-番外編- レミントン・後編(3)
「まさか今頃になってこんな手紙が届くだなんて……まったく、間の悪い。もっと早く届いてくれていたら、エヴェリー家を敵に回さずに済んだのに」
手紙を読み終えたリチャードは、苦々しい思いで笑い、ひとり呟いた。
手紙の差出人はセイラン――華煉から。
リチャードの献身を認め、朱の商人の始末をリチャードに一任するという内容。リチャードがずっと待っていたもの。
これがあれば、わざわざコンラッド・エヴェリーを始末せずとも、口先三寸で誤魔化すことができた。朱の商人は、最初から始末してしまうつもりだったし。
華煉の協力をこぎつけるため――これでリチャードが手を煩わせている間に、チャールズが色々とやらかしてしまって、あの子は危うい立場に……。
まさかここまでの事態に発展しているとは思わなかった。
リチャードの予見が甘かったのは事実だが、風向きの変化があまりにも急すぎる。何もかもが、チャールズにとって悪い方向に進んでいるようで。
自分もついに、ツキに見放されたかな。
――いや、少し違うか。
いままでが、怖いほどに運が良かったのだ。
貴族と名乗るのもおこがましい、社交界に出入りすることもできないようなレミントン家が、いまや王妃の外戚、王子を擁立する一族にまで。
先代当主の強欲と執念が成しえたことでもあるが、やはり運に恵まれた部分は大きい。
そのツキも、いよいよ陰り始めただけ……もっと強い運命を持った人間が現れたから。
「王子になってしまうっていうのは、やっぱり幸せなことじゃないよねえ」
リチャードの言葉に、マリアは少し目を丸くして、困ったように笑う。
今日はリチャードのすすめで、マリアはチャールズの狩りに参加しに来ていた。
狩りはチャールズの純粋な趣味。馬に乗ることも、弓を扱うことも得意だから、狩りは楽しくてたまらないらしい。
マリアは乗馬が得意なので、チャールズの趣味にも付き合ってくれている。一緒に参加してくれる相手がいるのは、チャールズも嬉しいようだ。
「ヒューバート王子もたいがいだけど、チャールズだって王子としての地位が安泰かって言われるとそうでもない。レミントン家は成り上がりで横のつながりが弱いし、パトリシアはもともと愛妾だったから、まともなご婦人方にとって敬意を払いたくないタイプだし」
先代の当主がその強欲さでのし上がっていったのはいいが、権力というのは手に入れることより、維持することのほうが大変だ。
特にあの男は、その後のこと、ということにはまったく無頓着だったから、尻拭いに奔走させられたリチャードは、なかなか気の毒な二代目だろう。
「リチャード様の心中はお察しいたします。所詮成り上がり貴族ですから、保守的な貴族たちの間で大変苦労なさっていらっしゃることでしょう。けれど……生意気な口を聞くようですが、貴族同士のつながりが希薄なのは、チャールズ様にも原因があるかと。殿下はリチャード王の悪い真似をし過ぎですわ。軽んじられて、それでも誠実な関係を築こうとする人間などいるはずがありません。数少ない大切な支持者を失ったのは、やはりチャールズ様のせいです」
「実に耳が痛いね。まったくその通り……チャールズのせいでもあり、あの子をしっかり指導してやれなかった私のせいでもある」
リチャードなりに、チャールズの教育には気を遣ったつもりだった。けれど、自分は失敗したのかな、と感じることも増えてきた。やっぱり自分には、人を育てるなんてことはできないのか……。
「……リチャード様が先ほどおっしゃった通り、王子に生まれたのが不幸だったのかもしれません。チャールズ様の未熟さも、危うさも、どこにでもいる男の子ならささいな問題だったのに……王子だったばかりに、大きなトラブルへと発展していって……」
マリアの言葉に、リチャードは目を瞬かせて彼女を見つめた。
