蠢く (2)
ドレイク卿の秘書としての仕事を終えたマリアは、ララを連れてヒューバート王子の離宮へ戻るところだった。
城の廊下では色々な人間と出くわすものだが、今日は少し意外な相手と出会った。
「ご機嫌よう、オーウェン様。軍服をお召しになられてお城にいらっしゃるなんて珍しい……そのお姿も、とても凛々しくて素敵ですわ」
エンジェリク海軍提督オーウェン・ブレイクリー。
普段はラフな恰好をしている彼だが、今日は略式ではあるが軍服を着ている。
いつもの海の男らしい姿も勇ましいが、軍服を着た姿も様になっていた。しかし、軍服で彼が城に来たということは……。
「陛下にお会いに?」
「せや。キシリア王が前に話してたこと、覚えとるか?イヴァンカの海賊のこと――冬が来て、襲われるエンジェリク商船の数も増えてきた。そろそろ本格的に、海賊討伐に乗り出さなあかん――というわけで、ヒューバート王子の出陣を依頼してきたところや」
「やはり殿下が出ることに……」
エンジェリクよりさらに北に位置する大国イヴァンカ。
広大な国土を所有する国だが、そのほとんどが不毛な土地で。
特に今年の夏は不作だったらしい。貧しさに苦しむイヴァンカ人は海に乗り出して海賊となり、近隣諸国から強奪を始めるだろうと、以前から危惧されていた。
軍事行為となれば、軍部からの支持と評価の高いヒューバート王子が指揮を執ることに……。
「……けれど、海賊程度ならオーウェン様で十分なのでは?」
マリアは小首を傾げた。まあな、と提督は相槌を打つ。
ブレイクリー提督と言えば、エンジェリクでも最強と名高い男。国同士の戦争ならともかく、ならず者の集団ぐらいなら、彼一人でもお釣りが来そうなものだが。
マリアが不思議そうにしていると、提督の副官が顔をしかめて首を振る。双子の副官は口を揃えて、ヒューバート王子が来てくれないとダメだ、と訴えた。
「提督に任せたら、イヴァンカ本国にまで乗り込んでってイヴァンカ海軍とおっぱじめてしまいます」
「ヒューバート王子に期待するのは、軍隊の指揮より提督の止め役ッス。俺たちじゃ、止めても聞いてくれないッスからね!」
副官たちの告げ口に、ブレイクリー提督は面白くなさそうな顔をする。
……正直なところ、副官たちの言い分はもっともだと、マリアも同意しかない。そう思ってしまうだけの前科があり過ぎる。
「戦争ではないにしても、荒事はやはり心配ですわ」
「ワシからしたら、あんたのほうがよっぽど心配やけどな。フランシーヌ人が来た時、えらい目に遭うたんやって?一時は腹の子も危なかったそうやないか」
提督の指摘に、マリアは苦笑いする。
いまも、不安は残っている。さすがに、子を危険に晒し過ぎた。もう危うい真似はしないでおこう……と、思う。できるだけ。努力する。
目を逸らしながらマリアがそう言えば、断言してください、と目を吊り上げたナタリアに叱られてしまった。
「暴れたい気持ちは分からんでもないが、子どものためにも、グッと我慢せんとな」
提督が我慢とか、と双子の副官たちが言ったが、提督の拳骨に沈められていた。
マリアがヒューバート王子の離宮へ行くと、まだ誰もそこには帰っていなかった。マリアが一番に帰って来てしまったらしい。
ヒューバート王子はもちろん政務で出ているのだが、オフェリアもまた、王子妃としての仕事で出かけている。
これまでずっと、自分の帰りをオフェリアが待っていたのに、ついにマリアがオフェリアの帰りを待つ番になった……。
「ただいま……ああ、オフェリアはまだ帰ってきていないのか」
離宮に戻って来た王子は、マリアしかいないのを見るなりそう言った。残念ながら、とマリアは皮肉げに笑う。
「殿下が建てられた孤児院の視察に、老人病院の慰問でしたか。オフェリアはまだ帰って来れていないようです」
「ベルダやアレクも一緒だし、ラドフォード夫人も同行してくれているんだったね。なら、心配はいらないかな」
近衛騎士スティーブ・ラドフォードの妻ゾーイ。オフェリアの友人となってくれた女性で、騎士の妻らしくしっかりしている。
