悪が屈する唯一の
小さな子供のように泣きじゃくるチャールズの背を優しく撫で、レミントン侯爵は彼の涙を拭う。
「すまなかった、チャールズ。大変な時にそばにいてやれなくて。さぞ怖い思いをしただろう」
チャールズも必死に自分の涙を拭い、なんとか落ち着こうとしていた。
「だが僕も、一緒にいてやれるのはこれが最後だ。正直に言って、こうやって起き上がって話をするのもかなり無理をしている状態でね」
レミントン侯爵はベッドの上に腰かけたまま、立ち上がろうともしなかった。きっと、もうそうすることもできないのだ。
もともと侯爵は痩身ではあったが、いまは痩せ細ったという表現がぴったりで。焼き潰された目は無造作に伸ばされた髪で隠され、そこからちらりと見える火傷――同じく火傷を負っているポーラに本当にそっくり……。
「彼はマオと言って、セイランのちょっと変わった集団に属する人間だ」
侯爵は、ずっとポーラの警護役をしていたセイラン人の男を指して言った。
「彼と彼の集団に、おまえがエンジェリクから逃げる手伝いをするよう依頼してある。彼らにはたっぷり報酬を支払ってあるから、報酬分はしっかり働いてくれるはずだ。それは信用してもいい。だが信頼してはいけない。報酬分働いたら、あっさりと手を引いて次の仕事へ行ってしまう……お前がエンジェリクから逃げ出して、ある程度自分で自分の道を歩けるようになるまでは付き従ってくれるだろうが、それ以上の期待はしないほうがいい」
マオと呼ばれるセイラン人。そしてその男が属する集団。
心当たりはあったが、マリアは黙って侯爵とチャールズのやり取りを聞いていた。
「さあ行きなさい。追手はすぐに来る。多少の時間稼ぎの準備はしてあるが、それをしたが最後、僕ももう助けてあげられない」
チャールズは唇を噛み、でも、と呟く。
「逃げたところで、僕はどうしたらいいんですか?僕はもう、エンジェリクの王子ではない。母上にも父上にも……国中に見捨てられ、伯父上もいなくなってしまう。なのに……なぜ、僕はまだ生きていなくちゃいけないんですか?僕も、伯父上と一緒に――」
「チャールズ」
みっともなくひたすら泣きごとを続ける甥を、侯爵は優しく見つめた。
「肩書も理由も、僕が授けよう。お前は僕の自慢の甥だ。僕のために生きてくれ」
チャールズはしゃくり上げ、もう一度、零れ落ちる涙を拭った。
「外国へ行って力を蓄え、エンジェリクに復讐に戻って来てもいい。エンジェリクのことなど忘れて、遠いところで自身の幸せをつかんでもいい。死が間違いなくお前の救いだというのなら、その選択もいいだろう――ただ、誰かの思惑に乗せられたままその人生を終えるのは止めてくれ。おまえの人生は、すべて自分で選んだ結果であってくれ」
またチャールズは涙を拭い……そしてもう、泣くのを止めた。
決然とした面持ちで侯爵と向かい合い、チャールズは伯父を抱きしめる。それから扉の近くで待つマオに近づき、振り返ることなく彼と一緒に屋敷の外へ出た。
途端、侯爵は倒れ込むようにベッドに横になり、大きく溜息をつく。
「……さて。それじゃあ、あなたにはもうしばらく人質をやってもらおうか。せめてチャールズが王都を出るまでは、時間稼ぎになってもらわないとね」
ちょいちょいと手招きをする侯爵にマリアは近づく。
侯爵はベッドサイドの小さなキャビネットからペーパーナイフを取り出し、マリアのロープを切った。
侯爵に近づく時も、彼がナイフを取り出した時も、マリアは特に危険を感じなかった。他人がこんなことをしたら、何を甘い真似を、と嘲笑しただろうが。
「……マオという男。私が知っている人間と何か関わりが?」
「マオっていうのは、華煉……ああ、彼らの組織の名前ね。華煉で代々受け継がれる名だそうだ。本当の意味で名前じゃなく、役職みたいなものらしいよ。あのマオ君は七代目とか言ってたな。僕もちょっと詳しくは分かってなくて……詮索し過ぎると、僕が敵認定されちゃうから」
やっぱりそうだ。
かつてエンジェリクの王を破滅に追いやった朱の商人――東方の国セイランより訪れ、不思議な商品を売りさばいていた人間。その商人は、ある組織に所属していたが、個人の利益を求めるあまり組織を裏切り、組織の人間から追われていた。
