-番外編- エンジェリクの王
「パトリシアよ。そなたにはプライドというものがないのか。人々がそなたのことをどのように噂し、軽んじているか、気付いておらぬわけではなかろう」
彼女には最初から何も期待していなかったが、それでも忠告せずにはいられなかった。
パトリシア・レミントンを王妃にする――憐れな王妃を見捨ててこんな女を愛妾にした時点で、グレゴリーの評価は地に落ちた。
諸悪の根源であるパトリシアに評価の挽回を期待しても無駄。そう分かってはいたのだが、見て見ぬ振りもできぬほど、パトリシアは愚かで、浅はかで。
陰で自分を嘲笑する人々が見えぬはずがないだろうに……それでもなお、上辺だけの誉め言葉に彼女は微笑む。
……なぜ、という思いもあった。
「人が陰でなんて言ってるかなんて、気にしませんわ。だって彼らにできるのは、せいぜい陰でコソコソ言い合うだけでしょう。それで私をどうこうできるわけじゃないわ。だって私は王妃だもの」
馬鹿か。
そう吐き捨てたくなるほどの返事に、グレゴリーはただ顔をしかめた。
しかしパトリシアの笑顔は本物だ。どこまでも……自分の幸福を信じて疑わない。
「名誉なんて、何も幸せにしてくれないじゃない。マリアンナ様が良い例だわ。彼女を慕う人はいまも多いけれど、それが彼女にとって何の役に立つというのかしら。死んでしまったら、名誉も何も意味がないのよ。生きている間が幸せなら、それでいいじゃない。私が死んだ後でどんな悪口を言われたって構わないわ――どうせ私の耳には届かないのだから」
グレゴリーは息を呑み、忌々しい思いで踵を返す。
もうこの女と話をしていたくもない。自分は……この女が大嫌いだ。
乱暴な足取りで長い廊下を歩く――とにかく、一人になりたい。誰の目も気にすることのない場所へ……。
自室に逃げ込み、大きく息を吐く。怒りで手が震えていた。
――余は、王なのだ。
必死にそう言い聞かせ、平静を取り戻す。
王は、好きだとか、嫌いだとか、そんな人間のような感情で動いてはいけない。
ああ、なんて……。
「……なんと下らぬ。あの女に嘲笑われるのも、当然か」
部屋の真ん中にある長椅子に腰かけ、顔を上げる。
視線の先には、愛しい人たちの肖像画。
いつまでも美しく、色褪せることのない想い人。グレゴリーに、王になることを決意させた女性――マリアンナ。
王になどなりたくはなかった。
傲慢で独善家な父王のせいですでに国の均衡状態は危うくなっており、グレゴリーの即位前から、王の足元はぐらつき始めていた。それを引き受けなくてはならない絶望感……それでも。
マリアンナを、エンジェリクで至上の女にできる。政略結婚ではあったが、その相手に彼女が選ばれたことはグレゴリーにとって最高の幸運だった。
彼女が支えてくれるなら、自分も、彼女の隣に並び立つにふさわしい男になろうと心に決めた。
――しかしそんな夢は、儚く消え去った。
マリアンナはグレゴリーのために子を生み、それが原因で命を落とした。気も狂いそうなほどの喪失を埋めてくれたのは、マリアンナによく似た我が子の存在。
せめてこの子だけは、と改めて心に誓った。
そのために、即位と同時に新たな妃を迎えることも了承した。王太子妃のまま亡くなったマリアンナに王妃の位を授ける代わりに、次の妃を。
マリアンナでなければ誰でも同じ。そう思い、最大限に自分の婚姻も利用した。
……そして気付けば。
自分は今日もまた、一人で玉座に座る。隣には誰もいない。
持ち主の権威を誇るような、荘厳な椅子。その迫力に感嘆の息を呑み、憧れの眼差しを向ける者も少なくはないだろう。
だがグレゴリーには、この椅子の何が良いのかちっとも分からなかった。昔から。一度たりとも。
もっと座り心地の良い椅子があるだろうに……派手なばかりで、座る人間のことを何も考えていない。
