ポーリーンの独白書 (1)
エステル・レミントンの死は、ひっそりと公に明かされた。
ジュリエット王女事故死の陰で、貴族たちにとってさして関心のない女性の死は、ほとんど話題になることもなく……。
泣きじゃくるオフェリアを、ヒューバート王子は付きっきりで慰めていた。突然の別れに悲しむ妹の姿を、マリアも痛ましい想いで見つめる。
「こんなことなら……エステルがお城に帰る時に引き留めておけばよかった。身体が弱いのに無理して移動したから、きっともっと悪くなって……」
エステルの死は、毒による衰弱死と公表された。
もともと病弱だったエステルは、その日、体調が芳しくなく、効き目の強い薬を飲んだ――が、服用量を誤り、薬が毒と化して彼女の命を奪ってしまった、と。
本当のことは、言えるはずがない。
オフェリアがエステルとおそろいの裁縫箱を買い求めたことがきっかけの一つとなり、さらにはオフェリアを狙おうとして悲劇的な偶然が生まれ、エステルが死に至らしめられたなんて。
余計な詮索をされたくないグレゴリー王の意向で一部の人間にのみ真相は明かされ、マリアはその厚意に甘えることにした。
ただでさえ親しい人の死で傷ついているオフェリアに、消えることのない深い傷を与えたくはない。
やがて、オフェリアはヒューバート王子に連れられ自室へ戻っていった。
暖炉の火が燃え盛る応接室で、マリアは王子の帰りを待っていた。屋敷は静かで、ナタリアやララもマリアに声をかけず、少し距離を置いている……。
「泣き疲れて眠ってしまったよ。可哀想に……ずっと自分のことを責めていた」
オフェリアを慰めていた王子が戻ってきた。
「ありがとうございました、殿下。いまのオフェリアには、殿下の慰めが何よりですから……」
オフェリアが自分を責める必要などない。エステルを助けるチャンスがあったというのなら、マリアはエステルの危機をとっくに察していた。
マリアやヒューバート王子は、いまや多くの味方と共に多くの敵を抱えている。そしてその敵の大半は、マリアや王子よりも、その周囲の、弱くて無防備な人間を狙うもの。
二人の共通の弱点であるオフェリア――だがオフェリアは、共通の弱点であることを自覚しているマリアたちによって守られている。
一方エステルは。
王との複雑な関係を抱え、レミントン侯爵の庇護がなくなったことで無防備になってしまった女性。
オフェリアよりも狙われやすいことは分かっていた。だがマリアは、あえてそれを見過ごした。
エステルに万一のことがあれば、ポーラが動く。王妃を憎む彼女が動けば、必ず王妃たちは大きなダメージを受ける――あそこまで致命的な結果を招くとはさすがに思っていなかったが……エステルが犠牲になること、王女も巻き添えとなることは、とうに予想していた……。
「気にしなくていい……とは言えないが、結局、起こるべくして起こったことだ。あれが完全に防げたとも思えない」
マリアの隣に腰掛けながら、王子が静かに言った。
暖炉の火をじっと見つめる王子の顔には感情らしいものも浮かんでおらず、自分に言い聞かせているようでもあった。
「僕たちはただの人間で、全知全能の神じゃないんだ。すべてを守れるわけじゃない――守りたいもののために、これからも誰かを犠牲にしていく。最小限に抑えたいが……ゼロにすることはできない。きっと」
王子は懐から手紙を取り出した。
ポーラからマリア宛てに届いた手紙……ポーラの自白と告発がつづられた独白書だ。
「マルセルにも、この手紙の内容は教えていない。僕が知っていればいいことだ。王冠と共に、僕が受け継ぐべきもの……」
そう言って、ヒューバート王子は暖炉に手紙を投げ入れる。
白い封筒はあっという間に火に包まれ、真っ黒な灰へと姿を変えていった……。
――聡明なマリア様なら、すでにお気づきのことでしょう。チャールズ王子は私の妹パトリシアの息子ではありません。
あの子は、私の娘エステルが産んだ子です。
父親の名はリチャード。
グレゴリー一世の父にして、エンジェリクの先代国王リチャード三世……チャールズは、陛下の息子ではなく、年の離れた異母弟なのです――
その書き出しを読んだ時、マリアは目を瞬かせ、思わずもう一度読み直してしまった。
エステルとチャールズが親子。これについては考えたことがある。
二人の年齢から逆算すると、エステルが十三歳の時に生まれたのがチャールズ……下手をすれば、十二歳の時に妊娠したことになる。
貴族の子女ならばそれぐらいの年齢で嫁がされることもあり、異常に幼いわけではないが……しかし、リチャード先代王との年齢差は異常だ。
マリアとグレゴリー王もかなりの歳の差だが、エステルとリチャード先代王の年齢差は六十歳以上。
それに、リチャード先代王はすでにその時には他界していたはずでは……?
