再会 (3)
三日程滞在したおじを見送った翌日、久しぶりに一人でゆっくり眠っていたマリアを起こしたのは、マサパンだった。
顔をべろべろ舐められ、たまらず身体を起こして犬を押し退ける。巨体はビクともせず、マリアは深いため息をついた。
「起きればいいんでしょう。分かったわよ」
旅の疲れで体調を崩したおじの看病――という名目で、おじがいる間マリアはほとんどの時間をおじと共に部屋にこもって過ごした。
うつるといけないから、と遠ざけられ、姉に相手をしてもらえなかったことに拗ねたオフェリアは、マリアに無断でマサパンを屋敷に連れ帰ってきてしまった。
今日は朝から雨が降っている。外に出ることができず、大きな犬も暇と体力を持て余しているようだ。
「おじ様、病み上がりなのに大丈夫かな?」
窓から外を眺め、オフェリアが心配そうに呟く。
「今日はもう宿に入って、雨宿りしてるわよきっと」
おじの体調不良など、当然嘘である。純朴な見た目に反して元気な男だった。
それをいやというほど実感させられたマリアは、皮肉な気持ちで妹に相づちを打った。
「こんなに雨が降ってたら、今日はお外行けないね。マサパン、帰しに行けなくなっちゃった」
妹を放ったらかしにした埋め合わせに、その日一日マリアはオフェリアの遊びに付き合った。
人形遊びに歌に、かくれんぼ。オフェリアの好きなお菓子も作り、寝かしつける際に読んだ本は十冊を越えた。
「お疲れ様でした」
椅子に座ってようやく一息ついていると、労るようにナタリアが声をかけてきた。
座るマリアの膝に、犬のマサパンがのしっと前足を置いてくる。マリアはマサパンの頭を撫でた。
「あなたもお疲れ様。オフェリアと遊んでくれて助かったわ」
だがマサパンはスンスンと鼻を鳴らし、何かをマリアに訴えてくる。扉の前でぐるぐると回る犬を見て、マリアは立ち上がった。
「なあに?何か気になることでもあるの?ついてきてほしいの?」
マリアの言葉を肯定するように、扉を開ければマサパンは廊下を歩き出す。時々振り返ってはマリアがちゃんとついてきているか確認するマサパンのあとを、マリアも歩いた。
マサパンがマリアを連れて行った場所は、裏口だった。
「外に出たいの?雨がひどくなってるから、散歩には行けないわよ」
ノックするように、マサパンは前足を裏口の戸にかける。その姿に、マリアは扉の向こうの異変を察した。
閂を外し、扉を開ける。
「伯爵!?」
「優秀だな、その子は。こっそり忍びこんで驚かせるはずが、見つかった上に買収する間もなく、君に知らせに行ってしまった」
裏口の前にいたのは、ホールデン伯爵だった。
マリアが目を丸くしているのを見て、悪戯っぼく笑っている。うしろには従者のノアも控えていた。
「もう。何をおっしゃっているんですか。早く中に入ってください。身体を温めて、服も乾かさないと」
伯爵とノアを応接室に連れていき、暖炉に火を点ける。濡れたマントや上着は長椅子に広げた。
タオルを渡しながら触れた伯爵の手は冷たい。
「私の部屋のお風呂を使ってください。お湯を用意しますね」
ナタリアを呼びに行こうとするマリアの腕をつかんで引き寄せ、伯爵が言った。
「なら久しぶりに、また君に身体を洗ってもらおうか」
「……は」
目を瞬かせ、伯爵の背後で髪を拭くノアに視線をやる。
「まさか、そんなことのために来たんですか?この雨の中を?」
「驚くことにその通りです。昨日公爵が帰ったと知るや否や、あなたに会いに行くと言って聞かず」
いつものポーカーフェイスで答えるノアの声には、呆れたような口調が混じっていた。
「伯爵は意外と堪え性がないのですね」
マリアは苦笑しながら言った。
「自制と清貧は私が最も苦手とすることだ。聖人にはなれん」
「誇らしげに言い切らないでください」
そう話すノアのこめかみが、わずかに動いたような気がした。
「……君を幻滅させてしまったかな」
いつもの明るい笑みを浮かべながらも、マリアを見つめる眼差しには獲物を狙う獣のような獰猛さがあった。
……よもや、マリアがその標的にされるとは想像もしていなかったが。