肘掛けに手を伸ばす。置かれた自分の手をじっと見つめ……刻まれた皺に、老いを痛感する。
大きくため息をこぼし、誰に言うでもなく一人呟いた。
「余はなぜ、王であることにこだわるのだろうか」
「あら。そんなこと決まってるじゃありませんか。エンジェリクで最高の男性から寵愛をいただく――その名誉を、私に与えるためですわ」
聞こえてきた声に、目を瞬かせて振り返った。
いつの間にか、マリアがそばに来ていた。
いや、最初から一緒にいたのかもしれない。自分の思考に沈み込んで、彼女のことを忘れていた……。
グレゴリーが自分のことに夢中になっていても、彼女は寄り添ってくれるから、ついそれに甘えて。放ったらかしにしていたバツの悪さから、グレゴリーは笑った。マリアも、悪戯っぽく笑う。
「まったく、そなたは……。抜け抜けとよく言う」
咎めるような台詞だが、不遜なマリアの言動を諫める気はなかった。
こうやって軽口を言い合えるのは楽しい。そんなことも、もうずっとできなくなっていたから。
彼女に向かって手を差し出せば、当たり前のようにマリアはその手を取る――それが何を意味するのか理解して。
私室には、人を立ち入らせないようにしていた。もちろん掃除や自分の身の回りの世話をするために入って来る人間はいるのだが、できるだけグレゴリーが一人で過ごせるようにしていた。
息子のエドガーだけはよく招き入れていた。
誰にも邪魔されずに、父と子として過ごすことができる場所だから……その思い出を汚されたくなくて、人を入れさせなかったのはある。
ここにいる間だけは、王であることを忘れていたかった。
「マリアンナは、こんな男に嫁いで幸せだったのだろうか」
大きくなったマリアの腹に耳を当てながら、グレゴリーはぽつりと呟いた。
マリアと時間を過ごしながら他の女の話題を出すなど、デリカシーに欠けることなのだが……マリアンナの話をすることを、マリアが許してくれるから。グレゴリーの思い出話を、優しい笑顔で聞いてくれるから。
本当に、彼女はよく自分を甘やかしてくれる。
「マリアンナ大伯母様は……性格のほうは、私と似ていたでしょうか?」
マリアに尋ねられ、グレゴリーは生前のマリアンナのことを思い出した。
「うむ……そうだな。よく似ていると思うぞ。おっとりした印象に反して我が強く、婚約者でもあり夫でもあった余に、容赦のない一面もあった」
オルディス家特有の緑の瞳と、耳を傾けたくなる優しい声はマリアと同じ。それに、中身も結構似ている。
聖母のような外面に対し、頑固で、意外と気が強くて……。
「では、グレゴリー様がお嘆きになることなど何もありませんわ。私と同じだったというのなら、マリアンナ様もきっと、自分の運命は自分で選ぶ――そんな女性だったのでしょう。自分で選んだことに、後悔などありません。グレゴリー様の妃となることは、マリアンナ様ご自身の望みだったはずです」
そう言ってマリアは微笑み、自分の腹に耳を当てているグレゴリーを優しく撫でる。
こうしていつも、マリアはグレゴリーが欲しているものを与えてくれる。
柔らかく心地の良いぬくもりと、グレゴリーが望む言葉。愛する妃マリアンナと、我が子エドガーを喪ってから、グレゴリーから遠ざかっていたもの。
「……余は、パトリシアが憎い。すべての原因が我が父にあることは分かっている。彼女はただ流されるまま――パトリシア自身が望んで選んだことではないと、そう理解していても……マリアンナに授けたかった王妃の称号を横取りしたあの女が……」
パトリシアに対する恨み言を、誰かに話すのは初めてだった。
自分でも言ったとおり、いまの状況はパトリシアが望んだものではない。自分を取り巻く環境に流され、気付けばその掌の上に王妃の冠が転がり込んできただけ。
