-番外編- レミントン・前編
すべてが真っ赤に染まる――。
その光景をポーラが見るのは三度目だ。
一度目は自分の顔を焼いた時。視界が真っ赤に染まり、気がつけば闇の中に落ちていた。そして目が覚めて、自分は望み通りすべてを失ったことを悟った。
二度目はセルデン家で。紅が、カールを連れて行ってしまった。
……これでもう、終わり。
――祈りましょう。ポーリーン様の魂が救われ、天国でエステル様と再会できるよう……。
ありがとう、オルディス公爵。
でもいいの。私なんかのために、これからを生きていかなくてはいけない貴女が時間を遣う必要はない。
だって、私は……。
自分の鏡台の前で、エステルが何かコソコソとやっている。ポーラはクスリと笑い、何してるの、と声をかけた。
びくっと飛び跳ね、エステルは恐るおそる振り返った。媚びるような、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべ、母の顔色をうかがう。
エステルの背後には、ポーラの貴金属入れが――宝石がちりばめられた装飾品。大人の女性の真似をしたいエステルの心を強く惹き付けたのだろう。
ポーラはもう一度笑い、箱からネックレスをひとつ取ってエステルの首につけた。
「キラキラきれい」
宝石に負けず目を輝かせ、エステルが満面の笑顔で言った。
「それは、あなたのお父様が私に贈ってくれたものなの」
ポーラが言うと、エステルの顔が曇る。やがてしゅんとした様子で、ごめんなさい、と呟いた。
「お母様のたいせつなものだったのね……」
子どもながらに、他人が触っていいものではなかったのだと悟ったのだろう。
心優しい娘を、ポーラはネックレスごとぎゅっと抱きしめる。
「いいのよ。元々はお父様のお母様――つまり、あなたのお祖母様のものだったの。だからあなたが大きくなった時、全て譲り渡すつもりだったわ」
自分を抱きしめる母の腕の隙間から、エステルが上目遣いに見上げる。
「私のお父様はどんな人だった?かっこよかった?」
「顔はかなり良かったわ。でも……そうね。ちょっと――いえ、すごく変な人だったわ」
思わず苦笑してしまい、エステルも眉をひそめて不満そうな声を上げる。
――だって、本当に変な人だったんだもの。
たかが不倫相手に、母親の形見でもあるネックレスを贈るなんて。渡された時、ポーラのほうが馬鹿じゃないの、と叱ってしまったぐらいで。
「君が受け取ってくれないと、パトリシアが見つけ出して売り飛ばしてしまうだろう。私の財産を遣うことに関しては、彼女は非常に熱心だからな」
そう言われては受け取らないわけにもいかない。
でも、いつか逃げ出す時の資金にしようと思って貢物を受け取っている女にこんなもの渡すなんて――これは、できるだけ手をつけないようにしよう……。
――カール・セルデンは、おかしな人だった。
カールと個人的な接点を持つようになったのは、パトリシアが彼に嫁いで一ヶ月も経たなかった頃。
召使いとして妹の嫁ぎ先についていったポーラは、主人の寝室を掃除している最中に彼に押し倒されてしまった。
ベッドの上に倒れ込んだポーラにカールが圧し掛かり、長い前髪を払ってポーラの顔を覗き込む。
「うん……火傷のあとは確かに派手だし、気味が悪いが……やっぱり顔のつくりそのものは悪くないな。妹に負けず美人だ。それに、なかなかそそる身体をしてる」
パトリシアと彼の結婚生活が上手くいってないのは知っていた。
カールのほうは一応歩み寄る努力もしたみたいだが、ちやほやしてもらうのが当然という態度を取るパトリシアに我慢ができなかったようで――両親の最初の予定では、パトリシアは年の離れた大富豪に嫁がせることになっていた。
幼い妻をちやほやと可愛がり、金を与えて満足させておけばいいと考えるような、そんな男の妻に。たぶんそっちのほうが、パトリシアは幸せだったと思う。
