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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第七部02 最後の幕は上がり
233/252

逆襲 (1)


日差しはすっかり暖かくなり、エンジェリクは例年より少し早い春を迎えようとしていた。


ぽかぽかとした陽気に包まれながら、マリアは久しぶりにメレディスの絵のモデルを務めていた。

フランシーヌから使者が来て以来、嵐のように日々が過ぎて行き。ようやくホッと一息つけるようになった頃だった。


「モニカのことは、平民たちの間でちょっとした物語になってるよ。ある日お姫様になった女の子が、お城へ行って王子様と恋に落ちる……でも意地悪な魔女の呪いにより、王子様とは別れ離れ。そんな女の子のピンチをかつての幼馴染みが救い、二人は手に手を取って城から逃げ出して、めでたしめでたし……」

「いかにも平民好みな顛末だわ」


マリアは苦笑した。


「でもそれほどまでに、あの男爵令嬢の一件は世間に知られているのね」

「うん。元々平民だったから、モニカのことは平民たちのほうがよく知ってるぐらいだし。この物語もね、どっちかっていうと貴族批判というより、教訓話に近いんだ。お城へ行って王子様と恋に落ちた女の子は、だんだん優しい心を忘れて、思い上がった酷い女に成り始めるんだ。意地悪な魔女が現れるのも、彼女の我儘の末に自ら呼び寄せてしまったからで。欲張った女の子は意地悪な魔女にさらに強欲な願いをし、魔女は願いをかなえるふりをして彼女を醜い老女に変身させてしまう……王子に見限られ、あの女こそが魔女だと人々から糾弾されたところを幼馴染みが助けに来てくれて、少女は改心して呪いも解け、幸せになる……そういう結末さ」


意外と事実に添ったあらすじだ。

ただ大きく違うのは、助けに来てくれた幼馴染みは無残に殺され、少女も改心することなく命を落としたこと。きっとこの結末だったら、平民たちからは受け入れられなかっただろう。


「……チャールズ王子が処刑されてしまうって、本当かい?」


声を潜め、メレディスが尋ねる。

たぶん、主席判事である兄からこっそり聞いたのだろう。本当よ、とマリアが頷けば、メレディスは表情を曇らせた。


「こういう言い方はしたくないけど、たかが人を一人殺したぐらいで、一国の王子を処刑できるものなの?」


普通はあり得ない。ましてや、相手はすでに極刑が決まった死刑囚で、見つかったらその場で殺されていてもおかしくなかったような人間だ。

ただ、王子はそれまで積み重ねてきたものが多過ぎた。


「ヒューバート王子がチャールズ王子の尻拭いをさせられるのも、もうこれで三回目よ。近衛騎士隊に甚大な損害を与え、フランシーヌをのさばらせ、挙句の果てに公衆の面前で殺人――男爵令嬢のことだって、ヒューバート殿下が方々に動いてなんとか揉み消した。だから男爵令嬢殺害の罪に問われることはないわ。ただ、チャールズ王子はもうこれ以上自由にさせられないと、殿下は大臣たちに訴えかけただけ」


後始末に追われて様々なことを揉み消したヒューバート王子は、その対象にチャールズ王子も含めることを訴えた。

モニカのことは市井で大きな話題になっており、もうチャールズ王子を表舞台に出すことはできない。そうまでして庇うほどの人間ではなくなってしまった。

チャールズ王子の味方はいない。王も、思うところはあってももうチャールズ王子を庇えない……。


「そうか……権力闘争の果てに密かに王族が始末されてしまうというのも、たしかに昔からよくあることだね。ついにチャールズ王子がその対象に……。ところでマリア。なんだかいつもより顔色が悪いように感じるんだけど、大丈夫?」


