-番外編- ナタリア
公爵家当主となったマリアから公爵領へ戻ると言われ、ナタリアは旅の支度に追われていた。
ガーランド商会もマリアと共にオルディスへ行くことになったので、旅の主導は商会となっている。だからナタリアが動く必要はほとんどないのだが、商会に任せきりというのも申し訳なくて、ナタリアはすすんで手伝いに行っていた。
主人のマリアは本当に忙しい。
公爵家の当主となり、領の立て直しについて具体的な計画を立てるため、彼のリハビリを手伝うため、おじが入院している病院に毎日通っている。
そして計画を実行するために、商会へも通って伯爵と相談を繰り返していた。
ナタリアにはよくわからないが、領にある壊れた用水路の修理について、人手を含め商会に協力してもらうよう依頼しているらしい。私的な面ではマリアに激甘な伯爵も、今回は商人として対等に取引や契約を行うようだ。
……とは言え、マリアが戻るからという理由で商会の拠点をオルディスに移す時点でやはり激甘なことには変わらないが。
「じゃあそのメモ、デイビッドに渡しといてくれるかい。それと、この差し入れも持って行ってやってくれ。あいつ、また食事を忘れてるみたいだからさ。あんたから言われれば、少しは改めるだろ」
「わかりました。荷物に関する書類と、リース様にお渡しする食事。たしかにお預かりします」
商会の人間が移動する間、食事を始め雑事はハンナが取り仕切ることになっている。ナタリアは彼女を手伝っていた。
ハンナに頼まれた物を持ってリースのいる店に急いでいると、商会の人間らしい男に絡まれた。
「おまえ、あの女のとこの召使いだな」
ナタリアを見る目つきは明らかに卑しく、嫌な予感しかしない。ナタリアは視界に入らなかったふりをして、やり過ごそうとした。
「おい、待てよ。主人が偉いからって、自分も偉くなったつもりか?俺みたいな平民には、興味がないってか?へっ。所詮、娼婦とやってることは変わらねえくせに。伯爵の情人の分際で、お高くとまりやがって」
思わず足を止めそうになったが、それでも無視を決め込む。男は構わずナタリアをつけ回し、侮蔑した態度を隠そうともしなかった。
「言っておくが、俺のことをバカにするのはやめおいたほうがいいぜ。あんたの主人がどんな女か、町中に言いふらしてやろうか。結婚もしてねえ若い女のもとに、すでに男が通ってるなんてことが知られたら、あんたの主人も破滅だな」
ナタリアが立ち止まる。
その様子に、男が下卑た笑い声をあげて近づいてきた。馴れ馴れしくナタリアの肩を抱き、ぶしつけに彼女の身体を見つめる。
「なにも対立しようってわけじゃない。俺にもさ、ちょいとおいしい思いをさせてくれればいいんだよ。主人があれなら、どうせおまえも男には慣れてるんだろ」
ぐいと自分のほうに抱き寄せる男を、ナタリアは反射的に突き飛ばした。建物の壁に突き飛ばされ頭をぶつけた男は怒り、ナタリアにつかみかかろうとする。
その二人の間に、リースが割って入った。
「恥を晒すのはいい加減にしなさい。喋りたければどうぞ。伯爵も、最近は自分に挑んでくる人間がいなくなって退屈だと言っていましたから、いい暇つぶしになりますよ」
男はリースに食ってかかるかどうか一瞬悩む様子を見せたが、チッと舌打ちをして立ち去っていく。
リースが、やれやれと呟いた。
「申し訳ありませんでした。あんな人間を雇っていただなんて、こちらの落ち度です。あの男の処遇は任せてください。マリアさんに不利益なことは起こしません」
「いえ、リース様が謝罪されるようなことでは。私がもっとうまく、あの男をかわしていればよかったんです」
ナタリアは悔しさに唇をかんだ。
自分は、肝心なところでいつも役に立たない。前に男に絡まれた時など、事もあろうに主人であるマリアに傷を負わせてしまった。
マリアを守り抜くと母に誓ったのに、他ならぬ自分が、マリアの敵になってしまった……。
「しっかりしているようで、意外と不器用ですよね、ナタリアさんは」
「……返す言葉もありません」
「すみません、バカにしているわけじゃないんです。そんな完璧じゃないところが、マリアさんは好ましく感じているんだろうなあと思っただけで」
落ち込むナタリアに、リースが慌ててフォローする。だがナタリアは余計に落ち込んでしまった。
やはり、マリアからも頼りないと思われているのだろうか……。
