屋は借りててもいいかな」
メレディスが頷いたので、マリアは遠慮なく席を外した。
オフェリアはウキウキしながら、パーティーの準備をするマリアたちを手伝おうとしている。 ナタリアやベルダはやんわり拒否したが、完全に除け者にされるのも嫌らしい。
「みんなして私を仲間外れにするなんて!ひどいわ!」
マサパンを抱きしめながら、プンプンとオフェリアは拗ねていた。
マサパンはガーランド商会で飼われている犬で、オフェリアの大事な友達。パーティーの準備で忙しいから、オフェリアの子守りを任せようと連れてきた――マサパンはオフェリアに抱きしめられ、ご機嫌で尻尾を振っていた。
「……分かったわ。仲間外れにしてごめんなさい。一緒に、遊びに出かけましょうか」
どうやら、オフェリアは外へ連れ出したほうがよさそうだ。マリアが一緒に行くと言えば、オフェリアは途端に上機嫌になって、お出かけの準備をする。
お願いします、とナタリアとベルダがマリアに礼を述べた。オフェリアに気付かれないよう、こっそりと。
遠出はできないので、公爵邸のすぐ近くに流れる川へ向かうことにした。
川の水は、陽の光を反射してキラキラと光り、涼しげな音を立てて流れていた。すぐそばに川があるから、公爵邸は生活に困らない。
用水路が完全に修復されれば、領全体に水が行き渡り、領民たちの生活も安定するのだ……。
「あらあら。オフェリアったら」
今日は、少し暑いぐらいに気温が高い日だった。
水辺の涼しさが心地良いと、マリアもそう感じていたのだが……オフェリアは、水辺を散歩するだけでは満足できなかったようで。
靴もドレスもさっさと脱ぎ捨てて、川で水遊びを始めてしまった。
「お姉様も入ろうよ。お水が冷たくて、とっても気持ちいい」
肌着だけの無防備な姿を晒す妹に苦笑しつつ、マリアも靴を脱ぐ。
川に足を踏み入れ……たしかに、水の冷たさが気持ちいい。
オフェリアが、ばしゃっと水をかけてきた。こら、とマリアがたしなめても、オフェリアは悪戯っぽく笑うばかりで。
しかも、マサパンまで川に飛び込んできて――豪快な水しぶきに、マリアの服もずぶ濡れだ。
「もう。マサパンまで」
そう言いながらもマリアも笑い、ドレスを脱ぎ捨てた。
オフェリアははしゃぎ、マサパンも嬉しそうに跳ね回っている……と、思ったら、マサパンが振り返り、ワンワンと吠え始めた。
吠えてはいるが、敵意はない。水に濡れて重たくなった尻尾を、ふりふりと振っていて。マサパンが吠える先には、男が一人。
「絶景、絶景。いやぁ、良い眺めだ!」
長身で体格が良く、顔立ちも厳ついウォルトン副団長は、オフェリアを怯えさせる要素を十分兼ね備えた男だった。
マリアのうしろにパッと隠れて……副団長は、オフェリアのそんな姿を気にする様子もなく川辺に近づいてきて、満面の笑みを浮かべていた。
「よう。こんなところで会えるとは奇遇だな。もっとも、君に会えないかとウロウロしていたんだが。その子は……交流会にいたな。馬に乗る姿が様になっていたのを覚えてるぞ。エンジェリクの男顔負けの腕前だった」
「妹のオフェリアです。オフェリア、こちらは王国騎士団に勤めていらっしゃる、ライオネル・ウォルトン様よ」
姉に紹介され、オフェリアがおずおずと顔を出す。副団長がニカッと笑い、目が合った途端、オフェリアはまたマリアの背中に隠れてしまった。
「申し訳ありません。妹は人見知りで」
「構わんよ。見知らぬ男に対しては、それぐらい警戒してちょうどいいものさ」
ウォルトン副団長はかがんで手を伸ばし、水に触れて――。
「今日は暑いな。僕も服を脱いで、水浴びしたいぐらいだ」
マリアは返事をしようと口を開きかけて……その声は、悲鳴にかき消された。
「きゃあっ!」
ウォルトン副団長による攻撃は、オフェリアのそれとは比較にもならなかった。
バケツをひっくり返したような水が、頭上から降り注いできて――マリアはもちろん、うしろに隠れていたオフェリアまでぐっしょりと。マサパンも、毛皮が垂れ下がって面白い姿に。
「はっはっはっ!いやぁ、すまん、すまん!君たちが楽しそうにしている姿を見たら、羨ましくなってな」
「……大人げないにも、ほどがありましてよ!」
お返しとばかりに水をかけるが、副団長はひょいっと避けた。非常に憎たらしいことに。
マリアは、ウォルトン副団長に飛びつく。腕にしがみつき、彼を川に引きずり込もうと……でも、副団長はびくともしない。
「オフェリア!レオン様を川に沈めるわよ!」
ぽかんとしていたオフェリアは、姉の指示を受けて我に返り、自分もウォルトン副団長に飛びついた。もう片方の腕にオフェリアが……でも、王国騎士団の副団長は動じない。女二人を腕にぶら下げ、余裕たっぷりで――。
「ま、待て……!君はちょっと……さすがに反則だぞ!」
川から上がり、意味ありげに距離を取って、助走をつけるような仕草を見せるマサパンに、さすがの副団長も慌てた。
巨体に突進され――逃げる様子を見せた副団長の腰元をしっかり狙い、マサパンは見事、彼を川に突き落とした。
「ぶはっ……!こ、こらこら!それは卑怯じゃないか!」
マリアとオフェリアをしがみつかせたまま、副団長は川に落ち――そんな彼に、容赦なく二人は追い打ちをかける。
マリアは起き上がって、無様に川に落ちた副団長の背中によじ登って川に押し込める。オフェリアも姉の真似をして背中に登ろうとしたが、うまくいかなくて、肩にしがみつくのが精一杯だった。
空いた片手で、副団長は軽々とマリアの身体を担ぎ上げる。放り投げられて、マリアも改めて川の中へ。オフェリアも、すぐに川へ放り投げられていた。
――あとから考えてみれば。
この時の副団長は、なんだかんだ、ものすごく手加減してくれていたと思う。
マリアやオフェリアと共に川に落ちる時も、二人にダメージを与えないような体勢を取っていたし、放り投げる時も、上手く受け身を取って水の中に落ちるよう、かなり配慮した投げ方だった。
半端ない実力者だからこそ、できたこと。もしかしたら、川に落ちたのすら、彼なりの配慮だったのかも……。
「うわっ!だから、君は反則だぞ!」
背中からマサパンのリベンジを受け、副団長はまた川に沈む。
……マサパンにだけは、本当に負けていたのかもしれない。




