唯一の女
一年も終わりに近づく中、命の灯がまたひとつ消え去ろうとしていた。
コンスタンス・ペンバートン公爵夫人――先代国王と親しかった貴婦人。生涯独身を貫き、グレゴリー陛下にも一目置かれていた女性。
つまりはかなりの高齢で、彼女の場合はもはや天命だ。その別れを惜しんで悲しむよりも、穏やかに見送ってあげたかった。
「……来てくれたのね。ごめんなさい、突然呼びつけてしまって……もう、自分で訪ねていくこともできなくて……」
ベッドに横たわる公爵夫人の姿は、消えそうな灯の最期の輝きであった。
夫人に呼ばれてペンバートン邸を訪ねたマリアは、彼女の寝室に通され、公爵夫人と対面していた。
「ポーラやエステルのことを聞いたわ。だめねぇ……私ったら、いつも肝心なところで役立たずで……。私の軽率な行動が、あの悪夢のすべての始まりだったというのに……」
自嘲するように微笑む公爵夫人の手を、マリアはそっと握る。
エステルの少女らしい夢を叶えてあげたかった――公爵夫人は、ただそれだけだった。
でも彼女のその親切が、エステルを二度と覚めることのない悪夢へ導いてしまったのも事実……。
「ポーラ……いえ、ポーリーン様は、コンスタンス様を恨んではおりませんでしたわ。公爵夫人がいらっしゃらなければ、エステル様を生むこともできなかった……と、感謝していたぐらいです」
「そう……ありがとう。私を慰めるための偽りでも、そう言ってもらえればうれしいわ……」
公爵夫人はかすかに笑い、マリアの手を握り返す……だが、その手にはほとんど力が入っていない。
「あなたにお願いがあって呼びだしたの。陛下にお願いすべきだと思ったのだけれど、もう城を訪ねる時間も力も残っていなくて……。カール・セルデンが亡くなった時、私、彼のために尼僧院を建立したわ。そこに、エステルも埋葬してあげて」
カール・セルデン――エステルの実の父親だ。
「ポーラ様の手紙によると、カール様は火事の前に何者かに襲われていたそうですが」
「ポーラから話を聞いてすぐに私からも捜査を依頼したのだけれど、日が経ってしまっていたし、火事で何もかも燃えてしまって……。たぶん、レミントンの当主の仕業でしょうね。虐げてきたほうの娘がセルデン家の財産を継ぐことは歓迎できないもの……」
手紙には書かれていなかったが、ポーラもきっと同じように考えていたはずだ。
不倫相手には黙認できても、跡継ぎの母親になることは許容できない――そう考えて、ポーラの父親は余計な真似をしようとしたカール・セルデンを始末した……。
「エステルというのはね、カールのお母様の名前でもあるのよ。私の親友だった女性……娘が生まれた時、ポーラが迷うことなくその名前をつけてくれて本当に嬉しかったわ」
思い出を愛しむように公爵夫人は言った。
「あなたにひとつだけ、知っていて欲しいことがあるの。リチャード陛下のこと……あなたは彼の、愚かで嫌なところしか聞こえてこなかったから、きっとリチャード陛下のことを軽蔑しているでしょうけど……あの人にも、立派な王であった時代があったのよ」
公爵夫人は、記憶の中の愛しい王を思い出し、幸せそうに語る。
生憎と、マリアはリチャード先代王のことを知らない。
グレゴリー王に負の遺産を残していった人……幼い少女を欲望のままに破壊してしまった人。それが、マリアの思い描くリチャード王だ。
だけどきっと、公爵夫人にとってはそれでも愛しい人であったのだろう。彼女の思い出に、水を差す気はなかった。
「話が逸れてしまったわね。他にもまだ頼みごとが――そこの手紙を陛下に……。ポーラの助命を望む嘆願書よ。彼女が犯した罪は許されるものではないけれど、何もしないなんてことはできなくて」
「嘆願書でしたら、オフェリアも陛下に提出するつもりです。あの子のと一緒に、コンスタンス様のものも陛下にお渡しいたします」
オフェリアのことを聞き、公爵夫人はホッとしたような表情をする。