マリアは改めて手紙に目を落とし、続きを読んだ――。
エステルの生い立ちを説明するため、ポーラは自身の生い立ちもつづっていた。
ポーラことポーリーンは、レミントン男爵家の長女として生を受けた。
聡明過ぎた彼女は、自分の両親が人として敬意を払うに値しない部類の人間であることを理解していた。
だが子どものポーラは両親に従って生きるしかなく。せめてもの抵抗として、ポーラは自ら顔を焼いた。
顔に醜い火傷を持つ少女――結婚には利用できない。
ポーラの期待通り、両親はあっさりと娘に関心を失い、もう一人の娘を使って家名を上げようとした。
次女パトリシアは、十四歳でセルデン伯爵家に嫁ぐこととなった。ポーラは侍女として妹の婚家について行き――妹の夫と不倫関係になった。
パトリシアの夫カールは押し付けられた妻にうんざりし、パトリシアの実物を知るとさらに彼女を遠ざけるようになっていた。
自分のことしか考えられず、セルデン家の財産を使って浪費と散財を繰り返す妻に、カールは愛情を持てなかった。
それでなぜポーラを不倫相手に選んだのかは分からない。
グロテスクな火傷にかえって興味をそそられたのか、妻の姉なら手軽でいいと思ったからなのか――ポーラにとってはどうでもいいことだった。
カールは気前の良い男で、ポーラにも妻と変わらぬ待遇を与えてくれた。
カールが貢いでくれた財産があれば、いつか一人で家を飛び出して生きていくことができる。
ポーラは、従順な不倫相手を演じた。
不倫関係は、パトリシアどころかレミントン家の当主夫妻も公認であった。
妻としての役目を果たせとうるさく説いて来る夫の相手をしなくて済むようになってパトリシアは単純に喜んだし、セルデン家との繋がりが保たれるのなら、当主夫妻にとっても、別にもう一人の娘を不倫相手にしていようと構わなかったらしい。
誰にとっても損のない関係。それが崩れたのは、ポーラの妊娠だった。
自らの顔を焼くこともためらわなかったポーラが、初めて苦悩したことでもある。
自分のお腹に宿った命……いずれ家を飛び出して生きていくには足手まといになる。
……堕ろしてしまうか。
一瞬だけその考えは浮かび上がったが、すぐに消え去った。
両親にも妹にも愛情のかけらも抱かなかったのに、お腹の子どもには不思議と強い情が生まれて。
カールは反対するだろうか。堕胎を強要して来たら……そうなったら、貯め込んだ財産を持ってすぐに逃げよう。
決意を胸に、ポーラは妊娠を打ち明けた。
「パトリシアとは離婚する。ポーラ、結婚しよう。君が生んでくれるその子が、セルデン家の後継ぎだ」
報告を聞いたカールは、迷うことなくそう答えた。
ポーラは笑顔で応え、自分を抱きしめるカールの腕に収まった。
――妻とは離婚して、いずれ君と一緒になる。
そんなありきたりな不倫相手の言葉など信じるわけがない。子どもを生むことだけは許された、一応。ひとまず胸を撫で下ろしただけだ。
逃げ出すにしても、子どもを生んで、ある程度大きくなってからのほうがいい。いますぐ逃げ出すのは、やはりリスクが高い。
ポーラは相手に何も期待してなかった。カールのことなど微塵も信じていなかった。
彼の誠意を知ったのは、それからしばらくのこと。
セルデン家に、突如火の手が挙がったあの日……。
「火事だ!火の手が早いぞ、みんな逃げろーっ!」
一目散に外へと逃げ出そうとする召使いたちの隙間を縫い、ポーラは急いでいた。
どうしてあの時の自分はそんなことをしたのか、いまでも分からない。
書斎に、あの人がいる――なぜかその思いに突き動かされて、ポーラは真っ直ぐ走っていた。
書斎の扉は半分開いていた。ポーラが飛び込めば、大きな書斎机の向こうに血だまりが……。
「カール!」
彼の名前を呼ぶのは、それが初めてだった。妹の夫である彼のことは、ご主人様と。そう呼んで、絶対に自分の中に踏み込ませなかった。
伏せたカールには、明らかに誰かに襲われた跡があった。
胸元に広がる赤い染み……火事で、こんな傷ができるはずがない。ポーラの呼びかけに、わずかに目を開けた。
「……逃げろ。私はもう、動けない……」
そう言って、カールは最後の力を振り絞り、書斎机を指差す。そしてぱたりと倒れ込んだ。
書斎机の何を指したのか、ポーラはすぐに気付いた。
寝物語に彼が語ってくれたこと……隠された二重の引き出し。重要な書類はそこに隠してある……持って行けと言いたかったのだろうか。
ポーラはすぐにそれを持ち出し、倒れているカールを振り返った。
まだ辛うじて息はある。でも、成人男性をポーラ一人では運べない。召使いたちも逃げ出してしまって、助けを呼んでいる暇もない。ぐずぐず悩んでいたら、ポーラも命を落としてしまう……お腹の子と共に。
