オルディスの春
女公爵となってオルディス領に戻って来たマリアは、領主として精力的に働いた。
領主になってマリアが強く感じたのは、運命は本当に自分の味方をしている、ということだった。
前のオルディス公爵領の領主であったおじが助かったこと――それは、新たに領主になったマリアを強力に助けた。
外国人で、若くて、しかも女。
本来なら、領民たちはマリアを領主になど認めなかったはずだ。
だが、民の声をよく聞き、民の心に添ってくれた優しい領主様。ついには悪妻に命を狙われてしまった気の毒な彼を助けた、その恩人――マリアはそのように認識され、領民から歓迎された。
もちろん否定的な人間もいたが、敬愛する領主様は思うように身体を動かすことができず、領のためにもマリアに協力してほしいと他ならぬおじ自身が説得すれば、否定的な思想は変わらずとも協力はしてくれた。
領民がすぐにマリアを受け入れてくれたことはありがたかった。おかげで、マリアは領の立て直しに集中できる。
おじやホールデン伯爵、ガーランド商会にいるその道のプロの助言を受けながら、マリアは領の改善に努めた。
真っ先に取り掛かったのは、十四年前の火災で使いものにならなくなってしまった、オルディス領全体に敷かれた用水路の修復だ。
マリアと共にオルディス領へ来たガーランド商会にて、マリアは、伯爵や職人に伝手のあるチェザーレと修復計画を相談し合う。
「工事のための人手は、領内で人を募ればいい。領民の生活はあまり芳しくない状況だ。働き口は歓迎されるはず。人件費は当分の間、商会が肩代わりをしよう。その代わりにオルディスの――このあたりの土地を担保にする」
地図と書類を広げ、伯爵が提案した。
「こちらに異存はありません。正式な契約はおじに確認してからになりますが、おそらくおじ様も了承することでしょう」
地図と睨み合いをしながら、チェーザレも口を挟む。
「現場監督については、俺のほうで伝手を頼んであるから安心してくれ。今日の夕方には到着して、明日には働き始めるはずだ。用水路の状況を確認するために、土地勘のある人間を数人、部下に欲しがってた。工事をする人間とは別に用意してほしい。あと、用水路を作った時の設計図とか、そういった書類もあるなら渡してほしいって言ってた」
「歴代の領主はこまめに資料をまとめ、整理なさっていたようなので、設計図も探せばあるはずです。すぐに調べてみます。土地勘のある人間の手配もすぐに」
商会での話し合いが終わると、マリアはおじが入院している病院へ向かう。
王都に比べれば小さな病院だが、ガーランド商会の仲介で医師やスタッフが新たに加わっており、王都の大病院にも劣らぬ手厚い看護をおじは受けていた。
「うん。私も、伯爵の提案は妥当だと思う。それで契約を交わしてもらって大丈夫だ。現場監督の部下を務められそうな人間には数人心当たりがあるから、彼らの名前と住所を……」
「口頭で教えて頂ければ十分です。口頭書記は得意ですから」
その他にも、いくつか必要な書類を読んだおじは口頭でマリアに指示を出す。それを聞き漏らすことなく書きまとめていたマリアは、喋り疲れたおじが溜め息をつくのを見て手を止めた。
「少し休憩しましょうか。頂いた果物でも剥きますね」
見舞いの果物をひとつ取り、果物ナイフで手際良く皮を剥いて皿に並べる。
おじは果物を取ろうと右手を動かしたが、思うように力が入らないのか、切り分けた林檎をつかみ損ねていた。
マリアがひとつ取って、おじの口もとへ持っていく。
「物をつかむのは、まだ難しいですか?」
「指は動くが、持つだけの力が入らない。これでも左手よりはいいんだよ。こっちは、指を動かすだけでも一苦労だ」
「リハビリは始まったばかりですものね。結果を求めるには早過ぎますよ」
おじの口もとを拭いながら、マリアが言った。
「マリア、本当に大丈夫なのかい。用水路の修繕もだが、僕のこの入院費用……。決して安くないだろう」
