ある陽気な一日 (1)
いつもはまとめている髪を下ろしたナタリアは、なんだか落ち着かない様子だった。
「ナタリア、すっごく可愛い!」
にこにこと笑いながら、オフェリアはナタリアを褒める。ナタリアは恥ずかしいのか、ありがとうございますと呟くばかりだった。
ベルダは窓から外を何度も眺め、うろうろしている。
「それにしても遅いですねぇ。もう日が沈み始めてますよ。遅くなると、お店も混んできちゃうから大変なのに」
「それは私も気にしているわ。約束の時間は過ぎてしまってるのよね」
リースが約束を破るとは思えない――が。
「仕事に熱中して、約束の時間を忘れている可能性はありそう」
まだ時間があるから仕事をなるべく片付けてしまおう、と考えたリースが、仕事に没頭するあまり時間を忘れて仕事を続けている……むしろ、その可能性しか考えられない。
マリアがこぼせば、ナタリアも苦笑した。
「少し厨房にいます。もしリース様がいらっしゃったら、声をかけてくださいね」
結局リースは迎えに来ず、ナタリアのほうが先に部屋に戻って来た。
バスケットを持ったナタリアは、リースが来ていないことを聞いても動じることもなく、でしょうね、と答えた。
「差し入れを作ったので、これを持って、私のほうからリース様のところへ行って参ります」
「私も一緒に行くわ。万一、仕事以外のことに夢中になってナタリアとの約束を忘れてたのなら、伯爵に言いつけてお仕置きしてもらわなくちゃ」
オフェリアとベルダに見送られ、マリアはナタリアと一緒にガーランド商会の事務所へ向かうことになった。
ガーランド商会の事務所は、オルディス公爵領でも人の多い町中にある。
十四年前の大火災の影響から町は少し盛り上がりに欠けてはいるが、用水路の修復が始まったことで領民たちの表情は明るい。町中から聞こえてくる話題のほとんどは、ガーランド商会と、未来への期待に満ちた話ばかりだった。
「ナタリア、ちょっと待って」
すれ違う人の隙間から見知った顔を見つけ、マリアは足を止める。建物の片隅にある花壇に腰掛け、メレディスが何やら熱心に書き物をしていた。
マリアはメレディスに近づき、彼に声をかける。
「こんばんは。もうお仕事は終わったの?」
「こんばんは、マリア様」
「敬語も敬称もいらないわ。私、お客様扱いしてもらえるような立場じゃないから。それより、あなたがここにいるということは、商会の仕事は終わっているのよね?リースさんも、もう事務所を出ているのかしら?」
「えっ。リースさんなら、僕が出る時に、まだ時間があるからもう少しだけ仕事をしていくって言って残って……」
メレディスは、ナタリアの姿を見て言葉を切った。
マリアの隣に立っている彼女が、リースが約束をしていた件の相手だと気付いたらしい。
「……もしかして、まだ仕事してたり?」
「それしかないって、私たちも考えていたところ」
大きく溜息をついたメレディスは、マリア、ナタリアと共に事務所へ引き返すことになった。約束を知っていてリースに注意を促さなかったことを、彼なりに気にしてくれたらしい。
マリアたちの予想と期待を裏切ることなく、リースは事務所にいた。メレディスの姿を見て、書類から顔を上げる。
「おや。どうしました、メレディス君。忘れ物ですか?」
「リースさん。いま何時か気付いてます?」
声をかけてようやく、マリアの存在に気付いたらしい。マリアの隣に立つ、普段とは違う可愛らしい姿をしたナタリアを見て、リースは驚愕に顔をひきつらせた。
「い、いま何時ですか!?」
「無理にでも約束に送り出さなかった、僕も悪かったです……」
メレディスがうなだれる。
「すみません、ナタリアさん!こっちから誘っておきながら……すぐ準備をしますから!」
「いえ。もう外食はなしにしましょう。私、食事を作って持ってきましたから。どうぞお仕事を続けてください」
屋敷から持ってきたバスケットを差し出し、ナタリアが言った。
「そんな、そういうわけにはいきません!」
「デイビッド様」
あたふたと準備をしようとするリースを、ナタリアが静かに諌める。