「ナタリアさん。マリアさんは伯爵と似ています。エンジェリクでも有数の商会にのし上がるため、伯爵も色んな手を使って来ました。平民からの成り上がりですから、綺麗事だけでは乗り切れないこともあったはず。でもそれに、商会の人間を巻き込むことはありませんでした。商会の人間の手を汚させないこと。それを守り続けることが、伯爵の矜持でもあるんですよ」
諭すように、リースは話す。
「きっとマリアさんも、あなたを巻き込むことを嫌がります。自分が傷つくことには耐えられても、あなたの手を汚すことには耐えられないと思いますよ。だから、あなたは自分を大切にすることを優先すればいいんです」
まだ浮かない表情をしているナタリアに、リースも笑顔を浮かべつつ困っているようだった。彼を困らせてしまう自分の幼稚さも、つくづく嫌になる。
「一緒に戻りましょう。それ、もしかして私宛の書類ですか?」
「あ、はい。ハンナさんからお渡しするように言われていて……。それと、こっちは差し入れです。ちゃんと食事をしてくださいって」
あはは、と笑ってごまかすリースに、ナタリアも思わず苦笑してしまう。自分を気遣ってくれるリースに、ナタリアも話題を変えることにした。
「伯爵は平民出身なんですか?」
「知りませんでしたか?ホールデン伯爵家に養子になって爵位を得たんですよ。そういう事情なので領地などはありませんし、伯爵というのも名ばかりの称号です。それも一代限りの。例え伯爵に子ができたとしても、伯爵位を継がせることはできません。その子どもの母親が、マリアさんぐらい高貴な女性ならば話は別ですが」
ギョッとするナタリアに、例え話ですよ、とリースは慌てた。
「いくら伯爵でも、そんなことのために女性に近づいたりしません。あくまで商会の格を上げるために伯爵家の養子になっただけで、爵位を継がせることにこだわりはないようですし」
それは嘘ではないと思う。
ナタリアにとっても恩のある人だから、そう思いたいという願望かもしれないが――伯爵が、そんなものにこだわる人間には見えなかった。
「でも伯爵も、やっぱり人の子ですね。マリアさんに、あんなに夢中になるだなんて」
「どういう意味でしょうか」
「若くて美しい高貴な女性に、絶対の信頼を寄せられ、憧れの眼差しを向けられれば、たいていの男はコロッと落ちます。真逆なようで、妹さんと同じ部分が多いですよね、マリアさん。好きな相手には、愛情表現が素直でストレートなところとか」
ナタリアは心の中でこっそり頷いた。
好き嫌いの振り幅が極端なだけで、マリアも実は好きな相手には無防備でダイレクトに愛情表現をする傾向がある。
……というより、本来ならそれが普通なのかもしれない。
父親を亡くしてから涙ひとつ見せることなく気丈で凛と振舞っているが、彼女だってまだ親に甘えていたかった年頃だ。自分を守ってくれる存在に、強い愛情を寄せるのもごく自然な流れなわけで……。
「マリアさんって、本来なら私たちが気軽に声をかけられるような身分ではないでしょう?あれだけの美しさと聡明さがあれば、王妃にもなれる立場の女性ですし。そんな女性から包み隠すことのない好意を向けられて、伯爵もすっかり彼女の虜ですよ」
「そう……なのでしょうか。マリア様のことを、とても大切にしてくださっているとは感じますが」
「気に入った相手には、たいがい気前がいい方ですけどね。あの入れ込みようは、気前がいいなんて台詞じゃ片付きません。ノア君も、あそこまで惚れ込んでいる姿は初めて見たとこぼしていました」
意外さを感じつつも、一方で納得している自分もいた。
――ナタリアにも、心当たりのある感情だ。
本来なら天と地ほどに身分差のあるマリアから友人や家族のように親しくされた。そんな立場にいられる自分が嬉しくて、誇らしくて。ずっと彼女の侍女でいたい、彼女に一番信頼される人間でいたいと思った。
それが、マリアに仕える最初のきっかけだった。
「ねえ、ベルダ。あなたはどうして、マリア様たちにつこうと思ったの?」
夕食の準備をしながら、ナタリアはベルダに尋ねた。これはずっと疑問に思っていた。
なぜ自分たちの味方をするのか。
裏があるのでは、と怪しんだこともあった。結局、それは自分の思い過ごしだったけれど。
「マリア様がきれいだったからです」
芋の皮をむきながら、ベルダがなんでもないことのように答える。
持っていた卵を落としそうになって、ナタリアは焦った。改めて卵を手につかみ直し、もう一度ベルダを見る。
「言っておきますけど、マリア様が美人だからって意味じゃないですよ。オフェリア様を守るマリア様のその姿がきれいだったから、ってことです」
