-番外編- クリスティアンの物語(2)
トリスタンが王に即位してから、クリスティアンは多忙の日々を過ごしていた。
フェルナンドとの王位を巡る争い、私欲のために王を裏切る奸臣たち、隣国オレゴンと領土を巡って小競り合い……やるべきことはたくさんあるというのに、人手は足りない。
トリスタン王も非常に精力的に働いてはいるが、それを支える宰相への負担はやはり大きかった。
昨夜もほとんど徹夜状態で働いていたクリスティアンは、休息を取るために城にある自室に下がろうとして、王妃ブランカと顔を合わせた。
「あら、クリスティアン様。ずいぶんとお疲れのご様子ですのね。昨夜も一晩中、王が手放してくれなくて大変だったのかしら?」
クリスティアンは苦笑する。
……間違いではないのだが、色々と誤解しか生まない表現だ。王妃はツン、と澄ました態度でクリスティアンをちくちくいじめる。
「これぐらいの嫌味は耐えなさい。私だって、男に王の関心を奪われた王妃と憐れみと嘲りを受けているのですから」
「申し訳ありません」
クリスティアンは何も悪くない……とは思いつつも、反射的に謝ってしまった。
王位簒奪を狙う異母兄も信頼できない臣下も油断ならない隣国も大変だが、何よりクリスティアンをてこずらせているのは、他ならぬトリスタン王自身だった。
愛情のない両親の下に生まれて孤独な幼少期を過ごし、血を分けた兄弟と骨肉の争いをし、自分を利用することしか考えていない諸侯たちにも苦々しい内心を隠して接し……トリスタン王には、心から信頼できる人間が少ない。
そんなトリスタン王にとって、クリスティアンは特に強い信頼を寄せる相手だった。
孤独な少年時代から自分を支えてきた親友――クリスティアンとしても、トリスタン王から信頼されるのは嬉しいし、何があろうとも最後まで彼を支え、味方でいてあげたいと思っている。
……思ってはいるのだが、いささか執着が過ぎないだろうか。
「さっさと結婚なさい。いつまでも独り身でいるから、おかしな噂が増えるのですよ」
「結婚願望がないわけではないのですが、いかんせん忙しくて相手を見つけられなくて。おまけに、縁談が持ち込まれてもトリスタン様がケチをつけてすべて追い払ってしまうものですから」
トリスタン王はクリスティアンに執着し、自分からクリスティアンを奪いそうな人間が近付くのをものすごく嫌がっている。
妻なんてその最たるもので、クリスティアンがなかなか結婚できないのは王のせい――半分ぐらいは。
本人が忙しさを理由に嫁探しを本気でしていなかったり、遠目から鑑賞する分にはいいけどその美貌の隣に立つのはちょっと、みたいな感じで女性たちから敬遠されてしまったりと、他にも色々理由はある。
王から執着され女性と浮いた話のひとつもなく、おまけに女性顔負けの美貌ということで、王と宰相の関係について妖しい噂も色々飛び交い……根も葉もない噂なら無視をすればいいのだが……。
「……分かりました。あなたの結婚相手は私が決めてあげます。放っておくと、いつまでもあなたは出会いを探さないままだろうし、王もずっと邪魔し続けるでしょうから」
恐縮です、と苦笑しながらクリスティアンは頭を下げたが、王妃の行動は素早かった。
気がついたら縁談話がまとまっていた。
縁談を知った王は当然反対したが、キシリアの大貴族にして王の寵臣がいつまでも独身なんておかしい、と言う王妃の有無を言わせぬ反論に沈黙するしかなかった。
こうして、クリスティアンは花嫁を迎えにエンジェリクを訪れることとなった。
スカーレット・オルディス――美しい金髪と、どこかあどけなさの残る可憐な少女に、密かにホッとしたのは言うまでもない。
「スカーレットと申します。クリスティアン様――キシリアに嫁ぐからには、キシリア人となり、良き妻となれるよう、精一杯努力いたします」