そうと分かっていても、王妃としての自覚もなく、責務も果たそうとせず、王妃の称号を戴く女に、腹が立って仕方がない。マリアンナですら、王妃としての誉れを受けることができないままその生涯を終えたというのに――。
「憎らしいことに、あの女の言い分にも一理あると思ってしまう自分がいる。名誉のため、矜持のため……そんなもののために自分を律し、苦難の道を進む……なるほど、パトリシアが鼻で笑うはずだ、と」
名誉もプライドも、死んでしまったら何の役にも立たない。人からどう思われようと、自分のしたいように生き、恨みも嘲りも無視して自分の欲望に正直に――自己中心でなんと愚かな、と思う一方で、羨ましさもある。
……自分には、他人からの評価などどうでもいいと切り捨てることはできない。
「そうですわね。パトリシア様のおっしゃることも間違いではありません。名を惜しむよりも、実利を取る……その生き方が間違っているわけではありませんもの。ただ、パトリシア様のような地位にあって、そんな生き方は許されぬと思いますが」
「その通りだ。そんな女を王妃に据えたのは誰かと言われればそれまでだが」
あるいは。
もしかしたら自分は、言い訳がしたいのかもしれない。
ジゼル王妃とヒューバート王子を蔑ろにしてまでパトリシアを近くに置いておいた――父の尻拭いをさせられた、仕方のない判断だったと自分を正当化して。そうまでして与えた王妃の地位だから、少しはまともなこともして欲しいと……。
「人によっては下らないと笑われるものでも、それにこだわらず生きられない人間もいるものです。私も、名などどうでも良いと捨て置くことはできませんでした」
ふふ、とマリアが笑う。
「そうして意地を張って生きていたからこそ、私はグレゴリー様から寵愛を頂ける立場になれたのですわ。そんな女もいますから、パトリシア様のお言葉にそう囚われず……」
グレゴリーの頭を撫でていた手が、するりと頬に伸ばされた。
促されるまま彼女を見上げれば、優しくも美しく、妖艶な笑みを浮かべている。
「グレゴリー様ったら。さっきから、私がいるというのに他の女性のお話ばかり。私、嫉妬で気が狂いそうです」
「抜け抜けと」
グレゴリーも笑う。
マリアに他に男がいること、もちろん知っていた。
この年齢不相応な色気が、男なしで身に着くはずがない。嫉妬で焦がれる想いもあるが、同時に優越感もある。
……例えどのような男がいても、マリアに王の手を払い退けることなどできないのだから。
「む。いま、動いたな」
マリアの腹から聞こえた胎動に、グレゴリーは耳を澄ませた。
「もう産み月が目前ですから。お腹もすっかり重くなって」
「そなたに似ると良いな。余のような男には、似ぬほうが良い」
「まあ。そのようなことをおっしゃると、ヒューバート殿下が気の毒ですわ。それに、そんな王子を夫に選んだオフェリアも」
「それもそうか。許せ」
腹の子は、果たしてグレゴリーの血を引いているのか――密かに疑う者も少なくはないが、どうでもいいこと。
薄汚れた血を受け継ぐ必要もない。マリアンナやエドガーと同じものを持つ子……愛しい女が生む子……マリアを自分に縛り付けるための、切れることのない絆の証……それでいい。
「この子に会えるのが待ち遠しくてたまらぬ。マリア、そなたの奔放さは嫌いではないが、お転婆は控えねばならぬぞ。子と、自分の身体をもっと大切にしてやらねば」
「むう。グレゴリー様までそんなことをおっしゃって。皆して同じことを言うのですから」
頬を膨らませ、子どもっぽく拗ねて見せるマリアを、グレゴリーは目を細め、愛しい想いで見つめる。
「日頃の行いが悪すぎるのだ。それにいまもそのように、注意されても改めるどころか不貞腐れるものだから。誰もが苦言のひとつも呈したくなるのであろう」