仕事内容もオフェリア向きだし、それについてはマリアもあまり心配していない。
「殿下のほうはいかがですの。フレデリク地方の獲得……オルディスにいる修道士の話ですと、教皇庁はしっかりフランシーヌをせっついてくれているようですが」
フランシーヌ・フレデリク地方は、海の向こうの土地。エンジェリクとフランシーヌが、絶えず所有権を巡って争っている場所だ。
いまはフランシーヌが所有しているが、フランシーヌからの使者がエンジェリクで野蛮な振る舞いをし、その慰謝料としてエンジェリクが要求している。
仲裁役を務める教皇庁を密かにエンジェリク側の味方につけ、有利になるよう働きかけてもらってはいる――が、やはり両国にとって重要な土地だ。そう簡単にはいかない。
「それでも、最後にはフランシーヌが折れるしかないだろう。フランシーヌ側の落ち度が大き過ぎるし、それに、いままともにやり合ったら、あの国には勝ち目がない。あの国の程度は把握した。さすがの僕も、あれで負ける気はしないな」
ヒューバート王子が言った。
「チャールズ王子の領主指名も、恐らく僕の提言通りになる。レミントン侯爵を失ったチャールズ王子には、もはや何の力もない。というか、王子自身、さすがに侯爵が倒れたことにショックを受けて大人しいよ。侯爵は、王子にとって大切な伯父でもあったから……それが、自分が原因で瀕死の重傷に追い込んだとなれば……」
チャールズ王子がすっかり大人しくなったことは、マリアも聞いていた。
拷問による傷から回復できないレミントン侯爵は、いまもまだ生死の境をさまよっているらしい。
侯爵のことは嫌いではなかった……死を望んだことはなかった。だが、彼がいると、チャールズ王子を失脚させることができないのも事実。
侯爵の不在は、マリアにとって非常に有り難いことだった。
「僕も、侯爵の不在について喜んでばかりいられない。侯爵が王妃派の中心人物として王家にとって面倒な人間をまとめてくれていた――侯爵がいなくなれば、彼らへの対応が必要になる」
「それについては同感です。すでに、リチャード様……倒れた侯爵に代わって、自分が王妃派のリーダーになろうと、余計な欲をかいている人間もいるようですし、勝手な動きも目立ちます」
王妃派はもともと、自分本位で私欲にまみれた人間たちの集まりだった。協調性や忠誠心があるわけがない――いや、そういった人間もいたのだが、多くが離反してしまっている。
残ったのは、己の利益しか考えられない人間ばかり。
侯爵というまとめ役を失えば、もはや集団として成り立たない。マリアが何もしなくとも、王妃派は空中分解寸前だった。
そしてそれは、必ずしも良いこととは限らない。侯爵によってうまく抑えられていた連中が、自分の利を求めて勝手に動き出す。
問題は、それなりに計算して動ける人間なら放置していてもいいのだが、目先の結果にだけ飛びついて、自分の行いがどのような事態を招くのか想像もつかないままに行動する無能が現れること……。
「その手の人間に、以前も悩まされたことがある。フランシーヌの使者たちで懲りた。まさかいくらなんでもそんなことを、と甘く見るのは止めたほうがいい。僕らの想像の斜め下をいくことをやってしまう人間がいるのだと、肝に銘じておこう」
冗談めかして話すヒューバート王子にくすりと笑いながらも、彼の言葉を胸に深く刻みつけておいた。
――以前にも、感情任せにとんでもない蛮行をしでかした男がいた。
あの男はよりにもよってオフェリアを狙い……未遂で済んだが、一歩間違えれば、オフェリアは一生消えることのない傷を負うことになっていた。
狙うのがマリアやヒューバート王子であれば、容赦なく返り討ちにしてやる自信がある。だがオフェリアは……。
オフェリアは、マリアとヒューバート王子の共通の弱点。そしてとても無防備な少女。その事実を隠してはいるが、隠しきれるものではない。オフェリアのため、警戒はいっそう強めておかなくては――。
「ただいまー!あっ、ユベルとお姉様だ!二人とも、もう帰ってきてたんだね!」
離宮に明るい声が響き、一気ににぎやかになる。
