-番外編- レミントン・後編(1)
「リチャード、様……」
自分の名前を紡ぐ愛しい唇に、リチャードは何度も口付ける。
王に全て捧げられるべき身体を、思う存分貪り、蹂躙し、味わい尽くす。選ばれた男のみ得ることができる喜びに、リチャードは満たされていた。
自分の命は燃え尽きようしているが、恐れも悲しみもない。
ドブにまみれて生まれ育った卑しい子どもが、国の頂点に立つ女を跪かせ、自らその身を差し出させるほどの勝利者になったのだから。
リチャードという名前は、当時平民に絶大な人気を誇っていたリチャード王にあやかって付けられたものだった。
その時代、平民たちの間では、男児が生まれればリチャードという名前を付けることが流行していて。リチャード――のちにレミントン侯爵と名乗る彼も、同様の理由であった。
正直、自分の名前はそんなに好きじゃない。だって――。
「お前の父親は貴族なのよ。名前だって、偉大な王にあやかったもの……だから、あんたは大物になるはずよ。そしてあたしは、聖母ルチルにも劣らぬ女になるんだわ」
リチャードを産み落とした女は、よくこう言っていた。
でも無理がありすぎる。
女は娼婦で、自分もドブにまみれて育ったような人間で。
夢を見るのは自由だが、無茶な妄想を押し付けないでほしい。将来を考えるどころか、今日を生き延びるのもやっと。
リチャードは、自分と同じように娼婦を母親に持つ子どもたちと共同生活を送って何とか生きてきた。
面倒を見ない母親に代わって、年長者が年少者の世話をする。拙い子どもの世話だから、死んでしまうことも珍しくない。
そんな生活でリチャードが生き延びられたのは……はっきり言って運がよかっただけだと思う。たぶん、自分はかなりの強運の持ち主だ。
跡を継ぐ人間がいなくなったから貴族の父親に引き取られるなんて。そんな幸運、なかなかないだろう。
――それが本当に幸せなことかどうかはさておき。
こうして、本来ならありえないことに、リチャードは貴族の仲間入りをすることになった。
しかも、レミントン家は爵位も低く、城に出入りできるような地位になかった家柄なのに、当時の当主は強欲でとてつもなく野心家な男だったから。
気づけばリチャードは王妃の兄、対抗馬のいない王子の伯父になってしまって。
なってみて……面倒くさいな、というのが正直な感想だった。
「ヒューバート王子に、いささか不審な動きがある」
またそれか。
と、言いたくなるのを堪え、リチャードは険しい面持ちで自分に警告する貴族に向き合った。
今回は誰です、と問いかける。
ヒューバート王子の存在は、チャールズを擁するリチャードたちにとっては頭の痛い問題だった――自分と、その他大勢が悩む部分は別だが。
とにかく、ヒューバート王子本人は無害を装ってひたすら幽霊に徹しているが、リチャードたちを潰したい人間にとっては格好の存在。いままでも、王子を担ぎ出して対抗してこようとした連中はいた。
そのたびに潰してきたが、最近はリチャードも辟易していた。
自分より格上の相手と対立していたころは楽しかった。けれどそうやって潰し合っているうちに、気づけばリチャードと渡り合える人間もいなくなってしまって。
功をはやるだけの低能と潰し合っても、あっけなくこちらが勝利して終わりだ……。
「マリア・オルディス公爵だ。キシリアからやって来た……あの女、宰相とも親しくしているらしい」
「マリア・オルディス。たしか、最新の婚約者候補でしたね。チャールズの」
「そうだ。あいつはチャールズ王子の婚約者なのに、どうもヒューバート王子に近づいているらしい。先日のガードナーの反乱の際にも、ヒューバート王子に同行してガードナー伯の説得にあたったとか」
その程度なら、目くじらを立てるほどのことでもないと思うが。
あえて口には出さず、リチャードは黙って考えていた。
ガードナーの一族を破滅させてしまったのは、チャールズにとって大きな痛手だったかもしれない。ただ、リチャードにとっても相容れない相手だ。