メレディスは話題を替え、キャンバスから目を上げた。そして、明らかに大丈夫じゃない表情をしているマリアに気付いて目を丸くした。


マリアもお腹を押さえ、堪え切れなくなった痛みに顔を歪める。


「……朝からお腹が痛くて。ちょっともう、限界……」

「え、それって陣痛ってやつじゃ……ちょっ、マリア!?そんなところで意地張って痩せ我慢してないで、痛いなら痛いって言ってよ!」

「だって初めてだから、これが陣痛なのか分からなかったんだもん。喚いたところで痛みがおさまるわけでもないんでしょう」

「もー!!」


大慌てでメレディスは人を呼びに行き、マリアはお腹を抑えてうずくまったまま動けなくなってしまった。




扉の前でうろうろとしているホールデン伯爵の後ろを、犬のマサパンがうろうろとついて回っている。

ノアは溜息を吐き、少しは落ち着いてください、と声をかけた。


「そううろうろされると、私まで落ち着かなくなります」

「……静か過ぎやしないか」


ノアの忠告に返事もせず、伯爵が言った。


出産のために女たちはマリアと共に部屋に入り、男たちは――プラス犬のマサパンは外で待機となった。

メレディスからマリアの陣痛が始まったことを聞いた伯爵は屋敷にすっ飛んで来て……部屋から聞こえてくる医者の声で、陣痛が始まったどころかすでに子どもが出かかっているらしいということを知った。


――もっと痛がってください!危うく子が生まれることにも気付かないままでしたよ!

という、ナタリアの怒る声が聞こえたが、一向にマリアの声が聞こえてこない。


「出産というのは苦しいものではないのか?もっとこう……悲鳴とか、呻き声とか、聞こえてくるものだと思うのだが」

「さあ。出産したことがないので、私には何とも」


あったら怖いだろう。

いつもだったら即座にそう言い返してくるはずなのに、いまの伯爵はそんな軽口を返す余裕もないみたいだ。

ひたすら、マリアと生まれてくる子どものことだけ考えている。


とりあえず長身の男がうろうろしている姿は視覚的にも鬱陶しいな、と思いながら、ノアはそれきり黙ることにした。不安で落ち着かない伯爵の気持ちも、分からないではないし。


やがて、伯爵は足を止めた。

部屋の中から赤ん坊の泣き声が聞こえて来て……ドアの前にピタッと貼りつき、じっと立ち尽くしている――と思ったら、開いた扉に思いっきり顔を打ちつけていた。


「きゃっ!?まあ、伯爵様……!申し訳ありません!」


開けた扉をぶつけてしまったナタリアが、慌てて謝罪する。いいんですよ、とノアが首を振った。

あんなところに立っていたら、そりゃそうなる……。


「……生まれたのか?」


痛む顔を押さえながら、伯爵が恐るおそる尋ねた。ナタリアは満面の笑みで、はい、とはっきり頷く。


「おめでとうございます。玉のように美しい、男の子ですよ」




……という話をノアから聞かされ、マリアはクスクス笑った。


「そんなお茶目なヴィクトール様の姿を見られなくて、とっても残念だわ」


ノアもわずかに口角を上げ、普段からは信じられないような醜態を晒した伯爵を思い出して笑っているようだった。


「……伯爵。いい加減、マリア様にも抱かせてあげてはいかがです。ずっと独り占めして」


生まれた我が子――クリスティアンと対面するなり、伯爵は子を抱いて手離さず、いまも赤子をあやしている。マリアはそれを、愛しい想いで見つめていた。


「すまない。君を労わることも忘れていた」


まだベッドから起き上がれないマリアの側に跪き、伯爵が言った。伯爵に寄り添われ、マリアは身体を起こし、クリスティアンをその手に抱いた。


「良いのです……優しいお父様の顔をなさるヴィクトール様を見れて、私の苦労はすべて報われました」


マリアの腕に収まる小さな我が子……時折薄らと開く瞳の色は緑。マリアと同じだ。

生まれた途端、母親そっくりですと医者から言われてしまった。マリアはそこまで断言されるほど似ているのだろうか、と首を傾げた。


ただひとつ言えるのは、髪の色は明らかにマリアと違う。鳶色の髪を持つマリアに対し、クリスティアンの髪の色は金。母も伯母も妹も金髪。だからこの子が金色なのは、特におかしなことではないのかもしれない。