その理由ははっきりしないが、マリアはチャールズに対立する腹積もりだ。それはリチャードも薄々勘付いていた。
なのにこうして、チャールズをフォローするようなことを口にするなんて……。
「おい、そろそろ休憩は終わりだ。狩りを再開するぞ!」
チャールズが声をかけ、マリアは自身の愛馬を連れて行ってしまった。
馬に乗れないリチャードは従者を伴って行ってしまった二人を見送り――静かに近づく影に、何もしなくていい、と言った。
「本当にいいのか。いまならば、事故で誤魔化せるだろう」
どこにでもいる、ありふれた顔をしたエンジェリク人の男。その正体は、華煉から送り込まれた使者……彼の本当の顔は、リチャードも見たことがない。最初に会った時も、フェイスベールで顔を覆っていた。
いまはエンジェリク紳士らしい容貌でレミントン家の召使いを装って働いているが、これも変装のはず。
「いや、彼女の理由がはっきりするまで、しばらくはこのまま静観でいいかな。下手に刺激すると、かえって厄介なことになりそうだ」
マリアは、リチャードと同類だ。
極端なまでの感情――彼女の世界はきっと、好き、敵、どうでもいい、のどれかしか存在しない。
好きなものにはどこまでも献身的で、どうでもいいものにはどこまでも無関心。そして一度敵とみなしたものには、揺らぐことのない冷徹さを発揮する。
リチャードには好きの部分があるのかどうかは微妙だが、敵と無関心の判断基準はきっと同じ……。
敵とみなすきっかけは、自分への攻撃ではなく、何か……自分にとって譲れない何かを害そうとした時……。
「まだオルディス公爵から、チャールズは完全に敵認定されていない。敵とみなされていないのなら、もしかしたら」
マリアが敵に回らないのなら……。
リチャードは言葉を切り、それきり黙った。華煉からの使者は、ぴくりとも動かない完璧な笑顔のまま話す。
「いまはあんたが雇い主だ。金をもらっている以上、あんたの命令には忠実に従うさ。私情が許されるなら、俺としては攻撃せずに済むならそっちのほうが楽でいい――あの馬は優秀そうだ。穏便に片付けるのは難しい。あんたの甥に気付かれることなく、というのは無理だろうな。万一仕留め損ねてこちらに気付かれでもしたら……あの馬に乗って逃げられたら、容易には追い付けんだろう。マオの報告によると、ガーランド商会が近くまで来ているそうだ……あの女とは懇意の仲。あそこに逃げ込まれると面倒なことになる」
使者の報告に、そう言えば、とリチャードは思い出した。
「マオくん……ええっと、六代目だったかな?そのマオくんは殺しちゃったけど、本当によかったのかい?君の仲間なんだろう?」
「華煉も大きくなり過ぎた。同じ組織の人間でも、それぞれ思惑が違うこともある」
「はあ……要するに、華煉内でも派閥があって、あのマオくんは君たちとは別の派閥だったってことかな」
「そんなものだ。組織の者同士で各々の任務のために殺し合いをすることもある――雇い主次第、金次第。さほど珍しいことでもない」
マリアがチャールズと対立したい理由――それが、彼女の妹のためだったことが分かった時には、残念ながら二人の仲は決裂していた。
妹のささやかな夢を叶えるために、どんなことをしてでも……。
誰が予想できただろう。たった一人の少女のために、自分の身がどれほど穢れようとも怯むことなく……。
ああ、でも……彼女だったら。
チャールズの身代わりになって愚かな真似をした自分を、理解してくれるだろうか。
近付く気配に、リチャードは目を開けた。
見慣れた顔……待っていた相手を確認し、口を開きかけて、全身を襲う激痛にうめき声を漏らした。あまりの痛みに、冷や汗が吹き出してくる。
「飲むか」
華煉の使者が、薬をひとつリチャードに差し出す。冷や汗を浮かべたまま、それでもリチャードは笑った。