例え王妃の不義の子であることが明るみになっていたとしても、王がその地位を認めた王女――王族を手にかけて、極刑を免れるはずがない。
それでもポーラを助けるために何とかしたいと、オフェリアも嘆願書を書いていた。
「それからジュリエットのこと。不義の子であることが公になっていては、王家の墓に埋葬するのも難しいでしょうし、陛下もさすがにそこまで寛大になれないでしょう。私もあの子のことは好きではなかったけれど……望まれることなく生まれて、死してもなお厄介者扱いされて……さすがに気の毒だわ。あの子の遺体は、ペンバートン家の墓に入れてあげてちょうだい。せめて私が、最期にあの子を受け入れてあげましょう……」
ジュリエット王女の埋葬については、王やヒューバート王子も困っていた。
仮にも王女なのだから王家の墓に埋葬すべきだが、不義の子であることが明るみになったいま、彼女をその墓に埋葬することは先祖への冒涜でもある――そのように反対する声も多い。
王もまた、マリアンナ前妃やエドガー第一王子が眠る場所に、彼女を加えたくないという個人的な感情が振り払えないでいた。
ペンバートン公爵家で引き取ってもらえるなら、それが最良だ。
「最後に、あなたにも渡したい物があるの。そこの引き出しを開けて……そう、それ。私には子がいなかったから、ペンバートン家を継ぐ者がいないわ。だから、財産の半分は国に寄付して……もう半分は、王子妃に渡そうと思っているの。私の代わりに、王家を支えてくれる女性に……」
それきり、疲れてしまった公爵夫人は目を閉ざしてしまった。
そしてその夜には、公爵夫人の訃報がマリアのもとにも届いた――。
「コンスタンスも逝ってしまったか……みな、余のもとを去っていく」
立て続けに降りかかる悲劇に、グレゴリー王の心労もついに限界に達していた。
政務の大半をヒューバート王子に引き受けてもらい、今日は休養している。マリアは王を見舞い、公爵夫人の申し出とオフェリアの嘆願を伝えた。
ポーラは助けられぬ、と王も重苦しく呟いた。
「承知しておりますわ。オフェリアにも、恐らく変わることはないだろうと納得させた上での嘆願書です。ほんの少しでも可能性があるのならと。陛下に読んで頂けただけでも十分に思うはずです」
「……そうか。まこと、オフェリアは心の優しい子だ。あのような妃がおるのなら、ヒューバートは心配いらぬな」
暗い表情をしていた王も、オフェリアの優しさに感じ入ってわずかに微笑んだ。
「エステルは男の存在を本能的に嫌っていたが、余に対して特に酷かったのは、やはり余に父の面影があるからだ。ヒューバートも同様に――我が父を感じさせるものはエステルに恐怖を与えた」
王が言った。
欲望の餌食になったエステルが男を嫌うのは当然のこと。グレゴリー王やヒューバート王子に直接の恨みはなくとも、自分に危害を加えた張本人に似ていてはいっそう嫌悪するのも無理はない。
「チャールズのことを、エステルがどのように想っていたのかは余にも分からぬ。親と子という関係すら、あの子には正しく理解できていなかったかもしれん……」
正気を失ったまま、ただ出産だけを行い……それでエステルに母性が目覚めるとは思えない。
訳が分からないままに苦痛を味わい、その末に自分の中から出てきたモノ。そんな存在だったのかもしれない……。
「エステルが亡くなり、ジュリエット王女の出生が暴露されたいま、余はもはやパトリシアを王妃に据えておく意義も感じなくなった。ヒューバートの提案した通り、彼女は遠くへ幽閉しておくことにする。王都にも、城にも干渉できぬほど遠くへ。例え悪しき者がパトリシアを利用しようと考えても、それが届かぬほどの場所へやってしまう。もうあの女の後始末をさせられるのは御免だ」
吐き捨てるような口調は、王がこれまで耐えてきた屈辱を表していた。