その朱の商人を追ってエンジェリクにやって来たのが、マオと名乗る少年だった。
あのセイラン人が着ていた衣は、そのマオという少年とよく似ていた。民族衣装にしても、あそこまでそっくりなのは何か意図があると……。
「前々から、華煉とは繋ぎを取ってたんだ。王になってもチャールズが困難な道を歩むことになるのは分かってたからね。僕は必ず、チャールズより先に死んでしまう。僕の守りがなくなった時、利己的な貴族たちは群れを成してチャールズを食い物にしようとするだろう。それを追い払うため、華煉をチャールズの私兵にするつもりだった」
華煉……もしくは、朱の商人との繋がりは、レミントンの先代当主の時代からだ。
結局リチャード・レミントンも、先代当主からそれを受け継いでいたということか。
「コンラッドには悪いことをしたよ。王妃派の中でも、まっとうで良い奴だったのに。朱の商人のことを嗅ぎつけられて……。華煉の協力を確実なものにするために、裏切り者の朱の商人はいずれ僕自身が始末してしまうつもりだったが、間が悪かった。王になる王子が、自国の貴族を制御するために外国に頼るつもりだったなんてバレたらマズいだろう。それで仕方なく口封じするしかなくなって……華煉のことを隠し通せる時期じゃなかったんだ、あの頃は」
華煉との繋がりを隠すため、かなり強引に情報を断ち切らせるしかなかった。
侯爵は自分の打った悪手について、自嘲気味に話し続ける。
「もっとも、僕の最大のミスは君を囲いこまなかったことだ。チャールズの婚約者候補には色んな女を宛がわれたから、それの対応にも正直辟易しててさ。とりあえずキャロライン・エヴェリーは格がひとつ違ってるし、それでいいやと思ってたんだ。ところがマリア・オルディス公爵ときたら、チャールズの妃にこれ以上ないぐらいぴったりな女で」
侯爵が苦笑する。
「キシリアと強い繋がりがあり、エンジェリクでも司法と軍部に人脈を築いている。ヒューバート王子の早い出世にも、参謀役の公爵が絡んでいた。だが彼女はそれを誇るでもなく、王子の影に徹して……。それがすべてチャールズのものになっていれば、間違いなくチャールズは安泰だったのに」
「それでなぜ、私を消してしまわなかったのです?私は、間違いなくチャールズ殿下にとって最大の脅威になると、分かっていたはずでしょうに」
たぶん侯爵なら、マリアがチャールズの味方になるつもりがないことも、ヒューバート王子と共に対立する腹積もりであることも、薄々見抜いていたはず。
その頭角を現す前に、王子諸共消し去っておくべきだったのに……。
「君を消すなんて選択肢、最初からなかったよ。君がいなくなってしまったら、僕に万一のことがあった時チャールズは本当に殺されてしまう」
「は……」
マリアは失笑した。
マリアこそが、チャールズを追い詰めた張本人だというのに、なにを……。
だが侯爵も、ニヤリと不敵に笑う。
「実際、君はチャールズを守ったじゃないか。僕にトドメを刺して完全に息の根を止めておくべきだったというのに。僕を生かして、あの子が逃げる道を残してくれていた」
マリアは押し黙った。
……そうだ。マリアには、侯爵にトドメを刺すチャンスがあった。
侯爵邸には、マリアが送り込んだ使用人たちがいる。彼らに命じて、瀕死状態の侯爵の看護をするふりをして息の根を止めるなんてこと、簡単にできるはずだったのに。
――マリアはそれを命じなかった。
「……そう言えば、私が送り込んだ使用人たちはどうしたのです?彼らから、あなたの様子について報告させていたはずなのですが。あなたが目覚めたことも私は知りませんでした」
「意識を取り戻しても、僕はしばらく狸寝入りをしていてたんだ。彼らの目を盗んで華煉を呼び寄せるのには苦労したよ。でも君も、可愛い赤ちゃんが生まれてそっちに夢中になってて、僕への警戒を緩めちゃったね。ここ半月ほど送られていた報告書は、僕が彼の筆跡を真似て代筆したものだよ」