「エンジェリク王をボロボロにした、例のあの薬か?」
「似たようなものだな。あれは快楽に重きをおいていたが、こっちは鎮痛のほうだ。いまのあんたの身体じゃ、副作用が出て廃人になるよりも先に体力が尽きて死ぬだろう」
リチャードは手を伸ばし、薬を受け取った。
どうせ飲まなくても、自分は近い内に死ぬ。だったらせめて、残された短い時間を存分に使いたい。ほんの一時の、まやかしの回復で十分だ。
片目を潰されたせいで、遠近感があいまいだった。伸ばした手も震えていて。
「馬鹿な真似をしたな。甥を助けたかったのなら、自分は脱出しておくべきだった。あんたがやられたら、どうにもならんだろう」
使者は呆れたように言い、リチャードも笑って同意する。
……本当に、馬鹿な真似をした。
チャールズの身代わりとなって拷問を受け……いま息を吹き返したことすら、奇跡のようなもの。チャールズを助けたかったのなら、自分はあの場を離れるべきだった。
けれど、それはできなかった。
恐怖におびえ、すがるように自分を見つめるチャールズに背を向けることなどできなかった。あの子が泣き叫び、苦しむ姿を想像するだけでも気が狂いそうで……。
「君たちも酷いじゃないか。僕が意識を失ってる間、さっさと屋敷を離れて」
「悪く思うな。あんたがあのまま死ぬ可能性もあった。そうなると、こっちは報酬を受け取れず、いままでの労働もすべて水の泡。ただ働きしてやるほど、お人好しじゃないんでね」
悪びれることのない使者に、リチャードは苦笑するしかなかった。
自分が意識を取り戻したのを知るとすぐに戻ってきてくれたのだから、恨み言はこれぐらいにしておこう。
マリアが用意した召使いたちの目をかいくぐり、どうやって呼び戻すか悩んだが……リチャードが知らせる必要もなく、彼らのほうで気付いて戻ってきた。リチャードのそばを離れていた間も、城の様子には目を光らせていたようで。
「華煉に、正式に依頼を……。今度は前払いで、全額支払っておこう。まずは城へ行き、ポーラと接触してくれ。彼女を説得するのは簡単だ……」
死の影は、もう自分の足元に迫っている。
それに対する恐れも嘆きもないが、心残りはある。
いつか別れが来ることは分かっていた。でも、もうちょっとだけ、一緒にいてあげたかった。
「リチャード様が私を手にかけることができなかったのは、チャールズ様のことだけではなく……私が初恋の女性に似ているからでしょう?」
久しぶりに対面した彼女は、にっこりと笑ってそう言い切った。
さすがのリチャードも、この指摘にはバツが悪くて、おかしな呻き声を漏らしてしまった。
「気付いていたのか……やっぱり。そりゃそうだよね……完全に一方通行の片想いさ平民の中でも最底辺で生まれ育った僕には、国の頂点に立つ女性が眩しくて堪らなくて。いつか、あんな女性から親しげに名前を呼ばれたいと思っていた」
「だと思いましたわ。だから私に、ご自分の名前を呼ばせたかったのですね。初恋の女性と、同じ声を持つ私に」
リチャードは苦笑する。
初恋の女性と同じ瞳、同じ声を持つ女性。
最初のきっかけはそれだった。
そうして彼女を知る内に、マリア自身の魅力にどんどん惹かれていって。
マリアは、リチャードが憧れた女性にも劣らぬ強い輝きを持っていた。
そんな彼女からまるで対等以上の扱いを受けて……彼女は自ら敗北を認めた。リチャードに負けたと。
自分は、国の頂点に立つ男にしか許されないはずの女性を、その足元に跪かせることに成功したのだと……。
「ではどうぞ、本懐をお遂げくださいませ。私に勝利したご褒美です」
可愛らしい笑顔で、とんでもないことを言い出すのだから。どっちが勝ったのか、これじゃあ分かったもんじゃない。
「……マリア、名前を呼んでくれないか」
「はい……愛しておりますわ、リチャード様……」




