落ちる (2)
「バレル商会が取り潰されることになった」
ガーランド商会に来ていたマリアは、そんな話を伯爵から聞かされた。
「令嬢側の非が大きいとは言え、王族にも連なる大貴族を死に追いやったとあっては、致し方ない。もともと臆病な馬だったのに、無理やり乗り込んだ挙句、思い通りにならぬと鞭打ったそうだ。そんな扱いをする人間に、馬を売るのが悪い」
「お気の毒ですね。価値もわからぬ人間に当たって、馬たちが本当に可哀想」
「ほとんどはガーランド商会で引き取ることになっている。訓練すれば、なんとか売れる程度にはなるだろうと。マルコがそう強く主張してきてな」
「マルコ……。ああ、チェザーレさんですね。馬番の」
「令嬢を死なせてしまった馬は、さすがにいわくつきになったため売り物にはできないが。商会の馬として、働いてもらうそうだ」
良かったです、とマリアは相づちを打つ。
無礼な人間に反撃したぐらいで殺されるなど、本当に馬たちが気の毒だ。
「話は変わるが、マリア、しばらく身の回りに気を付けたほうがいい」
伯爵の声色が変わった。
「娘を喪った公爵夫人が、かなり危険な状態らしい」
「おじ様は、悲しみに暮れ取り乱していると話していらっしゃいましたが」
「やはり、彼は身内が絡むと凡骨だな。夫に公爵家を乗っ取られるという被害妄想が酷くなり、攻撃性も悪化している。君と公爵の関係に気づくのも、もはや時間の問題だろう」
それはむしろ望むところだ。ただ、オフェリアを巻き込むわけにはいかない。
「オフェリアとナタリアを、しばらく商会で匿っていただけませんか?」
「それは構わないが、ナタリアのほうを、か?ベルダではなく」
「ナタリアは、本来は心優しく真面目な子なんです。私のような我が強くプライドの高い人間ではなく、おおらかで朗らかな主人に仕えたほうが、あの子にとっては幸せだったでしょうね」
「ナタリアが聞いたら泣くぞ」
伯爵に苦笑されてしまい、マリアも笑った。もちろん、ナタリアにはこんなこと言えない。
ナタリアも、なんだかんだでお嬢様育ちだ。
侍女として働いてはいたが、セレーナ家は当主が優秀で寛大であったため、苦労というものはほとんどしていない。古参の者たちも優秀で、主人のためであってもまだ若いナタリアの手を汚すなどということは許さなかった。
だから、真っ当な感性に育ったナタリアが、マリアの行動を理解しきれないのは当然のことだ。拒否反応を示す彼女が人間として正しい。
――主人の行動を受け入れられない自分の不甲斐なさを、嘆く必要などないのに……。
「ベルダの誕生日パーティーをするから、商会の皆に協力してもらって、内緒で準備をするように、とオフェリアたちには言いくるめます。ベルダなら気付かぬふりをして、私の思惑通りに動いてくれるはずです」
苦労してきたベルダは、場合によってはマリアよりよほど優秀だ。
あの子には、清濁併せ呑みながらも決して自分を見失わない芯の強さがある。オフェリアを好いてくれているようだし、妹を守るためなら承諾してくれるだろう。
伯爵との話を終え、マリアはリースたちのいる事務所に戻った。
正式な再雇用はされていないのだが、マリアは当たり前のように従業員として扱われてしまっている。
伯爵がマリアたちのために使った金額を考えれば、それぐらいの労働はすすんで引き受けてちょうどいいぐらいだから、気にしないけれど。
マリアが仕事に戻ると、ほどなくして、マサパンを連れたおじたちが帰って来た。
「すいませんねえ。元気な犬だから、大変だったでしょ」
戻って来たおじに、ポールが声をかけた。
またマリアと部屋にこもろうとしたおじを、気分転換と称して今回ばかりはマリアが外へ引っ張り出した。今後のことを相談するためにも、伯爵と会わないわけにはいかない。
伯爵と会うと言えばおじの機嫌を損ねてしまうので、仕事をするからと言って商会へ来た。
ちょうどマサパンの散歩に行こうとしていたポールと出会い、おじと、オフェリアたちが代わりに引き受けた。
「いいえ。大人しくて賢い良い子でした」
「なにっ」
おじの言葉に、ポールが驚いてマサパンを見る。
「おいお前、どういうことだっ。俺のときは言うことなんか全然聞かないで、散々人を振り回してたじゃないか!」