「……よくわからないわ」
「うーん、と。私、それまで、マリア様みたいな人に会ったことなかったんです。弱くて足手まといな人っていうのは、切り捨てられたり、利用されたりするのが普通って世界で暮らしてたんです。でもマリア様は違ってた。オフェリア様たちは明らかに足手まといで、見捨てたほうが自分も楽なのに、そうしなかった」
遠回しにオフェリアも自分も役立たずと指摘され、ナタリアは黙り込むしかなかった。実際、マリアの足を引っ張っていた自覚はある。
「私、そんな人を見るのは初めてで。そんな姿のマリア様は本当に美しくて。私も同じことしたら、あんなふうにきれいに見えるかなって、憧れたんです」
それで、試しにオフェリアを助けてみたということだろうか。
ナタリアは胸が痛んだ。
弱い人間が切り捨てられるのが当然の中で、ベルダは生きてきた。普段の明るい姿からは想像もできないような暗く、辛い世界だったに違いない。
ナタリアは幼少から働いてはいたが、優しい母がいて、すぐに助けてくれる仲間もいて、主人も、召使いであっても家族の一員として扱ってくれる心優しい人たちだった。
……自分は恵まれていた。
マリアは時々、ナタリアよりもベルダを頼りにすることがある――それに対し、ナタリアも嫉妬することがある。自分でも埋められない差を感じていた。でもそれ以上に、ナタリアはベルダを尊敬していた。
「助けてみて思ったことは――誰かを助けるって、結局、自分を助けることなんだなって。マリア様がオフェリア様たちを絶対に見捨てない理由が、よくわかりました。オフェリア様たちを守ることで、マリア様はきっと、自分の心も守ってるんですね」
そう言った時のベルダの笑顔は、いつもの明るく元気な笑い顔とは違っていた。
ナタリアにはうまい表現方法が思い浮かばなかったが、幸せそうな、それでいてどこか寂しそうな笑顔だった。
「だからナタリア様。マリア様のためにとかって思って、早まった真似しちゃだめですよ。オフェリア様やナタリア様に万一のことがあったら、マリア様は生きていけなくなっちゃいます。マリア様の心を守るためにも、自分のことは大事にしてください」
自分よりずっと年下な少女に説教され、ナタリアはまた苦笑した。
今日はやたらと説教される日だ。それも内容は同じ。自分を大事にしろ、と。
――そうね。せめて私のことで、マリア様が傷つくことにはならないようにしなくちゃ。
「ナタリア。あなた、商会で変な男に絡まれたんですって?」
マリアの髪を洗うのを手伝っていたナタリアは、突然振られた話題に動揺してしまった。
マリアには話さないようにしていたのに。まさか、リースが話した……?
「ノア様が、あなたが絡まれている姿を目撃したそうよ。リースさんが助けに入ってくれたのよね。伯爵に謝罪されたわ。自分の管理が甘かったせいで、不愉快な思いをさせたって。男のことは伯爵がきっちり片をつけておくから、心配しないよう伝えてくれとも言ってた」
バスタブに浸かったマリアが湯を指ではじく。水しぶきを受け、ナタリアは小さく悲鳴を上げた。
「私にちゃんと言わなくちゃだめじゃない。私のせいで、変な男を引き寄せる羽目になったんだから。私のために、我慢なんかしないの」
「我慢だなんて」
ナタリアは反論しようとしたが、マリアにまた湯をかけられてしまう。
けれどナタリアを見つめる顔は優しくて、ナタリアは怒る気にはなれなかった。
「あなたには、幸せになってほしいのよ。そうでなくちゃ、カタリナに顔向けできないわ」
母の名前に、ナタリアはグッと押し黙る。マリアの瞳も、一瞬だけ悲しみに揺れたような気がした。
すぐ悪戯っぽい表情になって、マリアが言った。
「好きな人ができたら、私に遠慮して身を引こうとか考えないこと。いい?そんなことしたら、絶対許さないわ」
「そんな人……」
いません、と言いかけたナタリアの脳裏にリースの顔がよぎり、思わず言葉に詰まってしまう。その様子にマリアはますます悪戯っぽい笑顔を向けて来る。
「誰が思い浮かんだかは聞かないであげるわね」
ナタリアはじとっとマリアを睨み、控えめにマリアに湯をかけた。マリアは無邪気に笑うばかりだ。
どこか頼りなくて心配になる人なのに、ナタリアが困っているところを助けて優しく諭してくれるものだから、かっこよく見えたような気がしただけ。そうに違いないと必死に自分に言い訳をする。
他人のことは言えない。自分も結構単純な人間だ。ナタリアは溜息をついた。




