逆襲 (2)
「我が子というのは、どうしてこうも愛しいのかしらね」
眠るクリスティアンを見つめ、マリアが呟く。
「ただ顔を見ているだけなのに……可愛くて堪らなくて。何もかも放り出して、この子のそばにいたいと……つい、そんな気持ちに襲われてしまうの」
「よろしいではありませんか」
マリアの悩み事を聞き、ナタリアは明るく笑った。
「お父様のクリスティアン様が亡くなってから……いままで、マリア様は休むことを禁じたかのように生き急いでいらっしゃって……おそばで見ていることしかできない私としては、不安でなりませんでした。お可愛らしいクリスティアン様が生まれた時ぐらい、ゆっくりなさってください」
そう言われても、自分には片付けなくてはならない問題が残っている――マリアは反論したが、どうしてもクリスティアンのそばから離れがたくて。
結局、城に復帰したのはクリスティアンが生まれてから一ヶ月後だった。
世間は貴族の陰謀に巻き込まれた憐れな少女のことも忘れ始め、チャールズ王子が密かに消え去るのに丁度よい頃合いとなっていた。
王の御前に参上したマリアは、その後、城にいる親しい人たちにも挨拶して回り、最後にオフェリアに会いに行った。
本格的に王子妃として城で暮らし始めたオフェリアは、今日は久しぶりに屋敷へ泊まりに来る予定となっている。
だから慣れた廊下を歩いて妹を迎えにいって――不穏な空気にすぐに気付いた。
「オフェリア、迎えに来たわよ。オフェリア……?ベルダ――アレク――誰もいないの?」
異様に静かな離宮に、マリアの声だけが響く。
やがてバタバタと騒がしい音がして、血相を変えたベルダがマリアに駆け寄ってきた。
「マリア様、早くこっちに!オフェリア様が……!」
ベルダに引っ張られながら走り、マリアが見たものは。
――見知らぬ男と互いに武器を構えて睨み合うアレクと。
捕らえられ、喉元に大きな刃物を突き付けられて怯えるオフェリア。
オフェリアを捕まえているのは……。
「ごめんなさいね、公爵。あなたたちは、エステルに幸せな時間を与えてくれた恩人だというのに」
彼女だって、極刑を待つ死刑囚だ。
堅固な牢で、厳重に見張られているはずなのに。
「見張りの騎士は責めないであげて。娘を亡くした私の不幸を知って、とても同情してくれて……罪を認めてずっと大人しくしてたから、つい油断してしまうのも無理はないわ」
ポーラは、淡々とした口調で言った。
娘を喪って復讐に走った女性に、見張るべき騎士がつい絆され、警戒をゆるめてしまったらしい。
それに逮捕された時もポーラは抵抗する素振りも見せず、全てを終えて、全てを受け入れているように見えた。マリアですら、彼女がこんな反逆に出るとは想像してもいなかった。
きっと、ベルダたちも同じだ。
死刑囚ではあるが、女性で、エステルを通して知り合った相手。
オフェリアはポーラがやって来たことをあっさりと受け入れ、むしろ自ら離宮に招き入れてしまったことだろう。ベルダとアレクも、彼女への警戒は怠っていた……。
「どうしても、最後にやらないといけないことが残ってるの。公爵、私をチャールズのところまで案内して頂戴。さもないと」
刃物をオフェリアの頬にぐっと押さえつける。恐怖にオフェリアが小さな悲鳴を上げた。
そのまま大ぶりの短剣を引けば、オフェリアの頬には簡単に傷がつくだろう――。
「殺したりはしないわ。大切な命綱でもあるのだから。ただこの子を切り刻んで、痛めつけるだけ。彼女の泣き叫ぶ声に耐えられるのなら、私の命令に逆らってもいいわ」
……これがオフェリアでなければ。
多少人質が傷つくことも無視して飛びかかることもできただろう。
マリアを近くで見てきたポーラは、マリアの弱点も、考え方も、すべてお見通しだ。
大人しく離宮を出て、マリアはポーラを先導する。チャールズが捕えられている場所へ――当然、道中では何人もの人間とすれ違った。
もともと人を遠ざけていた離宮だ。数人の女官たちとすれ違った後、女官から恐ろしい知らせを聞いたヒューバート王子が駆けつけてきた。
「オフェリア……!」
「丁度良いところへ。ヒューバート殿下。騎士たちに命じてください。全員詰め所にて待機し、誰も城内を移動するなと。城中の騎士全員から襲われては、いくら彼でも太刀打ちできませんから」