「大丈夫ですよ。ポールさんだけでなく、ここにいる従業員みんな同じ目に遭ってます。そいつ、たぶんクリスたちだけには従順なんですよ」
テッドがフォローした。マサパンはただ愛くるしい瞳をマリアに向け、尻尾を振っている。
「男性の姿をしたマリアは、私より頼りがいがあってかっこいいね」
マリアの姿を見て、おじは困ったように笑いながら言った。
こういった反応は、おじだけではなかった。マリアは、この姿をしていると女性にもやたらと関心を寄せられるようにもなっていた。
オルディスの屋敷へ来たときも似たような姿ではあったが、ノアからのお下がりが、キシリアにいた時より良いものになったからだろうか。
ちなみにベルダからは、色気がついて倒錯的な雰囲気がプラスされたからですよ、と力説されてしまった。
王都で過ごしたおじは、いとこを死なせた罪悪感から少しばかり解放されたようだ。
オルディスに帰る日には隈も消え、顔色もずいぶんよくなっていた。
「またすぐにこちらに来るよ。馬を売った商会のことで、ちょっと揉めていて。実は裁判沙汰になりそうなんだ。だから今度は、オルディス公爵として王都に召喚されて来ることになると思う」
おじを見送るかたわら、訝しげな顔をしたベルダから、マリアは密かに声をかけられた。
「マリア様。あいつ。旦那様が乗ってた馬車の御者。最近。屋敷の周りをうろついてたやつですよ」
「ノア様に報告してた不審者?」
「やっぱり、マリア様の耳にも届いてたんですね。正体がよくわかんないから、ノア様に先に相談したんです。よくわからないのに相談して、マリア様たちを怖がらせるのもあれですし……ノア様に言えば、心配性の伯爵が、マリア様のためになんとかしてくれるかなって」
ベルダは、悪戯が見つかった子どものように笑った。
その日の夜から、オフェリアとナタリアはガーランド商会の従業員寮に泊まり、屋敷はマリアとベルダ、それから伯爵が手配してくれた警備の者たちだけになった。
警備の者は屋敷内には立ち入らず、人目につかないよう外を見張っている。
伯爵がいる間はノアもいるのだから、余計な人間はいないほうが彼もやりやすい、といった理由で屋敷内には入れなかった。
ノアからは、伯爵がマリア様に他の男を近づかせたくないから、自分にすべてやらせようとしている、と言われた。
不審な御者の正体は、すぐに判明した。
オルディス公爵を公爵領に送ってから数日後、男は王都に戻り、安っぽい酒場で浴びるように酒を飲んでいた。
「羽振りがよろしいのね。ご一緒させて頂けるかしら」
大きく胸元を開けた服、酒の臭いにも負けぬ香水を振りかけた女は、一目でそれとわかる人種だ。こういった酒場では珍しくない。
男は声をかけてきた女を舐めるように見つめ、にやりと笑った。
――顔も身体も一級品だ。
「へへ……いいぜ。一儲けしてきたところでな。気分がいいんだ。お前にも分けてやるよ」
「まあ嬉しい」
女が隣に座れば、男はすぐに新しい酒を注文する。安酒場ではあるが、ずいぶん気前のいいことだ。
置かれたジョッキを片手に乾杯すれば、男はあっという間に飲み干して次の酒を注文した。
「本当にいい儲けだったみたいね。そんなに良い話なら、私にも教えてほしいわ」
女は男の腕をつかみ、擦り寄せるように身体を密着させる。豊かな胸の谷間を凝視しながら、男は次の酒をあおった。
「どこぞの貴族の奥方が、旦那の浮気を疑って俺にあとを尾けるよう言ってきたのよ。いやぁ、本当にボロ儲けだったぜ。男のケツ追いかけるだけで、こんなにもらえるなんてよ。へへ……これからはこういう稼ぎ方もありだな。御者やってりゃ、お貴族様の秘密を知るなんて楽勝よ」
「残念だけど、あなたにはその仕事は向いてないみたい」
「あ?なんでだよ?」
不意に男が顔をしかめ、ドサリとテーブルに突っ伏す。女は、あらあら、と呆れたような声を上げた。
「もう酔ってしまったの。安い酒はこれだから駄目ね。そこの人、酔っぱらいを放り出すのに手を貸してちょうだい」
他の客に引きずられながら男が出ていくのを、気に留める者はいなかった。
しばらくして、男がいたテーブルにわずかな血痕が付着していることに客の一人が気づいたが、大した騒ぎにはならなかった。