「大丈夫です。皆さま、おじさまにいたく同情なさって、多額のお見舞い金をくださいましたもの。とはいえ、工事の費用を全額一括でとはいかなかったので、多少ガーランド商会から貸していただくことにはなりましたが」
伯母が処刑された翌日、おじのもとには、気の毒な被害者のために高額の見舞金が複数の貴族から贈られてきた。
贈り主の名前を見たマリアは、思わず鼻で笑い飛ばしてしまった。十四年前の火災に関わっていた連中を身内に持つ者ばかり。
どうやら有能な警視総監殿が、しっかりと脅迫――もとい、ちくりと説教をしてくれたようだ。
少しぐらいは誠意を見せろ、さもないとどうなるか、わかってるだろうな、と。
おかげで、長年の問題であった用水路の修復にとりかかるだけの金ができた。
「ローズマリーがあの火災の原因を作った一人だなんて、まだ信じられないよ。夫人も、どうして僕に真実を教えてくれなかったんだろう」
おじには、伯母が大火災の原因を作ったことだけを教えていた。
伯母と一緒にいた人間の素性については、よくわからなかったと正体を曖昧にしている。自分に送られた見舞金が、実は口止めも含んだ賄賂だなんてことを、いまのおじは知らないほうがいいだろう。いずれ話す時が来るかもしれないが……いまは、受け止められるほどの余裕がないはず。
身体が不自由になったショックに加え、伯母の悪辣さを改めて思い知らされ、おじは精神的にかなり打ちのめされている。
「おばあ様のほうは、娘可愛さでしょう。おじい様が伯母様を勘当することを、最後まで反対していたそうですから。真実を知ったおじ様が、伯母様を追放してしまうことを恐れていたのでしょうね。伯母様がおじ様を酷く憎んでいたのも、追放されるだけの後ろめたさがあったからかもしれません」
そう考えれば、伯母が他の男とあえて子どもを作ったことにも納得がいく。
オルディス直系の血を引く子どもの母親なら、婿養子のおじはそう簡単には追放できなくなる。しかも自分と血の繋がりがないとくれば、母親から取り上げるのも難しい。
どこまでも身勝手で、自分のことしか考えない伯母らしい行動だ。
「家財道具を売り飛ばすことに怒ったのも、おじ様が公爵家当主として振る舞うのが恐ろしかったからでしょう。真実を知っていて、自分に揺さぶりをかけていると感じたのかも」
「……道理で。僕がやれば怒り狂うくせに、自分は平然と、先祖代々の品まで手をつけるはずだ」
妻に、義母に。おじは十四年もの間、オルディス家の女に振り回され続けた。
だが本当に気の毒なのは、彼の運命は次の女に振り回されていることかもしれない。
昼間はガーランド商会で、それが終わればおじを見舞いがてら病院へ。夜、屋敷に帰って来てからは書斎にこもって書類整理。
オルディス領に戻ってきてから、それがマリアの毎日だった。
その夜も、机に山積みにされた書類と向き合っていたマリアは、控え目なノックの後、ちらりと顔を出すオフェリアを見つけて顔を上げた。
「今日はどの本を読むか、もう決めた?」
「……今夜はちゃんと一人で寝るわ」
もじもじとしながら、オフェリアが言った。顔には、姉と一緒がいいと、ありありと描かれている。マリアは苦笑した。
「そんな寂しいこと言わないで。私にとっても、息抜きできる大事な時間なんだから」
「本当?」
マリアの言葉を聞いて、ホッとしたようにオフェリアが笑う。
手を繋いでオフェリアの寝室へ行き、いつものように本を読んで妹を寝かしつける。うとうととしながら、オフェリアはマリアを見上げた。
「お姉様、忙しい?」
「そうね。色んな仕事があって忙しいわ。でも私、忙しくしているのが好きみたい。辛くはないから心配しないで」
これは方便ではない。
時間を持て余すより、常に忙しなく何かに取りかかっているほうが、マリアにとっては楽だった。
額にかかる前髪を払い、優しくオフェリアの頭を撫でる。オフェリアの瞼が、さらに重たくなった。
「お姉様は毎日大変なのに、私は遊んでばっかり……」
「そんなこと気にしないの。それに、オフェリアが領のことを見回って私に教えてくれるから、とても助かってるわよ」