「デイビッド様が私のために時間を作ってくださるより、デイビッド様の時間を私もご一緒させてくださるほうが嬉しいです。だから、デイビッド様はいつもどおりに過ごしてください。私はそこに、一緒にいたいんです」
そう言って笑うナタリアは、マリアから見ても可愛らしくて。そんな顔をさせるリースに、ちょっと嫉妬してしまった。
……伯爵に言って、こっそりいじめてもらっておこう。
「ナタリアが可愛いからって、悪さしちゃだめですよ」
「しませんよ!私だって嫌われたくありません!」
必死で否定するリースに、マリアはふっと笑う。
「……メレディス。申し訳ないんだけど、私を屋敷へ送ってくれないかしら。一人で帰るって言ったら、ナタリアが気にするのよ」
「僕でよければ喜んで」
「そういうわけだから。ナタリア、私はメレディスに送ってもらって帰るわ。リースさん、ナタリアのこと、ちゃんと送ってくださいね」
マリアのことを気にかけながらも、ナタリアはリースのもとに残って見送る。その姿に、少しだけ胸が痛んだ。
キシリアから一緒にエンジェリクに来た彼女が、自分以外の人間を優先する。自分で望んだことのはずなのに、いざそれが現実になると寂しく感じるなんて……自分勝手だ。
「メレディスは、あそこで座り込んで何をしていたの?」
ちょうどメレディスと出会った場所を通り過ぎ、マリアはその時のことを思い出して尋ねた。
「絵を描いてたんだ。少し経済的には厳しいみたいだけど、町の雰囲気は良くて、みんな期待に胸をふくらませて未来に想いを馳せている。用水路の修復が始まることに、町の人たちは本当に喜んでいるよ。その姿を描きたくて」
片手に抱えていたスケッチを見せ、メレディスが答えた。
「町の人たちが喜んでいるのなら、私も嬉しいわ。先祖代々受け継いできた土地だから……新しい当主として、私も、領のために力を尽くしたいと思っているの」
「君のことも、みんな期待しているみたいだよ。厳しいことを言う人もいたけど、君なら何とかしてくれるんじゃないかって、心の底では期待しているんだよ。厳しい態度も、その裏返しさ、きっと」
メレディスの言葉は、マリアの心を温かくした。
忙しくて、どうしてもマリアには、領を見て回る余裕がない。だから領民たちが何を考え、どう感じているのか、それを教えてくれる言葉はとても有難かった。
「メレディスは、絵を描くのが好きなの?」
「小さい頃からね。暇があったら絵を描いてばっかりで。オルディスに来てからも、時間が空いたら町の絵を描いていたよ」
「今度見せてくれる?私以外の人の目から、オルディスがどう映ってるのか、参考にしたいの」
「もちろん、いいよ。僕の絵で役に立てるのなら」
そう言って、メレディスは嬉しそう笑う。
もともと愛想のよい青年ではあったが、その笑顔は輝いていて――本当に絵が好きなのだろう。彼の想いが伝わり、自然とマリアもつられて笑顔になった。
そんな二人のそばに、一台の馬車がゆっくりと近づく。
「あの御者席に座ってる男性って、たしか伯爵の従者の……?」
間違いなくノアだ。彼が御者をしているということは、この馬車は――。
「マリア、こんな時間からどこへ出かけるのかな?」
やはり伯爵だ。
馬車の窓から顔をのぞかせる伯爵に、帰るところですとマリアは答えた。
「リースさんがナタリアを迎えに来てくれないから、こっちから事務所を訪ねたんです」
「……頼む。デイビッドは不慮の事故で動けなくなり、仕方なく約束の時間に姿を現さなかったのだと言ってくれ」
「残念ながら。仕事をしていて忘れていたそうです」
無情な真実に、伯爵が珍しく頭を抱える。マリアもメレディスも苦笑し、ノアも溜息をついていた。
「悪い男ではないのだが……。少し私のほうからも説教をしておこう。乗りなさい。マリア、屋敷まで送ろう」
「はい。ここまで送ってくれてありがとう、メレディス」
「どういたしまして。おやすみ、マリア」
「おやすみなさい。約束、楽しみにしてるわね」
見送るメレディスに手を振り、馬車に乗ってからもマリアはしばらく彼を見ていた。
「彼のことが気になるのか?」
