追い詰める (1)
新しい年を迎えたエンジェリクは、おめでたい空気に包まれていた。
平民たちはもちろん、貴族たちも。王女や高貴な女性の死が立て続いているので表面上は喪に服しているが、いよいよ王太子が決まる――そのことに喜んでいる。
ほとんどの人間が、長い間ずっとヒューバート王子の存在など忘れ去って別の王子を称えていたという事実は都合よく忘れ去り、王太子の内定を歓迎していた。
「王太子内定、おめでとうございます。お披露目は、春を待って行われるとか」
まだ公に発表されていないが、王がヒューバート王子を王太子に指名したことはすでに側近たちに知らされており、貴族たちも周知の事実となっている。さっそくご機嫌取りに飛んでくる連中の相手をし続けて、ヒューバート王子もいささか疲れているようだった。
「そう、春になったら正式に王太子になる。春……つまり、この冬を乗り越えないといけない」
苦笑する王子に、マリアは言葉の意味を悟った。
ついにイヴァンカの海賊討伐に向け、王子の出陣が決定した。いまさら、ただのならず者相手にヒューバート王子が負けるとは思わないが、やはり遠い異国へ赴かなくてはならないということに、不安もある。
「討伐に出てしまえば、僕は城を空けることになる。まだチャールズは王子のままだというのに」
ヒューバート王子が言った。
「フレデリク地方の領主にして城から追放してしまうはずが、当てが外れた。貴族たちが強く反対している」
「まあ。チャールズ王子を擁護する声が、まだそれほどまでに強いのですか?」
レミントン侯爵が健在であればそれも考えられるが、チャールズ王子を守ろうとする人間がいるだなんて――それも、ヒューバート王子の提言に逆らえるほどの地位を持って。
「違う、逆だ。みなチャールズ王子を見捨てている。それがかえってチャールズのフレデリク領主就任に対して反対を生み出した。フレデリク地方の領主に任命されることは王族にとっては遠流……だが武力に自信のある貴族にとっては、またとない出世のチャンスだ。フレデリクの領主となれば、当然辺境伯に格上げされる。それを、もう何の期待も力もないチャールズ王子に横取りされたくないのさ」
王子の説明に、マリアもちょっと考え込む。
そういった方向での反対が出るのは予想外だった。チャールズ王子が侮られ過ぎて、彼をその地位に就けることももったいないと――。
「ならば、海賊討伐は丁度良い機会かもしれませんね。武力に自信があるのなら海賊ぐらい何の問題もないはず。そこで力を示して、フレデリク領主の座を射止めるよう煽ればよいのです」
マリアがにっこり笑って言えば、王子は困ったように笑う。
「また何か、悪いことを考えているのかな?」
「ええ。恐らく今回は殿下も、私の企みを聞いたら戦慄しますわ」
のし上がるために、様々な人間の命を踏みつけてきた。今度もまた犠牲を作り出していく――グレゴリー王やレミントン侯爵のように忍耐強くないマリアには、独自のやり方で厄介事を片付けさせてもらおう……。
念のためにララを護衛として連れてきたが、チャールズ王子が暮らす一角は人の気配すらなくて。以前ほど警戒する必要はないと思っていたララも、さすがにこれには拍子抜けしている。
「王妃や王女がいなくなったとはいえ、人がいなさ過ぎじゃねーか?」
「そうね。いくらなんでも誰もいないというのはちょっと」
まだチャールズ王子が暮らしているのだ。
世話する人数が減ろうとも、女官や親衛隊の仕事がなくなったわけではない。だがここに来るまでに人とすれ違うことはなく、マリアが見る限り無人と化していた。
チャールズ王子の部屋をノックする。しばらくの静寂の後、そっと扉が開いた。
開いた扉の隙間から王子が顔をのぞかせた――その姿はみすぼらしい。よれよれの衣服……それも、おおよそ王子には相応しくない軽装だ。部屋に入ってみれば、掃除や手入れが成されていないのは明らかで……部屋の主と同じく、世話をしてくれる人間がいないのだろう。
どこか媚びるような視線を向けて来る王子に、マリアは優しく微笑んだ。
「酷い有様ですね。部屋も、チャールズ様も。女官たちは何をしているのです」
「……だんだん人数が減っていった。ここ数日は、食事を届ける以外には誰も来ない」
見てみれば、部屋の片隅に汚れたままの食器が放置されている。
あの王妃の女官だ。風向きが悪くなれば逃げ出す程度の連中ばかりなのは考えるまでもない。
ジュリエット王女が王妃の不義の子だった――ならチャールズ王子も。そう怪しむ人間も多い。そんな噂話を信じて王子の世話を勝手に放棄したのだろう。女官としての給金は受け取っているだろうに、面の皮の厚い奴らだ。
「下らない噂を真に受けてお仕事を勝手に投げ出すような人間を、この城に置き留めるわけには参りません。彼女たちはクビにして、私のほうから新しい女官を陛下に推薦しておきますわ」
城の女官程度の人事なら、もはやマリアの一存でどうにでもなる。
妹のオフェリアは王子妃――この城で唯一の女となり、マリアの権限に口を出せる人間もいなくなった。