「私も、もっとお姉様の役に立ちたいの……」
「十分役に立ってるわ。屋敷のことは、オフェリアに任せっきりだもの」
領に戻ってマリアが一番最初に行ったことは、オルディスの屋敷の召使いたちの解雇だった。雇っている余裕もないし、必要もない。
それなりに真面目に働いていた者たちには多めの退職金と次の職場への推薦状を渡し、いとこの腰巾着共は横領で訴えておいた。
着服された金は戻って来ないだろうが、それについては最初から期待していない。前の雇用主から訴えられているとなれば、彼女たちはもう、まともな職には就けないだろう。それで溜飲を下げておくことにした。
そういった経緯から、屋敷の管理維持は再び自分たちで行うことになっている。オフェリアは、ナタリアやベルダと一緒に家事に勤しんでくれていた。
「もっとお姉様を喜ばせたいの。お姉様、大好き……」
「私も大好きよ。お休みなさい」
母の形見のぬいぐるみを抱きしめ、姉に寝かしつけてもらって眠るオフェリア。
年齢を考えれば、幼すぎる習慣だ。生まれ持った幼さもあるだろうが、姉のマリアが、それを増長させているのだから仕方がない。
姉の矜持に振り回され、エンジェリクでは無用の苦労をかけてしまった。だからいまは、思う存分楽しんでいればいい。
けれど、オフェリアなりに思うところはあったらしい。
翌日から、オフェリアはマリアに隠れて何やらコソコソとやっていた。どうやら本人は何も気付かれていないつもりらしいので、詮索することなくマリアは見過ごすことにした。
土地を担保にした借財の契約に関して、リースがマリアの交渉人を務めてくれることになっていた。
伯爵が不正な真似を行うとは思っていなかったが、公正と対等を求める伯爵からの強いすすめで、マリアはリースを頼ることにした。
まだまだ、こういった場ではマリアは未熟だ。
そんな契約の場に、伯爵は書記役として見覚えのない青年を連れてきた。マリアの視線を察し、伯爵が紹介する。
「今回書記を務めてもらうメレディスだ」
「初めてお会いする方ですね」
「こちらへ来る前に、ウィンダムで新しく雇った人なんですよ。オルディスに支店を作る予定だと聞かされたので、支店を任せられる人材も必要になりまして」
リースが新人の説明をした。
「とっても優秀なんですよ。こんなに優秀な子はクリス君以来です。とはいえ、人手はまだまだ不足している状態ですから、クリス君もいつでも働きに来ていいんですよ」
満面の笑顔でそう言い切られてしまい、マリアは苦笑してしまった。
青年は、愛想よくマリアに会釈する。整った容姿に、所作の一つひとつに育ちの良さがうかがい知れる青年だ。明らかに良家のおぼっちゃまといった感じだが、詮索無用が商会での暗黙のルール。
それに庇われた経験もあるマリアは、好奇心は捨て伯爵との契約に意識を集中した。
「これで、だいたい必要な確認は終わったか。あとはマルコたちからの報告待ちだな。用水路の状態次第では、金額に変動があるかもしれん」
「そうですね。あまりひどい状態でなければいいのですが」
チェザーレが呼んだ職人は数日かけて用水路を見て回り、改めて工事の計画を立てているようだ。なるべく当初の計画に変更が出ないことをマリアは祈っていた。工事が長引けば予算も増えるし、財政の立て直しにも大きな遅れが出る。
「思ったより話し合いが長くなったな。少し休憩することにしよう。そうだ、マリア。あとで君の身体のサイズを測らせてくれ」
「はい?」
伯爵の突然の頼みに、マリアは間の抜けた声で答えてしまった。
リースもメレディスもぽかんとしているし、ポーカーフェイスを崩さず伯爵を見つめるノアの目は冷たい――従者のノアはいつものポーカーフェイスで沈黙を守り、伯爵のうしろにずっと控えていたのだ。
「メレディス、いまのは書きとめなくていい。女性客に性的な頼みをした記録など、残されては困る」
はあ、と答えるメレディスも困惑しているようだ。