我が子を守るため、ポーラは彼を見捨てた。
それでいいと、彼ならきっとそう言ってくれる――。
セルデン家の火事とカールの死は、偶発的な事故とそれに巻き込まれた気の毒な当主……そう結論づけられ、真実は闇に葬り去られた。
ポーラではどうにもすることができなかった。
生家に戻ってきたポーラは、子どもを堕ろせと迫る両親に抵抗するので精一杯で。
セルデン家の遺産をすべてパトリシアに継がせたい両親にとって、ポーラの子は非常に都合が悪い。
ろくな食事も与えられずに狭い物置部屋に監禁されたポーラが救出されたのは、リチャード・レミントンのおかげだった。
「父上、ポーラが持ち帰ったのはカール・セルデンの遺言書です。内容をきちんと読まれましたか?」
リチャードは、ポーラが後継ぎとしての期待を外され、パトリシアが政略結婚としての手駒になったことで当主が引き取ってきた庶子だった。
娼婦の母親を持つ彼の出自を怪しむ者は多いが、ふとした仕草が当主そっくりで。そしてリチャードは、当主の母親に酷似している――怪しむ者たちも、納得して引き下がるしかないほどに。
「知っておる。だからあいつの子は、必ず堕ろさせねばならん!」
当主は憤慨しながら言った。
カールは本気で、パトリシアと離婚し、ポーラと結婚して生まれてくる子を後継ぎに据えるつもりだったらしい。
すでに遺言書までしたためられ、ポーラの子を認知し、権利を与えると明文化していた。
その遺言書を読み、当主は怒り狂った。このままでは、セルデン家の財産が自分たちのものにならない……!
「なら、写し、という単語ももちろん目にしていますよね?読み手に見せつけるかのようなあの一語……脅しではなく、本気だと考えて対応したほうがいいですよ」
遺言書には、ポーラが生んだ子にセルデン家の財産と権利を与えると書かれていた。
そして自分が死んだ後すぐにポーラや子に何かあれば、それは自分の相続を阻もうとする何者かの陰謀だという告発も書き添えられていた。
その場合、財産はすべて国に寄付し、自分やポーラ、子どもの死の原因を徹底的に調査するように――。
「写しということは、原本がどこに存在するということです。その所在を突き止めるまで、ポーラに安易な真似はしないほうが父上のためかもしれませんよ」
リチャードは、ポーラやパトリシアに情があるようには見えなかった。
引き取られた時から淡々とした子で、実の父にすら関心がないようで。なぜ自分を助けたのかと、ポーラは思わず不審な眼差しを向けてしまった。
助け出したのに感謝するどころか怪訝な顔をするポーラに、リチャードは愛想の良い笑顔で言った。
「うん、まあ、恩を着せたかったとかそんなんじゃないよ。ただ、ね。僕もあいつらは嫌いなんだよ。嫌いな奴らの思い通りになるって、ものすごく癪じゃないか」
ポーラの監禁が軟禁ぐらいに緩んだ頃、一人の女性がレミントン家を訪ねてきた。
コンスタンス・ペンバートン公爵夫人――リチャード国王の古くからの友人で、貴族社会でも一目置かれた存在。セルデン伯爵家とは親戚関係で、カールとも知り合いだった。
「このお手紙……カールが火事に巻き込まれて亡くなる前日に届いたものなのだけれど」
ペンバートン公爵夫人は、見せつけるようにそれを差し出した。
カール・セルデンの遺言書……その原本。
レミントン家当主は目の色を変えた。その様を見て、公爵夫人は涼しげに笑う。
「カールのお母様は私の親友だったの。カールのことは生まれた頃から見てきて……私にとっても我が子のような存在だったわ。だからカールが亡くなったことが悲しくて堪らないのよ。せめて子どもだけは、無事に生まれてきて欲しいわね」
わずかばかりの当主夫妻の抵抗も無視し、ペンバートン公爵夫人はポーラを自分の屋敷へ連れ帰ってしまった。
こうしてポーラは安息の場を得、無事に子どもを生むことができた。
生まれてきた娘と対面し――何もかもがどうでもよくなった。
両親への激しい嫌悪感も、あの人を想い出して痛む胸も、すべて娘がどこかへ追い払ってくれた。
ポーラはただ、娘との平和な時間を望んだ。
他に何も必要ない。セルデン家の財産をあいつらが求めるのなら、すべて差し出したっていい。
自分とエステル――娘に関わらないことを条件に、ポーラはセルデン家の財産を放棄することに同意した。
だがあの男は、ポーラが思っていた以上に強欲だった。
尽きることのない野心を叶えるためならば、我が子だって利用して切り捨てる。そんな男であったことを、娘に夢中になるあまりポーラは忘れていた。