姉の評判がよろしくなかったし、女性とのお付き合いがほとんどなかったクリスティアンには一抹の不安があったが、スカーレットは可愛らしく、くるくると表情が変わる愛らしい少女だった。
彼女が運命の相手――そう思えるほどに、クリスティアンはすぐにスカーレットを深く愛するようになった。
予想通り、クリスティアンの関心を奪われた王は不機嫌だったが、スカーレットがクリスティアンそっくりの娘を生んだ途端、掌を返したように彼女を気に入り……露骨過ぎて、乾いた笑いしか出ない。
二人目も女の子だったが、スカーレットにそっくりな娘だった。その時もトリスタン王は祝いの言葉を送ってくれたが、長女マリアが生まれた時ほどの喜びようではなかった。
いや、むしろマリアの時が異常だった。王妃もクリスティアンも、思わず白い目を向けるほどで……。
「ごめんなさい、クリスティアン様。次こそは男の子を……」
「そんなこと気にしなくていい。こんなにも可愛い娘が二人もいて、何の不満もないよ。それに、君がいてくれればそれでいいんだ」
スカーレットは男児を生めなかったことを気にしているようだが、クリスティアンは何も不満はなかった。
愛する妻がいてくれるなら、それが一番の幸福だ。すでに娘が二人もいるのだから、クリスティアンがそれ以上望むことはなかった。
姉のマリアは聡明で、少し普通とは違った子だった。
飲みこみが早く、あっという間に教えたことを身に着けて……それに、子どもらしいワガママを言わない子だった。おかげでとても育てやすい子ではあったのだが、泣いている姿をほとんど見かけないというな不安もあって……。
ということを弟に話したら、兄上もわりとそんな感じの子でしたよ、と言われてしまった。
意地っ張りで妙に気が強いから、人前で泣くことを頑なに嫌がっていた、と。
……そうだったっけ。
妹のオフェリアは、マリアに比べれば甘えん坊で泣き虫だった。
赤ん坊ってそんなものだよな、と思いながらクリスティアンは抱っこをせがんで泣くオフェリアをあやし、マリアも熱心に妹を可愛がってくれていた。
「おねーちゃま」
オフェリアは、自分よりもマリアに懐いているような気がする――クリスティアンがそうこぼせば、スカーレットがくすくす笑った。
「マリアはとても優しいお姉様ですもの。オフェリアのことをよく可愛がって……オフェリアは、お姉様のことが大好きみたい」
そう言って、姉にまとわりつくオフェリアを見つめ、スカーレットは微笑む。
年齢差に加え、年齢よりも大人びているマリア、年齢よりも幼いオフェリア……。
「……私は、お姉様とはあんな関係を築けなかったから。オフェリアがちょっとだけ羨ましいですわ」
ぽつりと、スカーレットが呟く。
クリスティアンがエンジェリクを訪れた際も、彼女の姉は一度も姿を見せず、キシリアへ旅立つスカーレットを見送りに来ることもなかった……。
その年、キシリアは悲しみに包まれた一年であった。
年が明けて、暖かい春を待っていたある日。王妃ブランカが胸の病に倒れ、ついに帰らぬ人となった。
王妃の病は昨年にはすでに発覚しており、療養を続けたが回復することなく、彼女は儚くなってしまった。
夫婦らしい感情のない相手ではあったが、トリスタン王は献身的に王妃を見舞い、残された短い時間を共に過ごすことに努めた。二人の間に成した王子を連れ、家族水入らずの時間を作るように心掛けていた。
良い夫ではなかった。家庭よりも仕事を優先する王であったが、ブランカ王妃は間違いなく彼の大切な戦友で、かけがえのない相手だった。
「……ねえ、クリスティアン様。本当は私、あなたのことがちょっと嫌いだったのよ。だって、トリスタン様はあなたに夢中で……彼は私を尊敬してくれたけれど、一番はいつもあなただったもの」
彼女が亡くなる前日。見舞いに訪れたクリスティアンに向かって、王妃はそう言った。