ポーラは、自分の背後を警護している男を振り返り言った。
ポーラのそばには、セイラン人の男が一人――絶えず警戒し、ポーラへの襲撃を阻んでいる。
ポーラ一人だけなら、隙を見てアレクやララが飛びかかることもできただろう。だがこのセイラン人の警護役――かなり腕が立つようで、迂闊な真似は出来なかった。
ポーラを襲えば警護役が反撃して来て、その隙にポーラがオフェリアを傷つける。
警護役を襲えばポーラがそのままオフェリアに向けて刃を降ろす。
――それこそ、数に物を言わせて反撃する間もないほどに大勢で襲うぐらいしか、助け出す手はない。
……セイラン人。着ている衣……纏う空気……そしてレミントン。物凄く不穏なキーワードが揃い過ぎていて。
だがそれを考えている余裕はない。
「いますぐです。ちらりとでも騎士の姿が見えたら……」
ポーラは王子たちに見せつけるようにオフェリアの右手を掴んで掲げ、大振りの短剣を小指に当てた。オフェリアの細い指を斬り落とすなど、あの短剣なら容易にできる……。
「いやっ!やだやだやだぁっ!」
指を斬られる――オフェリアは、恐怖で完全にパニックを起こしていた。
これでは、こちらの合図に気付かせてオフェリア自身に逃げ出してもらう、という方法も取れない。
「……ポーラ様。人質なら私がなります。だから妹を解放してください」
「お断りよ。あなたを人質にするなんて、そんな愚かなこと。冗談じゃないわ」
ピシャリと拒否するポーラに、マリアは舌打ちする。
……やっぱりダメか。
マリアでは、人質にする価値がない。人質に取った側が、反撃を恐れて余計な警戒をしなくてはならないような人間だ。マリアよりもオフェリアのほうが、確実かつ安全――当然、ポーラはそれを知っている。
「ポーラ……!なぜだ!?なぜ、そなたがそのような……!」
異変はついに王の耳にまで届き、ポーラも王の登場にはわずかに顔を歪めた。
「……申し訳ございません、陛下。私はどこまでも、陛下のお心を痛める人間にしかなれませんでした。ただ、私にも譲れぬものがあるのです――陛下、馬車の用意をお願いします。馬と、四人ほど乗れる車がついていればそれで構いません」
ポーラの要求はそれだけだった。
あとはチャールズのもとに先導するマリアの後ろを歩き――扉の前で、見張りの騎士たちに命じる以外は、何も要求しなかった。
「鍵を公爵に渡しなさい。それを渡したら、すぐにあんたたちも詰め所に行くの。すぐによ」
騎士から鍵を受け取り、マリアは牢獄代わりの部屋に入った。
部屋への立ち入りは、マリア以外認められなかった。マリアと一緒に部屋に入るのは、ポーラと人質となったオフェリア、警護役のセイラン人のみ。
牢獄と言えど、王子を捕えている部屋は通常の囚人の牢獄よりははるかに良い環境だった。もしかしたら、平民たちが暮らす家よりもずっと広く立派だろう。
だが寒々としたこの部屋には必要最低限のものしかなく、食事の差し入れや多少の世話のために人が出入りする以外、訪れる者はいない。
片隅で小さくなっていたチャールズ王子は、本当に小さくなってしまったように見えた。
背を丸めて、身を縮こませて……あれほど尊大で、多くの人間をかしずかせて踏ん反りかえってきた頃の姿からは、想像もできないほど卑屈に……。
チャールズはしばらく、人が部屋に入って来たことも認識できないようだった。片隅で膝を抱えたまま、何が起きているのか分からないという顔でマリアたちをじろじろ見ていた。
ようやくその存在を理解して立ち上がっても、チャールズの困惑は続く。
「……ま、マリア……?それに、ポーラ……どういうことだ?」
混乱するチャールズを放って、セイラン人の男がマリアに近づいて来た。
ロープを取り出し、マリアの両手をそれで縛って首にもロープを回す。手際良く巻きつけられてどんな構造になっているのかマリア自身把握しないまま、マリアは拘束された。
ただ分かるのは、下手に手を動かせば首にかかったロープが締め付けて来て、自分は死ぬかもしれないということ。
「そのロープの端は、あんたが持ちなさい。あんたの命綱よ。城を出るまでは手離さないようにね」
ポーラが言った。
マリアを拘束するロープは一方の先端が二メートルぐらい垂らされた状態で。まるでリードをつけられた犬のよう……チャールズはそれを持ち、ポーラやマリアに説明を求めるかのような目を向けた。