悪戯が見つかった子どものように無邪気に笑う侯爵に、マリアは笑顔を引きつらせる。
完全に、してやられた……。
「大丈夫。誰も殺したりしてないから。レミントン家が所有している別邸に軟禁してある。世話をしていたセイラン人はチャールズと共に行ってしまうから、今日は食事抜きだけど……たぶん、城の騎士たちがこの屋敷に調べに来るのと同時に調べに行くよ。あんな目立つ建物」
「……私、負けを認めるしかないようですわね」
「君は悪役を気取るには優し過ぎるんだよ。だから僕はずーっとお節介を続けて、君とチャールズを近付けさせた。チャールズのまともな一面を知れば、どこかで情が生まれるだろうと分かっていたから」
チャールズの素顔を見るべきではなかった――それは、マリアにも自覚はあった。
両親の愛情が欲しくて。無邪気に伯父を慕って。認められたくて、振り向いて欲しくて。でも子供っぽい我儘と癇癪を起こすことしかできなくて。
……滅ぼすべき敵のそんな内面を、知るべきではなかった。
そしてまんまとレミントン侯爵の思惑にはまり。
――マリアは苦々しい思いで笑う。でも、不愉快じゃない。
「私は悪役ですから。人の情や絆を甘く見て、油断して、足元をすくわれて……最後は深い愛情の前に敗北する。それがお似合いの女ですわ」
絶対に始末してしまうべきだったチャールズは逃げ出し、マリアはこうして敵の手の中に落ちた。
マリアは敗けたのだ。
チャールズを想う、侯爵の献身的な愛情の前に。
……きっとそれでいい。
王子様を陥れようとした悪役は、愛によって破れ去る。それが、物語の本来あるべき結末だ。
でも、それで全て良しと思えるほど、マリアもお人好しではない。
「負けっ放しは悔しいので、少しぐらいは意趣返しをさせていただきます」
マリアは笑い、侯爵が横になっているベッドに乗り出す。
侯爵は、不思議そうにマリアを見た。
「リチャード様が私を手にかけることができなかったのは、チャールズ様のことだけではなく……私が初恋の女性に似ているからでしょう?」
侯爵がおかしな呻き声を漏らすのを、マリアは聞き逃さなかった。にんまりと笑うマリアに、侯爵は決まりの悪そうな顔をする。
「気付いていたのか……やっぱり。そりゃそうだよね……はあ……」
リチャード・レミントンの初恋の女性。
それは、グレゴリー王が生涯愛した女性と同じ。
――マリアの大伯母マリアンナ妃だ。
「完全に一方通行の片想いさ。前当主に連れられて城を訪ね、そこで遠巻きに姿を見かけただけ。直接声をかけられたこともない。どんな人間なのかも知らないまま……。平民の中でも最底辺で生まれ育った僕には、国の頂点に立つ女性が眩しくて堪らなくて。いつか、あんな女性から親しげに名前を呼ばれたいと思っていた」
「だと思いましたわ。だから私に、ご自分の名前を呼ばせたかったのですね。初恋の女性と、同じ声を持つ私に」
侯爵が苦笑する。
「そう。数十年の月日が経ち、国の頂点に立つであろう少女がその願いを叶えてくれて……本心を打ち明けるとね、ちょっとだけチャールズが妬ましかったんだ。僕だったら王の愛妾だろうとも、自分のものにできるチャンスがあるのなら絶対に手放したりしないのにって」
「まあ」
マリアは横になったままの侯爵に覆いかぶさって、自ら紐を緩め、服を脱ぎ捨てる……。
「ではどうぞ、本懐をお遂げくださいませ。私に勝利したご褒美です」
「え。僕、体力的に本気でもう限界なんだけど」
「……そうおっしゃる割に、お身体はしっかり反応していらっしゃいますが。男の方って、どうしてこう……」
それ以上、マリアは何も言えなかった。
瀕死の重傷人だなんて、そんなこと微塵も感じさせない力強さでリチャードがマリアを抱き寄せ、マリアの唇を塞ぐ。
目を閉じてそれを受け入れ、マリアはリチャードの頬を優しく撫でた。
「……マリア、名前を呼んでくれないか」
「はい……愛しておりますわ、リチャード様……」
マリアは一人、服を着ていた。
着替えが終わると、そっと部屋を出ていく。静かに扉を閉め、ベッドに横たわったまま冷たくなり始めた男を、最後にもう一度だけ見た。