「正直に言えば少し。伯爵も生身の男性なのだなとは思いました」
お風呂に入る――女となった自分と一緒に。それがどういう意味の誘いなのか、マリアにも分かっていた。
伯爵にそんな誘いを持ちかけられたこと、その誘いの意味を察してしまう自分……少しだけ、ショックはあった。
でも、伯爵の関心を惹きつけられるほどのものを、自分が持っていることに誇らしさもあって……。たぶんこの感情は、真っ当なものではない。少し不健全で、歪なもの……。
「私の理性より、君の魅力のほうが上回っているのだと弁解させてくれ。私をただの男にしてしまう君が悪い」
悪びれることなく責任を押し付けながら、自分の手を取り口付けてくる伯爵に、マリアは困ったように笑った。
「やはり口では伯爵に勝てませんね」
マリアが言えば、それぐらいは勝たせてもらわないとな、と伯爵は笑った。
伯爵を自室に案内しながら、そう言えば、とマリアはふと思い出した疑問をぶつける。
「私が女だということは、いつ頃からご存知だったんですか?」
「私は男に体を触らせる趣味はないぞ」
「……堂々と言い切らないでください。ノア様の苦労を増やしてはいけませんよ」
眠る伯爵の上にのしかかる状態で抱きすくめられているマリアは、伯爵の寝顔をじっと見つめた。
好奇心に誘われるまま、手を伸ばして伯爵の髯に触り、軽く引っ張ってみる。
「もう少し色っぽいことを期待したのだが」
片目を開け、伯爵が抗議する。うーん、とマリアはうなった。
「キシリアにいた頃から、触ってみたいと思っていたんです。父もヒゲは生えていなかったので。ヒゲにも、白髪が混じるのですね」
「白くなる毛は髪だけとは限らん。それは君も知っているだろう。自分自身の目で確かめたのだから」
「それについては、お返事しないことにしておきます」
マリアは起き上がりかけて、伯爵にベッドに引き戻された。
「そろそろ起きないと。伯爵の着替えは、私もお手伝いしますから」
「マリア」
むぎゅ、と伯爵がマリアの頬を軽くつねる。
「こういう状況で、その呼び方はないだろう」
「……ヴィクトール様。私が悪かったです。だから頬を引っ張るのはやめてください」
名前で呼べば満足したのか、伯爵は手を離しマリアの頬にキスする。ようやく開放されたマリアは、ガウンを羽織ってナタリアを呼んだ。
「犬を引き取りにやって来た。オフェリアと顔を合わせるときには、そう装えばいいだろうか」
「ご協力感謝します」
ナタリアが、着替えを持って部屋に入ってくる。
ベッドに横になったままマリアの着替えを見ていた伯爵が、また不満そうな声で言った。
「今日はドレスを着てくれないのか」
男物のシャツのボタンを留めながら、マリアは伯爵に振り返る。
「サイズが合わなくなったのです。おじ様を出迎えたときも、かなり無理をして着ていたぐらいで。恥を忍んで打ち明けますと……太ったみたいです」
「肉付きが良くなっただけだ。そういった素振りは見せまいと努めていたようだが、やはりキシリアにいた頃の君は辛そうだった。痩せていたというより、やつれていたと言うほうが正しいぐらいにな。エンジェリクに来て、少しでも心の荷が解けたのなら良かった。また新しいドレスを贈ろう」
感謝の想いが胸にこみ上げる。マリアはにっこり微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、エンジェリクのドレスはやたらと動きにくい衣装なので苦手というのもあるのです。それより、ノア様から次のお下がりを頂きたいぐらいです。ずいぶんとボロボロになってしまいました」
「この状況で他の男の服をねだるな」
呆れたように笑い、伯爵が言った。
「……僭越ながら。口出しすることをお許しください。伯爵様、どうかマリア様にドレスを贈ってくださいませ」
「ナタリアったら」
伯爵にねだる侍女をいさめるが、ナタリアは、だって、と反論する。
「オフェリア様は当然ですから問題ありません。でも私やベルダにまで服を買い与えておいて、マリア様ご自身の分は一着も購入なさらないだなんて。もっと自分のためにお金を使ってください。お美しい盛りなのですから、ドレスなどいくらあっても足りないぐらいなのですよ!」