けれど口調はとても穏やかで、クリスティアンを見つめる目は優しかった。クリスティアンにとっても、彼女は共にトリスタン王を支えてくれた相手で……王を慕う同志であった。
「でも、いまなら言えるわ。あなたが王のそばにいてくれてよかったと。クリスティアン様……トリスタン様をお願いね。それから、ロランドを……」
「分かっています。命尽きる最期の瞬間まで、私は王と王子のおそばにおります」
クリスティアンの言葉に王妃は微笑み、翌日彼女は息を引き取った。
病床にありながらも王妃は美しく、病に取り乱すこともなく眠るように静かに……穏やかに、笑みすら浮かべて息絶えた彼女は、賢妃として後世にもその名を称えられた……。
王妃という大きな存在を喪ったキシリアを、その年の暮れ、さらなる恐怖が襲った。
黒死病の到来――近隣諸国で流行し、キシリアも大打撃を受けた。
当時、クリスティアンは王都にいた。終息のため、宰相として寝る間もないほどに働いていた。
そんな時だった。クリスティアンのもとに、恐怖が知らされたのは。
実家から、召使いがやってきた。休むことなく馬を飛ばしてクリスティアンの前に現れた召使いは、ボロボロの身なりのまま家の異変を知らせた。
「すぐにお屋敷にお戻りを。スカーレット様が……罹患なされました」
涙で言葉に詰まりながらそう言った召使いに、クリスティアンは初めて、頭が真っ白になるという経験をした。
すぐに戻ってやれ、と。冷静に声をかけたのはトリスタン王のほうだった。
「ごちゃごちゃ悩んでいる暇などない。いますぐにだ。誰か、馬を用意しろ!」
ろくな旅の支度もせず、クリスティアンは用意された馬に飛び乗って、一目散に実家へ向かった。
無我夢中で馬を飛ばしている間、何も考えられなかった。ただ、スカーレットと出会って過ごしてきたこれまでの日々が、走馬灯のように思い出されて――マリアと出くわすまで、人間らしい思考というものを忘れ去っていた。
娘のマリアとは、道中で再会した。
脚を折って動けなくなった馬を発見し、そこから五百メートルと離れていない場所で、一人とぼとぼと歩くマリアを見つけた。
一人ぼっちの娘を見た時には、幻覚を見るほど疲れているのか、と己の正気を疑ってしまった。
「マリア、どうしてこんなところにいるんだ。オフェリアと一緒に避難していたはずじゃ――」
「お家に帰りたかったの!」
父の姿を見つけ、マリアはボロボロと涙を流しながら抱きついて来た。
スカーレットが黒死病に罹患してすぐ、娘たちは別の場所へ避難させられていた――無論、母親のことは秘密で。
だが、マリアは聡い子だし、屋敷の者たちは動揺している。
そんな状態で、マリアが異変に気付かないわけがない。乗馬が得意だった娘は召使いの目を盗んで馬に乗り、無謀にも一人で家に帰ろうとしていたのだ。
王都で事態の収束に従事しているはずの父親と、こんな場所で出くわしてしまった。
何が起きたか、マリアはもう、完全に悟ってしまっている……。
「……乗りなさい。いまは、お前と話をしている時間もないんだ」
マリアを乗せ、クリスティアンは改めて馬を飛ばした。滅多に涙を見せない娘が泣いているというのに、それを慰めることもせず。
屋敷へ着くと、悲しみと絶望に暮れる召使いたちに出迎えられた。クリスティアンは彼らに言葉をかけることも忘れてスカーレットのいる寝室に向かった。
父親を追いかけようとするマリアは、侍女頭のカタリナに止められていた。私も行く、離して、と泣き叫ぶ娘に振り返りもせず、クリスティアンは部屋に飛び込んだ。
変わり果てた姿になったスカーレットを抱き寄せる。
すでに死に取り憑かれていた彼女はわずかに目を開き、クリスティアンを見て安心したように笑った。
――そして閉ざされた瞳は、二度と開くことはなかった。