酒に酔って喧嘩など日常茶飯事。流血沙汰は珍しくない。
見つけた客も、ちゃんと掃除をしとけと笑い、返す店主も、キリがないんだ自分らでやれと掃除道具を投げて渡す始末であった。
「肝心の浮気相手の顔も覚えていないようでは、密告屋には向かないわ」
ズタ袋に放り込まれる男を見ながら、マリアが言った。
そのまま荷車に乗せると、ノアが男たちに指示を出す。男たちに引かれた荷車は、どこかへ行ってしまった。
「見事な手際ね。いつ刺したのか、私にも分からなかったわ」
あの男の背後を通り過ぎた時ノアが始末する、という手筈は知っていた。
しかし、実際にあの男が倒れるまで、マリアにはノアがいつ手を下したのかも分からなかった。
「首にナイフが刺さっていても、誰も気づかないなんてことあるのね」
小さなナイフで背後から首を一突き。悲鳴を上げる間もなく、あの男は絶命した。
男は客に扮したノアによってすぐに連れ出され、殺人が起きたことは誰も知らないまま――酒場からは賑やかな声や物音が聞こえてくる。
「何も、あなたがやらずとも」
「あの男の正体を、どうしても自分で確かめたかったのよ」
やはりあれは伯母の使いだった。
おじと自分の関係を、伯母に密告してくれるのは助かる。これで伯母が逆上するなら、マリアの願った通りの展開だ。
だが、周りをずっとうろつかれては困る。依頼された件の密告で満足すればよかったものを、あの男は欲をかいてマリアたちをまだ探るつもりだった。
ならば始末するしかない。伯爵は、マリアの頼みを快く引き受けてくれた。
――予定になかったマリアの参加に、ノアからは溜息をつかれてしまったが。
「助かったのは事実ですが――別途女性を雇うとなると、その人の始末も考えないといけませんし――その姿を伯爵が見たら拗ねますよ。自分のためには着てくれないのに、他の男のために着るなんて、と。替えの服を用意しているので、馬車で着替えをしてきてください」
ノアに言われ、マリアは不満そうに顔をしかめる。
「この恰好のどこに魅力を感じるのやら。あの男も胸ばかり見てたわ」
「女性の豊かな胸は、世の男たちの浪漫です」
「伯爵やノア様は、ご自分の胸を見ていれば十分じゃないかしら?私より大きいでしょう」
「……固い胸筋に浪漫は感じません。例外はいるかもしれませんが」
「なら私はその例外かも。胸筋より背筋派だけど」
マリアは着替えを受け取り、ノアが用意してくれた馬車に乗り込んだ。
「本当に、いま着替えないと駄目?香水の臭いが嫌なの。帰って、お風呂に入ってから着替えたいわ」
「屋敷に戻って入浴してから、改めてまた着替えればよろしいんです。伯爵は、あなたに着せたい服があり過ぎて困っていますよ」
馬車の窓にカーテンを引き、いつものようにノアのお下がりを着る。
上着に袖を通すと、カーテンを少し開けて、外にいるノアを見た。
「ノア様も、たまには身体を洗ってあげましょうか?キシリアにいた頃も、伯爵ばかりでノア様には一度もしてあげなかったもの」
「……いえ」
マリアの提案に、かなりの間沈黙してからノアが答えた。
「さすがに伯爵の反応が恐ろしいので、遠慮しておきます」
「即座に断られると思ったのに。もしかして悩んだ?」
「割りと。なかなか苦悩させられる提案でしたので、今後は控えて頂けると助かります」
何を考えているか分からないポーカーフェイスの見た目なのに、相変わらずノリはいい男だ。
「ノア様の背筋も素敵よ。伯爵には負けるけど」
「いずれ勝ちます――と、言い切れないところが辛いです。一生勝てる気がしません」
「でしょうね。私も、ノア様も。あの人の背に庇われ、いつもその後ろ姿を見ている状態だもの。勝てるはずがないわ」
マリアが微笑んで言えば、ノアもかすかに笑った。
「なるほど。たしかに、勝てないのも納得です。あと、あなたが背筋に浪漫を感じることも」
「理解していただけて嬉しいわ」
マリアが靴を履き終えると、ノアは御者席に座り、馬車は屋敷へ向かって走り始める。
マリアはもう、酒場で起きたことなど忘れていた。
いまマリアの頭を占めるのは、伯母がどのような行動に出るか――ただそれだけだった。