「君たちも、この話は聞かなかったことにしてくれ。マリア、実はだな、オフェリアが日頃の感謝の気持ちも込めて、君に服を作ろうとしているそうだ。しかしそこで、問題がひとつ。君に気づかれないように、君のサイズを知る方法が思いつかない。それでベルダが、私なら君を上手く言いくるめて調べてくれるのではないか、と相談を持ちかけてきたわけだ」
「まったく言いくるめられていませんが」
リースが言ったが、伯爵はそんなことはないと否定する。
「妹想いのマリアなら、私の話は聞かなかったことにして、オフェリアからのプレゼントにもまるで何も知らなかったように振る舞えるはずだ。だから正直に打ち明けただけだ」
「やはり口では伯爵に勝てません。本当に言いくるめられてしまいました」
マリアがそう言えば、リースたちも苦笑した。
「まったく。みんなしてオフェリアを甘やかすので困ります」
「その最筆頭は君だろう」
「私はあの子の姉だからいいんです。甘やかすのが私の仕事です」
それまで呆気に取られていたメレディスが、クスクスと笑い出した。
「すみません。僕にも兄がいるので、小さい頃を思い出してつい」
注目が集まっていることに気づき、メレディスが弁解する。
「僕も小さい頃に、兄に気付かれないようプレゼントを用意していました。でもいまから思えば、兄にはとっくに気付かれていたんでしょうね。それでも気付いていないようなふりをしてくれたんだろうなって」
「下の兄弟のために振る舞うのは、長子の義務でもあり特権でもありますから」
「兄にも似たようなこと言われました」
メレディスが、ますます笑いを深めた。
「いいですね。私も姉が三人いるんですが、弟は姉に仕える奴隷という扱いを受けて育ちました。マリアさんやメレディス君のお兄さんみたいな、優しくて下の子想いな兄弟が欲しかったです」
リースが溜息をつき、マリアも笑った。
「優秀なのにどこか頼りない雰囲気があるのは、そういうのが原因かもしれませんね。でもリースさん、仕事以外の場面は、ちょっと本当に心配だから」
マリアにじっと見つめられ、リースがたじろぐ。
「この間、ナタリアをデートに誘って、あの子をすごく落ち込ませたでしょう」
「えっ、なんですかそれ。そんなに私に誘われたのが嫌だったんですか」
プライベートを暴露されたことを気にする余裕もなく、リースがマリアに詰め寄る。伯爵が眉をひそめた。
「デイビッド。ナタリアを誘ったのか。それは断られるに決まっている」
「伯爵まで。身の程知らずだと言いたいんですか?そりゃ、綺麗で若いお嬢さんに、私みたいな冴えないおじさんが声をかけるなんて、笑い話かもしれませんけど」
「そうではなくて。彼女と出かけたいのなら、頼む相手が違うだろう」
訳が分からないと言った表情で、リースは首をかしげる。
「ナタリアさんをデートに誘いたいのに、どうして他の人間に声をかける必要があるんです?」
「例えばだな。ノアを外出に誘うとして、遊びに出かけるためにノアが私に休みを頼みに来ると思うか?」
引き合いに出されてもポーカーフェイスを貫くノアを見つめ、それからマリアに視線を移したリースは、やおらマリアの前にひれ伏す。
「お願いします。どうかナタリアさんとデートさせてください!」
「もう。ようやく気付いてくれたんですか」
リースにデートに誘われたことが嬉しくても、ナタリアが受けるはずがない。デートのためにマリアのそばを離れるなど、生真面目なナタリアに、そんなことができるわけがないからだ。
だからデートに行きたいのなら、マリアに頼んで、主人からナタリアに言いつけるしかないのだ。
それを理解せずリースが誘ってきたものだから、せっかくの好意を断るしかなかったナタリアは落ち込んでしまった。落ち込んでいる理由を話さないので、マリアも周りからあれこれ聞き出す羽目になってしまった。リースが自分に言ってくれればすぐ解決したことなのに。
「ナタリアには、私からリースさんの誘いを受けるように言っておきます。いつがいいですか?」
「それはもう、いまからでも!あ、いえ。いまは仕事中なので、今日の仕事が終わってからで!一緒に食事でもどうですか、と伝えてください」