それがポーラが使い物にならなくなり、急きょ嫁ぎ先が変わってしまって……。
「ご主人様、こんな、日も高い内に……人にすぐ気付かれます」
抗議し、カールの身体を押し返そうとしたが、カールは鼻先で笑い飛ばすばかり。
「私の妻がいまどこに行ってるか知っているか?茶会だそうだ。言いつけてあった仕事は放り出し、何一つ義務は果たさず新しいドレスのお披露目会に行った。私の金で買ったドレスをな」
「……妹は、貴族の妻としての教育を受けておりませんので。私がその役目を背負うはずが当てが外れ、仕方なくあの子が」
パトリシアが働かない分、ポーラが妻がやるべき仕事を片付けていた。
別にそれは不愉快ではなかった。セルデン家での暮らしはレミントン家での暮らしよりずっと良いし、妹の後始末ではあるが理不尽なことを要求されているわけではない。
自分の服に手をかけようとするカールに、ポーラは溜息をつく。
「ご主人様、お気を確かに。こんなつまらない女と火遊びをしても、仕方ないではありませんか」
「つまらんかどうか、試してみないと分からないだろう」
一般的な感覚で言えばかなり悪辣な行為を強いられているのだろうが、ポーラは不思議と彼を憎めなかった。
男と女の関係を知ってみたいという好奇心もあった。
自分には無縁なものと思い込んでいたから。こんな自分でも女として求められることがあるのかと、怒ったり悲しんだりするよりも先に驚いた。
それに、何かと自分を下に見たがる妹に対する優越感。
妻に辟易している妹の夫が、自分に興味を持った。妹を羨んだことなんかなかったけど、もしかしたら、ポーラの中で劣等感がくすぶっていたのかもしれない。
でもそれ以上に――火傷の跡から目を逸らすこともなく、まっすぐに自分を見つめてくる男は初めてで。
ちょっとした気まぐれでもいい。これきりとなって、もう見向きされないような結果になっても構わない。
一度ぐらい、自分も誰かから求められてみたいと。ポーラは彼を受け入れた。
一度だけと思った関係は、それからも続いた。
その日以降、毎夜のようにポーラは彼の部屋に呼び出され、三か月が経つ頃には、いちいち呼び出すのも面倒だから部屋を替えろと指示された。
カールの部屋がポーラの部屋となり……持ち込んだ荷物の少なさに、カールが眉をひそめた。
「レミントン家から来た時も、自分の物はほとんど持ってきませんでした」
あまり買い与えてもらえなかったのもあるが、ポーラ自身、欲しいとも思わなかった。だって、こんな顔じゃドレスも宝石も無駄だし。
「年頃の女が何を言ってるんだ。少しは着飾れ」
妻のある男が何を言ってるんだ、とポーラが反論したくなるのも当然だと思う。
だってカールは、妻を差し置いて単なる不倫相手でしかないポーラに次々と物を贈りつけて来て。母親の形見の宝石まで寄越し始めた時は、正気になれ、と再び叱責してしまった。
「贈り物を辞めて欲しいというのなら、私の望みも叶えろ。私のことは名前で呼べ」
ポーラが沈黙して抗議すれば、カールもムッとした顔で言う。
「そうか。名前で呼びたいと、泣いて懇願したくなるほどベッドで責められるのが好みか」
「……この変態。パトリシアがあんたのベッドに行きたがらない理由がよく分かったわ」
「よし、朝までお仕置きコースだな。安心しろ。腰が抜けるまで可愛がってやる」
カールと一緒に過ごす時間は、なんだか落ち着かなかった。彼と一緒にいると調子が狂う。
冷静な人間でいたいのに、つい感情が出てしまって。
――私が引いた線の中に誰も入って来て欲しくないのに、彼はズカズカと踏み込んで来て……。
「これで今日の仕事は終了だな。ポーラ、君には残業を頼めるか」
「超勤手当はしっかり頂きますからね」
