-番外編- レミントン・後編(2)
娼婦の母親から生れ落ち、そのまま放ったらかしにされる子どもというのは少なくない。リチャードもその一人で、そういった子ども同士のコミュニティで育ってきた。
年長者が年少者の世話をするのがならわし――だから、リチャードも赤ん坊を世話するということについて多少の知識と経験はあった。
でもまさか、娼婦の子として底辺で育った自分たちと、間違いなく王族の血を引いているチャールズが、同じような世話をなされるとは思わなかった。
「……私の目に間違いがなければ、それは酒だよね?まさかチャールズに飲ませる気かい?」
リチャードの指摘に、チャールズを抱える乳母は恥じ入る様子も悪びれる様子もない。
「泣き止まない赤ん坊を黙らせるには効果的なのです。パトリシア様だって、それでうるさい声が止むのならと賛同してくれましたわ」
大きく溜息をつき、リチャードは乳母からチャールズを取り上げた。
平民として暮らしていた頃、そうやって赤子を黙らせる母親を何人も見てきた。
そして死んでいった赤ん坊たちも――酒が原因だったのか、そんな世話をするような母親が原因だったのかは分からない。
でも、この女にはチャールズの世話をする資格はないことだけは分かった。
自分への美辞麗句を並べ立てる口の上手さが気に入ってパトリシアが勝手に雇った乳母は、かなり控え目に言っても大外れだ。チャールズをなかなか泣き止ませることができないし、いつもイライラした顔でチャールズを扱っている。
この乳母がよりは、自分のほうがしっかりとした世話ができる。けれどリチャードも、チャールズを育てることに専念できるわけがなくて……。
「ポーラ。エステルがチャールズの面倒を見ることはできないかな」
腕の中ですやすや眠る赤子を連れ、リチャードはポーラを訪ねた。
城の一角――グレゴリー王が与えてくれた離宮でエステルと共に暮らしていたポーラは、激しく拒絶する。
「ふざけないで。あの子は、自分が子どもを生んだということも分かっていないのよ。そんな赤ん坊を渡されたって、混乱するだけだわ。ようやく、こちらの声に反応するまでに正気を取り戻してきたというのに」
「でも、このままじゃチャールズが殺されちゃうよ。パトリシアが雇った乳母はろくでもない女でさ。君だって、パトリシアのおもちゃにされてなぶり殺しにされるのは御免だろう?半分はエステルと同じもので構成されてる子なのに」
ポーラは唇を噛み、リチャードから視線を逸らす。
憎い男の子――でも同時に、愛する娘の子。それを、またパトリシアが。
「……その女はクビにして、別の乳母を雇えばいいじゃない。あの屋敷の人間など、もうあなたの一存でどうにでもできるでしょう」
その言葉に、そっか、とリチャードは頷いた。
なぜそれに思い至らなかったんだろう。そうだ、僕がレミントンの当主なんだ。周りがどう思ったって、当主であるという事実は変えられない。
さっそくリチャードは給料泥棒の乳母をクビにし、自分で見てそれなりに気に入った女を乳母に選んだ。
人を見る目に関しては、パトリシアよりは自分のほうがはるかにマシだとリチャードも思っていた。
やっぱりパトリシアが選んだ乳母よりはずっとましで、チャールズもよく懐いた。
ろくでもない女が母親を公称している影響については不安もあったが、とりあえず乳母はまともだし、自分もついていれば大丈夫だろう――屈託なく笑うチャールズを眺めながら、リチャードはそう思った。
――だが現実は甘くない。
愚行を繰り返すパトリシアを監視するため、王妃亡き後グレゴリー王は彼女を王妃にする決断をした。
そうなれば当然、チャールズは王子になる。王子となったチャールズは屋敷を出て城で暮らすようになり、リチャードとは必然的に距離ができるようになってしまった。
しかも、リチャードが忙しくしている間に、パトリシアが勝手にその乳母をクビにしてしまって。
久しぶりにチャールズに会いに行って、泣きながら大好きな乳母が突然いなくなってしまったことを知らされた時。リチャードは溜め息しか出なかった。
「たかが召使い一人のためにみっともないわね、チャールズったら。私たちは王族なのよ?多くの人間が、私たちに仕えたいと思っているの。特定の人間に思い入れなんか持ってどうするの。次々と人が来ては去っていく――いちいち動じていては、王子失格よ」
王子を生んだ妃ということでちやほやされることに味を占めたパトリシアは、王妃よりも王子が懐いている乳母の存在が邪魔になったらしい。それで勝手に乳母をクビにして、チャールズが悲しむのを恥ずべきことのように扱って……。
それ以後も、リチャードが考えて雇った召使いや騎士を、チャールズが懐き始めた頃にパトリシアが独断で勝手にクビにすることが続き――チャールズの感覚は歪められていった。
他人は自分に奉仕したがるもの……奉仕されるべき王子は、自分に仕える人間を道具のように扱い、不都合になれば切り捨てて取り替えていくもの……そう考えないと、繰り返される別れに耐えられない……。
「チャールズは、余に対してずいぶん反発的だな。もっとも、当然のことではあるが」
馬に乗るチャールズを眺めていたリチャードは、突然聞こえてきた声に目を丸くした。
いつの間にか、グレゴリー王が自分のすぐそばに来ていたらしい。