ヒューバート王子は、笑顔で妻を出迎える。
「お帰り、オフェリア。お仕事ご苦労様。大変だっただろう。いま、お茶を淹れようとしていたところだ」
王子が特製の花茶の準備をしに席を立つと、私も手伝う、とオフェリアがついて行く。仕事から帰って来たばかりだというのに。元気なものだ。
「ベルダとアレクもご苦労様。変わったことはなかった?」
マリアが聞けば、ベルダも笑顔で頷く。
「はい。子どもたちも、おじーさんおばーさんたちも、オフェリア様の訪問を歓迎してくださっていました。最初はオフェリア様も緊張してましたけど、ゾーイ様が丁寧に教えてくださって。オフェリア様も、子どもたちの触れ合いを楽しんでいましたよ」
「そう。なら良かった」
やっぱりゾーイ・ラドフォード夫人についていってもらったのは正解だった。彼女なら施設訪問には慣れているだろうし、オフェリアをしっかりフォローしてくれるだろうと期待していた。
出しゃばり過ぎず、さりげなく相手を支えることができる彼女は、貴重な友人だ。
「お待たせー。ベルダとアレクの分もあるよ!ララもおいでー」
「俺は犬じゃねえぞ」
戻ってきたオフェリアにおいでおいでと手招きされ、ララが苦笑する。
ヒューバート王子が運んで来た茶を飲みながら、オフェリアはあれやこれやとおしゃべりをした。
今日行って来た孤児院――子どもたちは可愛くって。老人病院ではおかしなトラブルがあったり、思いもかけぬ質問で戸惑ったり……。
帰って来るのが遅かったこともあって、空はあっという間に星が輝き始めた。特にこの時期は、夜が来るのが早まっているし。
「もう帰らないとダメ?もっとユベルと一緒にいたい……ねえねえ、お姉様。今日はお城にお泊りしていこうよ!」
マリアは吹き出しそうになった。
王子と結婚して妃となったのに、お城にお泊り、だなんて。なんとも滑稽な言い回しに、王子も困ったように笑っている。
「いいわよ。今夜は城に泊まって行きましょうか」
「やったー!」
無邪気に喜び、オフェリアはヒューバート王子の腕にぎゅっと抱きつく。お泊りが決まると、オフェリアはさっそくお風呂へ向かった。
――城にも、風呂愛好家のマリアが作らせた専用の浴室がある。これだけは自費を支払い、マリアがごり押しで作らせた。
「お姉様、早くはやく!」
マリアと一緒に風呂に入ろうと、オフェリアが引っ張ってくる。オフェリアの中では、マリアも一緒に泊まることが確定しているらしい。
準備するから待ってて、とマリアは声をかけ、オフェリアはベルダと一緒に先に行った。
「ララ、使いを頼まれてくれる?一度屋敷に帰って、ナタリアに泊まることになったと伝えてきて」
泊まりとなると、マリアの世話をするためにナタリアも城へ呼ばなくてはならない。ララでもいいのだが……男の彼に世話を任せるのは、城では控えたほうがいい。
「……マリア」
オフェリアの護衛をしているアレクが、マリアの服の裾を小さく引っ張り、さりげなく呼び止めてきた。
「マリアの権限で、この城の女官をオフェリアに近づけないようにすることってできる?」
「できるけど……どうしたの?」
「ちょっとね。オフェリアの身の回りの物を、彼女たちに触らせたくなくて。別に全員が悪意を持っているわけじゃないだろうけど、用心のため。習慣や作法に則ってると言われたら、止める手立てがないから」
アレクの言葉に、以前、ララから身の回りの持ち物に気をつけろと警告されたことを思い出す。
相手の持ち物を使って、呪いをかける――それを警戒しろと。
マリアは呪いなんて、そんなもの信じていない。例え呪われたところで、ララも言っていたように、そんなものに負ける気もしない。自分は。
……だがオフェリアについては、そうはいかないだろう。
「分かったわ。オフェリアを世話するのはベルダで十分――そう言って、他の人間は近づけさせないようにする。これからも」
それでも防ぎきれないことはある。
オフェリアは王子妃となり、城の人間と一切関わりを持たないようにする、ということはできなくなった。守り切るには、限界がある。