カールの仕事を手伝っていたポーラは、片付いた書類をまとめながら言った。
彼のすぐそばで仕事を手伝うようになって思うが、やはり伯爵家の当主というものは忙しい。半分は妻が引き受けて片付けるべきものを……両親を喪い、若くして当主となったカールには、やっぱり妻の支えが必要なのに……。
「そこの長椅子に座れ」
指示されるまま、ポーラは長椅子に座る。
途端、ポーラの膝を枕にカールが寝転ぶ。まさか残業って、とポーラが顔をしかめる。
「私を癒せ」
悪戯っぽく笑うカールに、怒る気力も失った。
もう、と呟き、彼の髪を撫でる。
無防備に自分に身を委ねているカールを見ていると、胸の奥で何かがあふれ出てくるようだった。これが何なのか、その時のポーラには分からなかった……。
「あなたは、カールのことを愛していたのね」
眠るエステルの髪を撫でていたポーラは、ペンバートン公爵夫人の声にハッと顔を上げた。
まだポーラは業務時間内――娘の寝かしつけのために、休憩をもらっていただけ。慌てて仕事に取りかかろうとするポーラに、公爵夫人はしーっと合図をする。
「いいのよ。そのままエステルのそばに……そうね、働かなくてはいけないと言うのなら、この年寄りのお喋りに付き合って頂戴」
公爵夫人は部屋に置いてある簡素な椅子に座り、向かいの椅子にポーラの着席を促す。
自分は床に座るべきなのに――公爵夫人の好意に甘え、ポーラも椅子に座った。
「見ていれば分かるわ。あなたがエステルを愛しく思うのは、我が子だからだけじゃない。愛し、愛された人の子どもだから。だから、いっそう愛しさが増すんだわ」
「……分かりません。私には。彼を愛していたのか」
意地を張ったのではなく、本心からポーラはそう答えた。
ひたむきに、カールはポーラのことを愛してくれた。
……でも自分は?
カールの愛を信頼していなかった。応えようとしなかった。
……利用しようと、していなかった?
本当に、愛していたと。胸を張って言えるだろうか?
公爵夫人は優しく笑いかける。
「愛していたわよ。だって、エステルを妊娠したことが分かった時、彼に打ち明けないという選択肢はなかったんでしょう?彼も喜んでくれると信じていたのよ。愛する人と、喜びを分かち合いたかったのよ……」
――そうだ。
妊娠が分かった時、ポーラは逃げ出す覚悟をした。
ならばカールに打ち明けないで、さっさと逃げ出すべきだった。子が生まれてからのほうが逃げ出しやすいから、なんて。ただの言い訳。
カールなら喜んでくれる。子どものことも、受け入れてくれる。
その期待が、心のどこかにあった。
……本当は。
あなたが喜んでくれて、私、とても嬉しかったのよ――。
炎の勢いは増し、屋敷は崩れ始めた。
昔から、火が恐ろしいと感じたことはなかった。いまも、焼けつく熱さに立っていられなくて、息苦しさに胸が締め付けられていると言うのに、恐怖は感じない。
ガラガラと崩壊していく音……それに混じって、何かが聞こえる……。それは、誰かが自分を呼んでいる声にも聞こえて……。
「……エステルなの?」
熱にうかされて見た、幻だったのかもしれない。
目の前に、あの子がいる。ポーラの記憶にあるあの笑顔で……あの子の笑った顔は、あの人そっくりだった……。
自分を見つめるエステルの後ろで、男が立っている。その姿を見て、ポーラも笑った。
「愛しているわ、カール」
後悔は、たくさんある。過ちも、罪も、たくさん犯してきた。
でも一番の心残りは、あの人の名前を呼んであげなかったこと。
――祈りましょう。ポーリーン様の魂が救われ、天国でエステル様と再会できるよう……。
ありがとう、オルディス公爵。
でもいいの。私なんかのために、これからを生きていかなくてはいけない貴女が時間を遣う必要はない。
だって、私は……。
会いたい人たちに、もう会うことができたから。