チャールズ王子をマリアに依存させるためにも、きちんとした女官を手配しておこう。王子の動向を見張り、マリアに情報をもたらしてくれる人間を堂々と送り込めるのなら、それぐらいの手間どうってことはない。
「このお部屋も、信頼できる人間に頼んですぐに掃除させましょう」
「人を雇うのなら!」
突然、チャールズ王子は大きな声を出してマリアに詰め寄って来た。その迫力に、マリアも思わず目を丸くしてしまう。
「レミントン家の屋敷に送ってくれ!伯父上の世話をしてくれる者がいないのだ……!」
リチャード・レミントンは、まだ死んだわけではない。重傷で、意識も回復しないが、それでも生きている。看護してくれる人間がいなければ、たちまちに……。
「承知いたしました。お医者様をお屋敷に送ります。リチャード様のことはご安心を」
チャールズ王子は安堵したように笑い、マリアの前に跪く。力が抜けて、自分で立っていることもできないようだ。崩れ落ちるように膝をつく王子の頭を、マリアは優しく撫でた。
「母上にジュリエットまでいなくなって、僕は本当に一人ぼっちになってしまった……。もう、僕の居場所なんてどこにもない……フレデリクの領主になることも貴族たちが強く反対している……僕なんかに重要な地位を取られたくないと、そう話しているのを聞いた。僕が聞いているのも分かっていて、そんな話をしていたんだ。まるで僕に聞かせるように……」
チャールズ王子が貴族たちに侮られるのも、もとをたどればそれまでの王子の言動にも原因はある。
強い王であることを重要視し、これまで貴族を軽んじるような発言を繰り返してきた。
自分が窮地に追いやられた途端、頼られるなんて御免だ――そう考えて王子に背を向けている貴族も少なくはない。
「マリア、僕はどうしたらいい?」
そして、この状況になっても自分で考えることをしない王子。マリアは内心苦笑していた。
少しは打開策を、自分で考えてみようと思わないのか……おかげで何もかもマリアに都合よく事が進んでいるが、自分で動かない限り、良くなることなんて有り得ないのに……。
「チャールズ様、ヒューバート王子が海賊討伐に赴くことはご存知ですか?」
「海賊……イヴァンカ行きのことか。そんな話があることは知っていたが……」
「殿下もそれに参加なさいませ。そこで手柄を立てるのです」
チャールズ王子は目を見開き、マリアを見つめる。自分を殺す気かと、そう訴えかけるように。
「手柄を立てると言っても、海賊を退治して来いということではありません。あくまでヒューバート王子の手伝いです。軍事行為に意欲的に参加し、フレデリク領主ふさわしい力量をお見せすれば、貴族たちも反対しなくなりますわ。領主に必要なことは自ら剣を取って戦うことではなく、兵士たちを戦に専念させること」
マリアの説得に心動かされながらも、王子は目を泳がせていた。
直接戦わなくていいと言われても、危険な場所へ行くことに変わりはない。それも、戦闘が絶対に避けられないと分かっている場所へ。
尻込みする王子の顔にそっと手を伸ばし、マリアは彼に口付けた。チャールズ王子は一瞬動揺し、それからマリアを抱き寄せる。離れそうになるマリアを引き止め、チャールズ王子も自らマリアを求めた。
「大丈夫です。チャールズ様には成し得るだけの力があります。狩りをなさっていた時、あんなにも的確に従者たちに指示を出していたではありませんか。まさに、人の上に立つに相応しいお姿でしたわ」
以前、チャールズ王子の狩りのお供をした時。
獲物を追い詰め、状況を判断し、適切な指示を出す。マリアから見ても、あの時の王子は有能な主人であった。
彼もまた、彼が尊敬する王にも匹敵するほどの能力は備わっていたのだろう……隠された、彼の実の父親と同じように……。
「……分かった。海賊討伐に、僕も名乗りを挙げておく」
「それがよろしいですわ。エンジェリクの海軍は世界最強の座を争うほどの力を持っているのです。海賊ごとき、負けるはずがありません」
マリアが言えば、王子はようやく納得したようだ。
甘えるように身をすり寄せて来る王子を、マリアは抱きしめた。
チャールズ王子も海賊討伐に一緒についていく。これで、ヒューバート王子不在の間に余計なことをされる心配もない。
マリアの狙いはそれだけでなく――。
「チャールズ様、少し力を緩めて頂けませんか?お腹が苦しくて……。どうか、いまばかりは優しく……」
いままでずっと、マリアのことを無視して自分の思うがままに振る舞っていたチャールズ王子が、初めてマリアを労わる様子を見せた。
それだけでなく、すまない、と謝罪の言葉まで。
「……その子は、僕にとっても弟か妹だ。危害を加えるつもりはなかった――もう、誰かを喪うのは嫌だ……」
その思いを、もう少し早く……もう少し、他者へ向けることができていたのなら。きっとチャールズ王子も、ここまで孤独ではなかっただろう。彼のそばに、それでも残ってくれた人がいたはずだ。
確かにマリアは、チャールズ王子を利用する悪女かもしれない。
そんな女しか彼のそばに残っていないのは、チャールズ王子自身が誠実な人たちを追い払ってしまった結果でもあるのだ。