「腹上死とはね。恐れ入ったわ。でも……リチャードらしい最期だこと」
部屋を出てすぐに、ポーラと出くわした。
ゆったりと長椅子に座り、小さなテーブルの上に置かれた燭台を見つめている。
彼女の周りには何かがこぼれている。ポーラの周囲だけではない。屋敷のあちこちに――たぶんこれは、油だ。
「オフェリアのこと……傷つけたいとは思っていなかった。でもいざとなったら切り刻むつもりだった。本気で」
「何がなんでも、チャールズ様を――エステル様の子を、助けたかったから?」
マリアの言葉に、ポーラは返事をしなかった。マリアも返事を必要としなかった。
チャールズはエステルを苦しめた男の邪悪さの象徴。そして同時に、エステルの血肉を分けた唯一の存在。
憎めども、ポーラには見捨てることのできない子どもだ。
「エステルを喪って……私の目の前で、あの子が生きた証が消え去ってしまうのを見過ごすことができなかった……。本当にごめんなさい。恩を仇で返してしまって」
ポーラは椅子から立ち上がった。火の点いた燭台を片手に。
「さあ、行きなさい。裏口へ――ここへ来たときと同じ場所から逃げるのよ。あそこは火が遅れるようにしてあるから。忌わしいレミントンはもうこれで終わり。当主の座を受け継ぐはずだった私が、全部片付けていくわ」
何をしようとしているのか、マリアは問わなかった。
ポーラは燭台を床に落とし、まかれた油に点いた火は、見る見るうちに広がっていく。
「ポーリーン様」
立ち去る寸前、マリアは一度だけポーラに声をかけた。
「私、神様と仲直りすることにいたします。そして祈りましょう。ポーリーン様の魂が救われ、天国でエステル様と再会できるよう……」
燃え盛る炎の音に掻き消され、ポーラの声は聞こえなかった。
ただ彼女の唇は――ありがとう――そう呟いているように見えた……。
焼け落ちていく屋敷を、マリアは少し離れたところから眺めていた。
欲望と野心に満ち、多くの犠牲の上に築かれた豪華な屋敷だった。その屋敷を建てた当主と同じ、見せかけばかりのハリボテで。
マリアは人を呼びに行く必要もなかった。派手な火事は注目を浴び、次第に人が集まって行く。
ヒューバート王子も、マリアが呼ぶまでもなく駆けつけてきた。
「マリア、無事か!?」
「はい。ご覧の通り」
真っ先にマリアのもとへ来て、王子はその無事を確認する。マリアは微笑み、静かに言った。
「……チャールズには、逃げられました。彼はエンジェリクを脱出し……恐らく、セイランへ行くつもりです」
王子の従者マルセルが、急いでヒューバート王子を見た。王子の指示を待つように。
エンジェリクは、小さな島国。国中の港を封鎖してしまえば、チャールズの脱出は容易に防げる。
だがヒューバート王子は、フッと笑っただけだった。
「マリア、僕たちはそれを聞かなかったことにしよう。この火事で、リチャード・レミントンとポーリーン・レミントンは死亡。チャールズは消息不明――それでいい」
マリアは何も言わず、マルセルも黙りこむ。ヒューバート王子は、暗い空に赤い色を反射させる炎を見つめていた。
「チャールズの存在は、僕にとって脅威だ。彼が生きている――それだけで、僕の歩む道には常に暗い陰が付きまとうことだろう。でもそれでいいと思うんだ。僕が暗愚と化せば、すぐにチャールズがやって来て僕は打ち倒されてしまう。そのことを肝に銘じ、僕は王になる」
王子は微笑み、マリアに振り返る。
その微笑みは、王子様に憧れるオフェリアを一目で虜にした時のものと同じ……。
「オフェリアのことを思えば、わずかな不安因子も完全に潰してしまうべきなのに。やはり、僕は甘いと、君に笑われてしまうんだろうな……」
マリアも笑い、頷く。
「まったく。殿下の甘さは困ったものです」
チャールズを逃がしてはいけない。なのにヒューバート王子は冷酷を貫き通せない。つくづく甘くて、王には向かない男だ。
どこまでも彼は――オフェリアが愛した、優しい王子様のまま。
結局ここでも、マリアは愛の前に敗北する。
オフェリアのために、オフェリアが愛した王子様を殺してしまっては、何の意味もない。




