開いてしまった箱 (1)
城へ来てエステルが倒れたことを聞かされたオフェリアは悲しみに沈み、エステルの回復を祈っていた。
エステルという女性が悲劇に見舞われたことは城でも公にされ、その女性がオフェリアの友人だと知っているゾーイとダーリーンは、オフェリアを慰めに来てくれた。
そんなオフェリアのもとに、あまり見覚えのない近衛騎士たちがやってくる。
「オフェリア様、我々にご同行願います。エステル様毒殺未遂の一件について、オフェリア様に疑いがかかっております」
またずいぶん乱暴な手に出たものだ――と、呆れながらマリアが反論に出ようとすれば、先にゾーイ・ラドフォードがサッと騎士とオフェリアの間に立ちふさがった。
「あなたたち、誰に命じられてオフェリア様を捕えに来たのです?王族を連行するのであれば、隊長格がつくはず……あなたたちのような下っ端が、勝手に動いていい相手ではないわ。所属と名前を言いなさい。あなた方が所属する隊の長に抗議いたしますわ!」
ゾーイ・ラドフォードの夫は、近衛騎士隊三番隊の隊長。いまは事実上の副隊長格だ。当然、その妻であるゾーイは他の隊の隊長とも面識がある。
近衛騎士の妻らしくその姿は凛としていて、不遜な態度でオフェリアを連れていこうとした騎士たちを完全に威圧していた。
「わ、我々は、さる高貴な御方から特命を受けて動いているのです。名は明かせません――」
「何を寝ぼけたことを!近衛騎士隊が、一貴族の命令で動くですって?近衛騎士隊は、国と王にのみ忠実であるべきだというのに――!」
憤慨するゾーイに軽薄な近衛騎士たちは任せ、マリアは、きょとんとした顔で成り行きを見ているダーリーンに声をかける。
「ダーリーン様、公私混同で申し訳ないのですが……ダーリーン様から法務長官の夫君にお願いして、エステル様の毒殺未遂の一件についてドレイク警視総監に捜査権を一任するよう取り計らっていただけませんか?信頼できる方に捜査を任せないと、ご覧頂いているようにとんでもない結果になってしまいそうで」
「分かりました」
ダーリーン・ハモンドは笑顔で頷いた。
ダーリーンの夫は法務長官――司法のトップだ。彼女の夫にその権力を発揮してもらって、余計な人間が首を突っ込めないようにしておきたい。
エステルの毒殺未遂を利用しようと、様々な思惑が朝からマリアを狙っていた。
毒を盛ったこと、すでにマリアも何度か疑われ、逮捕されそうになった。オフェリアも狙われるだろうと思っていた。
この近衛騎士たちがやって来たのも、エステルが倒れたのはオフェリアのせいにして、ヒューバート王子の力を削いでやれという浅はかなことを考えた貴族のせい……。
――面倒事はきっちり締め出しておくべきだ。そんな馬鹿な企みに、関わっている暇もないのだから。
「ベルダ、オフェリアのことお願いね。ゾーイ様やダーリーン様がいてくだされば、馬鹿共は追い払ってくださるでしょうけど。私は陛下のところへ行って……今日はもう、つきっきりになると思うわ」
オフェリアは、マリアをあっさりと見送った。王様もきっとつらくて堪らないよね、と心配して、マリアが一緒にいてあげるべきだと自ら言い出したぐらいで。
オフェリアの心配した通り、エステルのことを聞いた王は深い悲しみに打ちのめされていた。
王の帰りを待っていたマリアを見ると、ホッとしたように王としての威厳を緩め、一気に疲れ果てた様子になった……。
「待たせてすまぬな。ポーラに声をかけてやらねばならぬと……声をかけてやりたいと思うてはいたのだが……余自身、エステルの死に直面する勇気が持てず、後回しにしてしまった……」
「心中お察しいたします。とても辛いお役目ですわ……つい逃げてしまいたくなる陛下のお気持ち、痛いほど理解できます……」
エステルは、毒に倒れたのではない。
――毒に倒れ、すでに帰らぬ人となっていた。
覇気のない、死人に取り憑かれてしまったような姿の王を支え、マリアはポーラのいる離宮へ向かった。
離宮は王の厳命によって完全に人払いされている。エステルの死は、王やマリアを始め、極一部の者しか知らされていない。公には、毒で倒れたということだけ伝えてあった。
「エステル様を死に至らしめた毒は、裁縫用の針に塗られていたとか……?」
離宮へ向かう道中、マリアは王に尋ねた。
マリアもまた、エステルが死んだこと、それをしばらくは公にしないことだけ知らされ、他のことは何も分からない状態だ。妹にすら話さず――詳細を聞く相手もいないまま、ポーラに会いに行くことになっていた。
「最近のエステルは刺繍に熱中し、夜遅くまで続けていることもしばしば……それで時折、うとうととしながら縫物をしている時もあってな。そんな状況で、不意に針で指を刺した。血も出ぬ程度だったが、それからほどなくして急に眠り込み、そのまま意識が戻ることなく……。詳細は実は余にも分かっておらぬ。なにせポーラが取り乱し、エステルの遺体を調査することも許さなくてな……」
ポーラを責める気にはなれなかった。
マリアも、もしもオフェリアが殺されて、真相を暴くために遺体に手をかけると言われたら、冷静に受け入れられるかどうか……。
静かな離宮に、女の泣き声だけが響いていた。
エステルの寝室――いつも彼女が眠っていたベッドの上で、エステルは横たわっていた。
ポーラが整えたのだろうか。ベッドの上のエステルはまるで眠っているみたいで……だがその顔には、死人特有のものがはっきりと浮かび上がっている。