マクシミリアン・ガードナーは、リチャード王――現エンジェリク王グレゴリーの父王を堕落させた一件で、レミントンを警戒し、セイランや華煉に強い敵愾心を持っている。
息子をチャールズに近づけさせたのも、たぶんそのあたりの探りを入れたくて……生憎と、彼の息子は父親の思惑を知ることもなくチャールズに感化されてしまい、一族の破滅を招いた。
華煉と本格的なつなぎを取り始めたリチャードは、ついそれを放置してしまった。
結果チャールズの評判を著しく落としてしまい、幽霊だったヒューバート王子は城によみがえってしまった。
……でも、ヒューバート王子が王になりたがってるのなら、それもいいんじゃないだろうか。
リチャードは常々そう思っていた。
ヒューバート王子を担ぎ出して、チャールズを攻撃しようとするからいままで潰してきただけで。リチャードはチャールズを王にする気はなかった。
あの子は、王に向いていない。
「チャールズ。マリア・オルディスっていうのは、どんなお嬢さんなんだい」
甥が屋敷に遊びに来た際、何気ない世間話のついでにリチャードが尋ねてみると、チャールズは盛大に顔をしかめた。
「ふざけた女です。淫蕩で、不遜で。僕の目の前でモニカをいじめて、素知らぬ顔で開き直って。おまけに僕を足蹴にしたんですよ。この僕を」
「蹴とばした。君を。それはそれは」
声を上げて笑えば、チャールズは拗ねてしまった。
チャールズのご機嫌を取りながら、一度自分でも会ってみるべきだな、とリチャードは考えた。
「ところでチャールズ。まだあのモニカって女の子と付き合ってたのか。感心しないよ。あの子は危なっかし過ぎる」
「伯父上こそ。またその話ですか。モニカは面白いやつです。平民たちの暮らしぶりなど……彼女の話すことには、一聞の価値がありますよ!」
チャールズにとっては、平民の生活というのは興味深いものらしい。
平民として生まれ育ったリチャードは、苦笑いしかできない。
モニカ・アップルトンは、平民でもそれなりに裕福に、甘ったれに育った少女だ。彼女が語る内容は、楽しくてキラキラしたことばかり。
平民の中でも底辺に生まれ、どぶにまみれてきたリチャードにとっては、平民というだけで同じ括りにされたくないという思いもある。
平民たちが抱える闇……そのドス黒さを知りもしない少女の夢想話など、何の価値もない。
いまはそんなこと、どうでもいい。それよりは……。
マリア・オルディス――あの女性の血縁者。
リチャードが――見かけだけの美しさで醜い内心を隠す女ばかり見てきたリチャードが、唯一美しいと心惹かれた女性。
父に連れられた城で、遠目から見かけただけ……声をかけられたこともない、どんな女性だったのかもわからない、けれど強烈に惹かれて、いまもずっと心の中に在る人。
グレゴリー王の最初の妃マリアンナ。オルディス公爵の大伯母。
血縁者なら、彼女に似たところもあるだろうか。
だから殊更に、リチャードは彼女に会ってみたかったのだと思う。
初恋……と呼ぶには稚拙な感情。行き場をなくしてくすぶり続けたその想いに、決着をつけられるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて出会った彼女は、想像以上だった。
「ポーラ。公爵が君たちに会いに来た時には、チャールズのことを君からも売り込んでくれよ。彼女ほどの人材はないっていうのに」
リチャードの懇願も、ポーラは一蹴する。
「お断りよ。エステルに親切な公爵を、あんな家に関わらせるだなんて」
「公爵なら大丈夫さ。パトリシアとの嫁姑戦争も完勝してくれるって。あーあ。あの子を囲い込めなかったのは痛いなぁ」
まさか、あんなにもチャールズの妃にふさわしい女性がいたなんて。
チャールズの婚約者候補はたくさんいた。
最初の頃はリチャードも慎重に相手を見定めていたけれど、だんだんきりがなくなってきて、キャロライン・エヴェリーを最有力に選んでそれっきり。次から次へと現れる婚約者候補を精査することはやめた。
チャールズには、彼をしっかりと指導できる女性が必要だ。