先代当主がやらかしたことの後始末のために何度か王と話したことはあったが、こんなふうに私的な場で声をかけられるのは初めてで。平静を取り繕うのが癖みたいなものだからきっと動揺は顔に出ていないだろうが、リチャードとしてはかなり驚いた。
グレゴリー王はリチャードの隣に並び、真面目に乗馬の指導を受けているチャールズを見ていた。
「良い馬をありがとうございました。と言っても、私は馬の良し悪しも分からぬ素人ですが。チャールズは喜んでおりました」
「気にすることはない。余も乗馬は不得手だ。キシリアより友好の証として贈られたのだが、チャールズのほうがふさわしいと思うてな……」
リチャードは愛想よく笑いつつも返事をしなかった。
グレゴリー王は乗馬が得意ではない。得意としていたのは、父王のほう。さすがのリチャードも、これを話題に出せるほど厚顔ではない。
「最近は弓の稽古も始めたそうだな。狩りの腕も、あの年にしてはなかなかのものだとか――ほかのことにも、それぐらい熱心に励んでくれればよいのだが」
「一応、私からも説教してはいるのですが」
チャールズは、勉学や鍛錬について、不真面目な生徒であった。
ちょっとしたことでつまずくと、すぐに投げ出してしまう。素質はあるのにもったいないと嘆く教師もいた。
……たぶん、本人の性格というよりも、父親への反発がそうさせているのだろう。
グレゴリー王は父親としてはチャールズに冷淡で、そのくせ王子としての期待から厳しく諭すことが多い。
父親に甘えさせてもらえないチャールズは、グレゴリー王の気を引くために幼稚な反発を続け、王子としての責務も放り出している。
そして、王子は傀儡でいいと思っている貴族連中の甘い言葉に、すっかり惑わされていた。
「……余にも非はある。その自覚はある。パトリシアを王妃にすると決めておきながら、覚悟が足りなかった」
王が呟く。
「リチャード王に憧れるのは、余への当てつけかと感じることがある。あやつといると、王としての責務より人間としての感情を優先したくなる」
チャールズには気の毒なことだが、リチャードはグレゴリー王のその感情を否定する気にはなれなかった。
身の程知らずな考えではあるが、面倒な父親を持ってしまったという点で、リチャードはグレゴリー王に対して一方的な親近感を抱いていた。
独善的で野心家な父親を持つと、息子は苦労するものだ――後始末というものをまったく考えないところまで同じ。
「余が頼りにならん父親であるならば、せめてあやつを支える配偶者には良き相手を……と言ってやりたいところだが、そちらは難航しているそうだな」
「ええ、まあ……。なかなか良さげなお嬢さんもいるのですが、いかんせんチャールズが首を振ろうとしなくて。あの子はちょっと……理想が高いというか」
冷淡な父親が妻のことも冷遇しているのを見て育ってきたチャールズは、男女関係についてもいささか考え方が偏っている。夢見がちというか、潔癖というか。
チャールズの幼稚さや育ちの複雑さを思えば、それなりに経験を積み、おおらかに笑い飛ばせるような女性が好ましいのだが……それは、チャールズにとっては淫蕩で傲慢な女に見えるらしく。
「……ふむ。チャールズの妃については、余は深く関わらぬほうが良いかと思うて静観に徹しているのだが……余が選んだ女となれば、それだけであやつは反発するからな。だが、王の権力を持って選ぶことも考えておいたほうがよさそうだ」
そんな会話もあったが、王がその後チャールズの婚約者候補を選ぶことはなかった――マリア・オルディスが現れるまで。
チャールズの妃には、彼女がふさわしい。そう見抜いた王は、間違いなく慧眼だった。
しかし肝心のチャールズが拒み続け、マリアもまた自身の思惑のためにチャールズの心を踏みにじり。結局、父王に奪われるという最悪のかたちで二人の婚約は破棄されてしまった。
――やれやれ。もったいないことをする。
甥のことは可愛いが、マリアを手放してしまったことにはさすがに苦笑いするしかなかった。
チャールズには、マリアが必要だ。
リチャードでは手に入れられないもの――生まれながらの高貴さ、人脈を持ち、チャールズ相手でも容赦なく自己を貫き通す気の強さと意思の固さ……。
それに、あれだけの美貌と矜持の持ち主なのに、男の欲望に理解があって、必要とあれば応じてくれるなんて最高じゃないか。
「嫉妬してるのかなぁ……」
誰に話すでもなく、ぽつりとそんな言葉が口をついた。
マリアは、チャールズにその身体を捧げた。愛しているわけでもないし、妃になりたかったわけでもない。チャールズを破滅させるため。
でもそれが、ものすごく羨ましい。
例え破滅すると分かっていても……。
それはもとからか。自分は彼女に気軽に触れてよい身分ではない。文字通りに、触れただけでも破滅してしまうかもしれない。それでも。
「また遠くから見るだけの立ち位置に逆戻りか」
チャールズとの婚約がなくなれば、自分とマリアの接点もなくなってしまう。
……だから、チャールズが婚約を嫌がるのを説得してまで、続けさせようとしたのだろうか。本当は、自分がマリアとの繋がりを消したくなくて……。
――チャールズを笑えないな。
この年齢で……自分もたいがい、夢見がちだ。