ただ、死に顔はとても穏やかだ……。エステルは苦しむこともなく、眠るように静かに息を引き取ったのではないだろうか――慰み事でしかないが、マリアはそう思えてならなかった。
「ポーラ」
横たわるエステルにすがりついて泣いていたポーラに、王が声をかける。
ポーラは振り返り、王とマリアの姿を視界にとらえると、いっそう激しく泣き出した。そんな彼女の背を王は優しくさすり、娘の死に嘆くポーラを労わった。
「なんと憐れな……かける言葉も思いつかぬ。我が子に先立たれるなど、これ以上の不幸は存在せぬ……。余を許せ、ポーラ。エステルを守り切れなんだ……」
「……いいえ、陛下に非はございません。すべて私のせい……私が無力で……また、守ることができなかった……」
きっと自分よりも、コンスタンス・ペンバートン公爵夫人のほうがこの場に相応しかっただろう――ポーラや王とは旧知の仲で、マリアの知らない月日を共に過ごしてきた相手。
公爵夫人であれば、もう少し上手くポーラを慰めることができただろうか。だが公爵夫人も高齢で、もはや明日も知れぬ身だ。
「ポーラ……私も、このような状況で気の利いた言葉のひとつも思いつかないような女です。あまりにも突然のお別れで、何やら実感がわかなくて。こうしていると、目を覚ましてまたあどけなく私にしがみついて来るのではないかと、そう錯覚してしまいそうなほどですわ」
ポーラはじっと、涙で濡れた目でマリアを見つめる。
ポーカーフェイスというわけでもないのに真意が読みにくい女性だったが、いまはいっそうポーラの心が見えない。
エステルの死を嘆いているのか、憤っているのか……マリアに対して、どのような感情を抱いているのか。
「オルディス公爵やオフェリア様には、本当に感謝しております。共に過ごした時間は短くとも、エステルにとってはかけがえのないものとなりました。それまでの無為に流れていただけの月日に比べれば、なんと人間らしく生きたことでしょう……」
そう言って、ポーラは優しくエステルの顔を撫でる。
マリアも、そっと手を伸ばして横たわるエステルの手に触れた。体温も低く、儚くも細い体つきの女性であったが、いまのエステルは冷たく硬い……石像のような。その身体は、もう人間らしいものではない。
「エステルは、オルディス公爵に恋をしておりました。初めて会ったあの日、男装をしていらした公爵は、エステルが好きな絵本の挿絵にあった王子様そっくりで。そんな公爵と共に過ごせて、とても幸せそうでした。身体は年々弱り、いつか私より先にこの子が逝ってしまうことは覚悟していました。ただ、生まれてこれて幸せだったと、最期の瞬間にはそう思っていて欲しくて……。ずっと……生まれてこなければよかったと、そう思ってしまうようなことばかりだったから……」
言葉に詰まり再び泣き出してしまったポーラの肩を、王が抱く。それを見ていることしかできなかったマリアは、離宮に誰かがやって来たことに気付いた。
王の命令で立ち入りを禁じられている場所に――相手は限られている。そして、その中でも最悪の人間が図々しく足を踏み入れてきた。
「エステルが死んだというのは本当だったのね」
泣き崩れている姉を見て、パトリシア王妃が言った。
嘲るわけでも労わるわけでもなく……彼女にとっては、特に気に留める必要もないことなのだろう。彼女の登場には、不吉なものしか感じなかった。
それは王も同様で、サッと顔色を変え、なぜここへ来た、と短く問い詰める。
「お悔やみを言いに来たのよ。エステルは私の姪だったのだから……一応。はい、ポーラお姉様。お可哀そうなお姉様に、お花を分けてあげるわ。私の一番好きな花……特別に取り寄せたもので、お気に入りなの。とっても綺麗でしょう?」
ニコニコと笑顔で話す王妃に背筋が寒くなった。
自分の好きな花を、見舞いの品に……分けて、あげる……。たぶん彼女には、何の悪気もない。その言葉は本気で……本心から、娘を亡くした姉を労わっているつもりなのだ、王妃は。
差し出された花と妹を睨みつけ、ポーラは手荒に振り払う。花は無残に床に叩きつけられ、まあ、と王妃は顔をしかめる。
「お姉様ったら相変わらず意地っ張りで、可愛げのない人ね。そんなだから、お父様やお母様からも見捨てられるのよ。醜い火傷のせいで誰も寄り付かないのは同情するけれど、だからって私を羨まれても困るわ。私のせいじゃないのに」
頭が痛くなるような王妃の思考回路は健在だ。
このごく短いやり取りだけでも、ポーラ・パトリシア姉妹の関係がどうしようもないほど歪んでいるのが分かる。
出て行きなさい、と王は低い声で命令し、王妃は溜息を吐いた。
「陛下、エステルをさっさと埋葬してくださいね。お城にいつまでも死体が残ってるだなんて嫌だわ」
それだけ言って、王妃はさっさと離宮を出て行ってしまった。
ポーラは妹に背を向けたまま……マリアや王のほうにも振り返らず、彼女の背中は、強い拒絶の意思を現している。
――王の慰みも、もう不要だと。そう語っていた。
「これを一番恐れたのだ。いったい誰が、エステルのことをパトリシアの耳に入れたのだ……!」
離宮を出ると王も深い溜息を吐き、頭を抱えながら嘆いた。
マリアは王に寄り添って彼を慰め、最後にすべてを拒絶していたポーラの姿を思い出す。
このあと何が起こるのか、マリアには分かるような気がした。