エヴェリー嬢は優秀だし、父親のコンラッドは財務大臣。チャールズにとっては悪くない人材だが……エヴェリー嬢では、チャールズの手綱を握れない。彼女には、王子に対する遠慮がある。父親のコンラッドも、貴族のくせにやたらとまともで……正直、リチャードにとっては扱いづらい。
チャールズのためなら、セイランや華煉とも手を組むつもりでいるリチャードにとっては……。
「オルディス公爵がヒューバート王子に肩入れする理由が分かれば……。別に、王子に恋してる感じでもなかったけど……」
「恋だとか愛だとか、そんなもので動く女性には見えないわ。でも情に厚い人でもあるわ。特に利のないエステルにも優しくしてくれて……」
ふと、ポーラが言葉を切った。考え込む彼女に、リチャードは視線で問いかけた。
「彼女、妹がいると言ってたわ。どうもエステルに優しいのも、妹さんとエステルが被る部分があるからみたい……」
妹――リチャードも考え込む。
オルディス公爵のこと、一通りは調べてある。
キシリアから、妹と侍女を一人連れて公爵はエンジェリクへやって来た。
四つほど下で、姉に負けずなかなかの美少女らしい。もうそろそろ社交界に来てもいい年頃のはずなのに、公爵の妹がどこかの貴族の集まりに顔を出したという話を聞かない。
彼女とごく親しい関係にある人間しか、彼女の妹と会ったことはない……。
「……案外、彼女もあなたと似たようなものなのかもね」
「僕?」
「ええ。チャールズのために献身的なあなたと……。いまでも、少しだけ意外に思ってることがあるわ。あなたがチャールズに、そこまで深い愛情を抱くだなんて」
「どうかな。僕はチャールズを愛しているのかな」
チャールズのこと……可愛いとは思う。
別に子どもが好きなわけじゃないが、自分によく懐いてくれて、無邪気に慕ってくれて。好意を向けられれば悪い気はしない。自然と、可愛いなぁという感情は生まれてくる。
でもこれが愛情なのかと言われると、リチャードにはよく分からなくて。
「あんな育ち方をしたら、人に愛情ってものが持てないのも無理ないと思ってたわ。だからあいつらにも私たちにも淡々とした態度を取るのはむしろ納得してたけど……」
それはポーラにもよく分からない感情らしい。
ポーラもまた、愛情など存在しない家で生まれ育って、よく分からないまま大人になってしまったと零していたことがある。
「チャールズがあなたに似てるからかもね」
「似てる?そうかな」
「見かけのことじゃないわよ」
「それはさすがに分かってるよ」
王家の子として生まれたチャールズ。娼婦の子として生まれた自分。
必死に走り回って来てようやく高貴な存在に近づけるようになっただけの自分と、国の頂点に立つ女性にも気安く触れることができるチャールズ。
そんな二人が、似てる?
……自分がチャールズの立場であれば、オルディス公爵を何としてでも自分のものにしたのに。
「無償の愛情を注いでくれるはずの母親から見向きもされずに生まれて、父親とはどこか歪な関係で育った。チャールズは同性同士ということもあって余計に――あなた、たぶん、無意識の内に自分を重ねて見てるのよ。だからチャールズを守りたいし、チャールズの望みは何でも叶えてあげたいんでしょうね」
「ううん。何だか哲学な話だね」
「……そうね。我ながらくさいこと言ったわ。適当に流してちょうだい」
ポーラはそれっきり話題を打ち切ってしまったが、リチャードは少し残念だった。
親子関係……子どもを育てる……愛情。
どれもこれも、リチャードにはずっと無縁だったもの。それらが分からない自分が育ててきたから、チャールズはああなってしまったのではないかと思う時があった。
母親は無関心、父親は冷徹、そして伯父の自分は……手本になれない大人。
チャールズは、生まれた時から多くのものを――レミントンが築いた負の遺産を受け継いでしまった。チャールズと並ぶ女性には、それらを供に背負ってもらう必要がある。
それができるのは、マリア・オルディス公爵を置いて他にはいまい。