その姿に、この計画をチャールズは何も知らされていないことをマリアは悟った。
チャールズが首謀者だなんて、もちろん考えていなかった。でもポーラが一人で考えて実行するには、いささか無理がある。だって、ポーラではあいつらを動かすことはできない……。
牢獄の外では、ヒューバート王子たちが待ち構えていた。
しかしオフェリアを人質に取られては王子も動けない。その人質にマリアまで加わってしまって……。
なんとか取り返すチャンスはないかとじりじりと動く王子たちを無視して、今度はポーラがマリアたちを先導する。
チャールズに引っ張られ……いや、訳が分からずおろおろしているチャールズをむしろマリアが引っ張り、馬車が用意された場所に出た。
「チャールズ。あんたが公爵と一緒に先に」
ポーラが再び指示を出す。セイラン人の護衛は御者席に乗った。
ポーラは自分たちに飛びかかりたくてたまらない王子たちに見せつけるよう、馬車に背を向けオフェリアに短剣を突きつけていた。
チャールズが先に乗り、ロープで軽く引っ張られながらマリアも馬車に乗った。
ポーラはゆっくりと後ろに下がり、一歩一歩慎重に後退して、馬車に乗り込もうとする――刹那、ポーラはオフェリアを突き飛ばした。
「出して!」
マリアがあっと思う間もなく馬車の扉が閉められ、ほとんど同時に馬車が猛スピードで走り出す。
ガラスがはめ込まれた窓から何とか外を見たマリアは、突き飛ばされて地面に倒れこんでしまったオフェリアと、急いでそれに駆け寄るヒューバート王子の姿を確認した。
ホッと大きく溜息を吐き、マリアは改めて席に座る。
――オフェリアが無事なら、もう何も心配する必要はない。
沈黙が続き、ポーラもマリアも涼しい表情で、互いに目を合わせることもなかった。
チャールズだけが気まずそうにちらちらとマリアやポーラを見、手にしたままのロープの端を弄っている。
「……どこへ行くんだ?」
「説明するつもりはないわ」
冷たく言い捨てたポーラに、チャールズはグッと黙りこむ。ポーラは言葉を続けた。
「説明する必要がないもの。あんたなら、どこへ向かってるか分かるでしょ」
チャールズに視線も向けずポーラはそう言ったが、彼女が顎で外を指すのを見て、チャールズは察しがついたようだ。
道を確認すれば、チャールズなら分かる場所――それで、マリアもすぐに分かった。
「……レミントン邸か?」
窓から道を見て、チャールズが呟く。ポーラは返事をしなかったが、マリアにはそれで十分だった。
乱暴なまでに馬を走らせ、馬車は王都の中心から外れた屋敷へやって来た。
ポーラは表情も変えずに馬車を降りて屋敷へ入って行くが、きょろきょろと周りを見回すチャールズの反応がすべてを物語っている。
ここは、レミントンの屋敷だ。
チャールズを連れ出し、マリアを人質に取ってまで、ポーラはここへ――。
こんなところ、一番に騎士たちが調べにやってくる場所なのに。王都を逃げ出すでもなく、港町を目指すでもなく……危険を犯してまで屋敷へ……。
ポーラは黙々と歩き、マリアたちをひとつの部屋の前へ連れてきた。チャールズが息を呑む。
……嘘でしょ。そんな。
思わずそんな言葉が、口をついて出そうになった。
チャールズの様子から察するに、この部屋がマスタールーム――屋敷の主人のための部屋。
つまり、ここにいるのは……。
「……やあ、チャールズ。酷い有様になっちゃったものだね。お互い」
――油断し過ぎた。チャールズは、すぐにでも始末しまうべきだった。
我が子に夢中になるあまり、相手に時間を与え過ぎてしまった。
マリアがクリスティアンと離れるのを惜しんでチャールズのことを忘れていた間に、彼は復活してしまった……そして、チャールズを助け出す計画を整えてしまった。
「伯父上……」
とうに涙も枯れ果てていたチャールズの瞳に、大粒の涙が溜まっていく。堪らず抱きつく甥を、リチャード・レミントンはしっかり抱きしめ返した。
「もうちょっとお手柔らかに頼むよ。すっかり逆転しまった……いつの間にか、おまえのほうが強くなってしまったんだね」
チャールズの最大の庇護者にして、マリアの最大の敵レミントン侯爵。
チャールズを追い詰める最後の一手はすでに打たれているというのに。侯爵の復活は、盤面をすべて引っくり返される恐れすらあった……。