敬虔なルチル教信者であるはずの王が、愛妾という神の教えに背く存在を侍らせ、あまつさえその女に王妃の位を与えてしまった。
それにヒューバート王子の母親ジゼル王女との関係が歪なものになってしまったのも、パトリシアたちに一因がある。父王の後始末に追われていた王は、孤独な王妃に寄り添う余裕もなく、彼女の孤立を深めてしまったのだ……。
王家の犠牲にしてしまったポーラ、エステル母子を守るため仕方なく背負いこんだ汚名――もう解放されたがっている。
「年が明け、王女やコンスタンスの喪も明けた頃にはヒューバートを王太子に任命する。そして来年の内に、余は王太子に譲位しようと考えている」
「まあ。それでは、生前退位をなさるということですか?」
マリアは目を丸くし、初めて口を挟んだ。
前例がないわけではないが、かなり特殊なことではある。まだ王が健在だというのに、王太子が即位するだなんて。
「リチャード先代王の晩年を見てきたからな。もうろくする前に、余は潔く身を引きたいのだ。父上も、傲慢で独善的ではあったが、それでも若かりし頃は賢明なる王であった。しかし年を取るごとに愚かになり、ついにはあのような醜聞を……。それまでの偉業も、功績も、すべて台無しにした……」
自分もそんな老王になってしまう前に、ヒューバート王子に玉座を譲ってしまいたいと……。
疲れ果てたように話す王を、マリアは自分の胸元に抱き寄せる。王は幼子が母親に甘えるように、マリアに身をすり寄せた。
「余とて、偉大なる王であったという名誉は欲しい。人々から疎まれ、我が子からも蔑まれるような王になってしまう前に、立派な王のまま名を残したいのだ」
「心中お察しいたします。もうグレゴリー様は、十分頑張ってこられましたわ。ヒューバート殿下に後任を委ね、ゆっくりと余生を過ごしましょう」
――機は熟した。
ヒューバート王子が王太子に――そして王に。そうなってもエンジェリクの頂点に立っていられるほどの男になったし、マリアもまた、それを支えられるだけの地位と権力を得た。
この上ないほど円満に、王子は王からその座を譲り受けることができるはずだ。いまなら、もう……。
「そなたは聞かぬのか。エステルの一件があった後、余が我が父をどうしたのか」
マリアの胸元で、王が静かに問いかける。その表情は、マリアからは見えなかった。
「聴罪役をお望みならばお引き受けいたしますわ。でもそうでないのなら……。陛下の決意と覚悟を暴きたてるような真似はしたくありません。私はただ、こうしておそばに寄り添うのみ……」
マリアの答えに、そうか、と王は呟いただけだった。
リチャード先代王のその後――聞かなくても、予想はつく。
親子の情で彼を生かし……その結果、憐れな犠牲者を生み出してしまった。
そしてグレゴリー王が獣となり果てた父親をどうしたのか。あえて問いかけたいとは思わない。
権力を巡って罪を犯してきた人間の集まる城に、またひとつの罪が加わっただけだ……。
「……王でなくなったら、余はどうすればよいのだろうか」
「まずは自堕落にベッドでゴロゴロ寝て過ごす特訓を致しましょう。誰かに起こされることもなく、眠りたいままに睡眠を貪って……食べたい物を食べたい時に好きなだけ食べて、あと、お風呂に入ってゆっくりしましょうね」
冗談交じりにマリアが提案すれば、王も声をあげて笑った。
マリアの胸にもたれかかったまま、大きくなったマリアの腹を撫でる。
「この子が生まれるまでは、王としての努めを果たしていよう」
マリアは王の頭を撫でた――母親が幼子を慈しむように。そして王の頭の上で、勝利にほくそ笑む。
名実共に、これでマリアは女たちの頂点に立った。
王妃は追放され、王女は死に、特別な地位にあった公爵夫人も去っていった。もう王子妃のオフェリアの上に立てる女はいない――マリアを除いて。
マリアこそが、この城に唯一にして至上の女だ。
ついに、すべてに片を着ける時が来た。