けれど……。




「可愛いー!ちっちゃいなぁ……クリスティアン、私が叔母ちゃまですよー!」


伯爵たちから遅れること約半日。

城からオフェリアとヒューバート王子、それに王までやって来た。


オフェリアは一目で甥っ子の虜となり、あれやこれやとアピールしている。

オフェリアがようやくクリスティアンを手離した後、王も赤子を抱き、愛しそうに目を細めて眺めた。


「会いに来るのが遅れてすまなかった」

「お気になさらず。お医者様からも叱られてしまいました。もっと早く痛がって、医者を呼びつけなさいと」


マリアが我慢し過ぎたせいで周囲もなかなか異変に気付けず、医者が間に合わないところだったと。

王たちが間に合わなかったのは当然だ。出産の予告どころか、報告を突然受けることになったのだから。


「母親に似て美しい子に育ちそうだ」

「やっぱり陛下も、私に似ていると思います?自分では実感がわかないのですが」


クリスティアンを見つめる王の目は、何かを懐かしんでいる様子があった。たぶん、最初の妃マリアンナとの間に生まれた王子のこと……。


若かりし頃のホールデン伯爵は金髪。グレゴリー王も、若い頃は金髪だった。

つまりクリスティアンの金の髪は、父親のものを受け継いだ可能性がある。厄介なことに、どちらの男からであっても不思議ではない。

いっそ、髪の色まですべてマリアに似てくれたらよかったのに。そうしたら悩まずに済んだ。この子の髪を見るたびに、父親は誰なのか、マリアは常に問いかけられ続けるのだ……。


「しばし身体を慈しみ、完全に回復したら城へ参上するとよい。クリスティアンの乳母は、余が信頼できる人間を選んである。何も心配せず、療養に努めよ」


ぎくりとなるのを、マリアは必死でこらえた。

――やっぱり、そうなるか。


当然だ。王は自分の子だと思っているのだから。

王の子が……それも男の子が、城へ連れて行かれないわけがない。王に一切の悪意はない――分かってはいるが、マリアの中で激しい嫌悪感が生まれてしまうのも仕方のないことだと思う。


ヒューバート王子が、やんわりと父王を諌めた。


「父上。生まれたばかりの子を母親から引き離すなど。そのようなことをしたら、マリアやクリスティアンから生涯恨まれてしまいますよ」

「む……」


王はマリアを見、王子の指摘に顔色を変える。


「……そうだな。配慮を欠いていた。余もいささか浮かれ、そなたへの気遣いを忘れておったらしい。許せ」


王があっさりとマリアの腕にクリスティアンを返してくれて、マリアは密かに胸を撫で下ろした。


この場はヒューバート王子の取りなしのおかげでしのげたが、いずれ王はクリスティアンを城へ連れて行ってしまうだろう。

こればかりは口先で誤魔化すわけにもいかない。遠くない内に、王にもはっきり示さなくてはならない時がやって来る。


だがいまは……。


「お待たせ!クリスティアン、叔母ちゃまからのプレゼントだよ!」


クリスティアンに贈るプレゼントを持って、オフェリアが戻ってきた。

繊細な刺繍が施されたベビードレス。エステルと一緒に作っていた……。


「私の大切なお友達と一緒に作ったんだ。気に入ってもらえるといいんだけど」

「クリスティアンも喜んでるわ」


贈られたベビードレスに着替えるクリスティアンを、王もにこやかに見つめている。

……きっと、いまの王はチャールズ王子のことも忘れているに違いない。


待ち焦がれていたマリアの子との対面。それが王の関心を奪う最大の切り札であることはマリアも予測していた。

いまだけは、王もチャールズ王子を気にかけることを忘れてしまっている――ヒューバート王子の主張を押し通すのなら、いましかない。


――子が生まれた日に、考えるのは目障りな人間の消し方だなんて。

マリアは自嘲した。

母親としての幸せを噛みしめるべき時に、我が子を無視して他のことばかり。


だがマリアも気付いていなかった。愛しい赤ん坊に心奪われているのは、伯爵や王だけではないことを。

マリアもまた、クリスティアンに会えた幸せに浸っていたいと、無自覚なまま警戒を怠っていた。


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