「ええ。感じが良くて、いかにも訳ありといった感じの青年ですから。伯爵は、彼の素性をご存知なのですか?」
「一応は。さすがに身辺調査もせず、オルディスへは連れてこれないからな」
「そうなのですね。気にはなりますが、伯爵から聞き出すのはやめておきます。伯爵が信頼なさっているのなら、それで十分です」
伯爵が黙り込み、マリアをじっと見つめる。
どうかしましたか、とマリアは小首を傾げた。
「いや……。そうだな。今夜はこのまま、君の屋敷へ泊めてもらえないかと考えていた」
「あら、嬉しいです。オルディスに戻ってから、ヴィクトール様は一度も私を訪ねてくださらなかったので、もう飽きられ始めているのかと寂しく思っていました」
マリアが笑顔でそう言えば、また伯爵が黙り込む。いつもの彼からは想像もつかない姿だ。
「私、何かおかしなことを言ってしまいましたか?」
「君が、そんな可愛いことを言ってくれるとは思わなかった」
伯爵がマリアを抱き寄せる。
怒っているわけではないようだ。伯爵の機嫌を損ねたわけではないのなら、気にすることもないだろうか。素直に甘え、マリアは伯爵にもたれかかる。
「私も、オルディスに来てからは新しい店を出す準備に追われ、時間に余裕がなかった。それ以上に君も忙しそうだったから、さすがに控えていたのだ。寂しい思いをさせて申し訳ない」
申し訳ないと言いながらも、伯爵の顔はちっとも申し訳なさそうではない。そう思いながらも、それは指摘しないほうがいいような気がして黙っていた。
その夜の伯爵は、非常に機嫌が良かった。
日が昇ってもマリアを手放そうとせず、マリアはベッドで仕事をする羽目になった。しかし伯爵に甘えさせてもらうのは嫌いではない。
伯爵に抱きすくめられたままなのを抵抗することもなく、彼の腕の中で書類を読んでいた。
「やはりあれは世辞か。君は男心を弄ぶのが上手過ぎる」
目を覚ますなりそんなことを言われ、マリアは、後ろから自分を抱きしめる伯爵に振り返る。
「仕事と私、どっちが大事なの」
「なんですかそれ」
およそ伯爵らしくない口調と台詞に、マリアは吹き出した。
「私が女性に別れを切り出された時、二番目によく言われた台詞だ」
「何て答えるのが正解なのですか?」
「さあな。それが分かっていたら、捨てられてはいないだろう。というよりも、その台詞が出た時点で、破局は避けられなかったのかもしれん」
「私も捨てられるんですか?」
マリアは持っていた書類をサイドテーブルに置き、伯爵に抱きつく。
「ヴィクトール様の寛大さに甘えておりました。仕事は好きですが、あなたとは比較にもなりません。もちろんヴィクトール様のほうが大切です」
「……君は、それで私があっさり機嫌を直す、単純な男だと侮っているな」
「直りません?」
「だめだ。その言葉が本心なのか、もう少し誠意を見せてもらわなければ」
そう言って覆いかぶさってくる伯爵の背に手を回しながら、マリアは何気なく浮かんだ疑問を口にした。
「ヴィクトール様が別れを切り出された時、一番よく言われた台詞とは何ですか?」
「――結婚が決まった」
短く告げる伯爵に、マリアは軽く目を見張った。
「だからあなたとはこれでお別れ――ここまでがセットだ。私は、将来の相手には選ばれない」
自嘲気味に話す伯爵に、マリアも返事ができなかった。
貴族の称号を持っていようと、平民出身の伯爵ではマリアとは結婚できない。それにマリア自身も、伯爵との結婚はあり得ないと思っている。
キシリア貴族の誇りを捨てられないマリアにとって、私的な感情で相手を決められるものではない。
だが――。
伯爵と結婚する未来も思い描けないが、だからと言って、他の男と結婚するイメージもわかない。
伯爵を捨ててまで結婚したい男を見つけた彼女たちを、羨ましいと思えばいいのか、愚かだと嗤えばいいのか。
いや、いっそ尊敬すべきかもしれない。
将来の約束ができないとわかっていながらそれでも彼を手放さない自分と、将来がないとはっきり別れを告げた彼女たち。
マリアは彼女たちよりも、不誠実なのだから。