必死に訴えるナタリアに、伯爵が大笑いした。
「心配するな。明日には、そこのクローゼットを埋め尽くしておく」
伯爵の言葉は冗談や世辞ではなく、本気だった。
マリアがそれに気付いたのは、翌日玄関ホールに大量の贈り物が届いたときだった。
あなたのせいよ、とマリアが皮肉も込めて言えば、ナタリアも少し反省したようだ。
さすがに、ここまで贈ってくるとは思ってもいなかったのだろう。オフェリアや、ナタリア、ベルダの分までちゃんと入っている。ノアのお下がりもきちんと用意してくれるあたり、伯爵はマリアにかなり甘いと思う。
だが伯爵の本気を思い知らされたのは、その日の夕刻だった。
届いた手紙を読むなり、マリアは伯爵に突撃した。
「伯爵。家の修繕、家具代その他諸々について、領収書が届いたのですが」
「書類に不備でもあったかね?」
「大ありです。請求書ではなく領収書とは、どういうことですか。しかも支払人の名前が伯爵なんですが。何も聞いてませんよ」
伯爵は腰かけたままマリアを抱き寄せ、自分の膝に座らせようとしてくる。マリアは抵抗し、伯爵を睨んだ。
「デイビッドが支払う予定だったのだろう。自分の恋人の買い物について、他の男が金を出すなど不愉快だ」
「リースさんには、一部の援助をしていただくだけで――もう。恋人への贈り物にしても、桁が違いません?」
「そうだな……。たしかに、あと一桁は足りんな」
「逆です。破産しても知りませんよ」
マリアが拗ねながら言えば、伯爵には笑われてしまった。
「私を破産させるのは、そう簡単なことではないぞ。だが君が私の懐具合を心配してくれるのなら、宣伝に協力してもらおうか」
長くなったマリアの髪を弄びながら、伯爵が言った。
会話のトーンが、商談をするときのそれだ。マリアは拗ねるのをやめ、伯爵を見る。
「実はいま、思ったように売り捌けていないものがある。君も知っての通り、エンジェリクでは馬車が発達し、乗馬は一般的なものではない。馬での移動を要する職業の人間か、一部の貴族が趣味として嗜む程度だ。そのせいで、キシリアから仕入れた名馬たちになかなか買い手がつかない。そこで、今度ベルトランドで開かれる交流会にて馬を宣伝しようと考えている――ベルトランドは王都ウィンダムの近くにある町で、貴族が集まりたびたび交流会が開かれる場所だ」
伯爵は説明を続けた。
「緑が多く、開けた土地であるため馬術競技なども行われることがある」
「それに参加して、実際に馬がどれだけ優れているのか見せるわけですね」
「そういうことだ。その騎手を、君に頼みたい」
馬に乗り、馬術の腕を披露すればいいだけなら特に難しいことではない。果たして、客をつかまえられるほどの演技ができるかどうかは定かではないが。
「君の腕前は、ノアや馬番たちも褒めていた。宣伝をするのなら、美しい女性のほうが関心も集まりやすい」
マリアは笑顔で頷く。
「伯爵の頼みを、お断りするわけがありません。私にできることでしたら、精一杯努めさせていただきます。ただ、引き受けるに当たって、いくつかお願いがあるのですが……」
「構わない。君にねだられるのは、満更でもないな」
自分に必要なことを考えながら、マリアは話を続けた。
「まず、リーリエをしばらく私に貸してください。いくらあの子が優秀だと言っても、競技に出るのなら練習をしないといけませんから」
「それは当然の申し出だな」
「それから、乗馬服を仕立てて頂きたいのです。ドレスで出るわけにはいきませんし、かといって、いまも着ているような男物の服では、宣伝としては情緒がないように感じます。男物の乗馬服で、それでも女らしさが伝わるようなデザインの乗馬服が欲しいです」
「それも当然だな。他には?」
「交流会での評判は、オルディス領にも届くようにしてください。私の勇姿が公爵領に広く知れ渡れるのであれば、断然やる気が出ます」
最後の頼みについて、伯爵は一瞬の沈黙ののちに了承した。マリアの思惑を察したようなそぶりを、マリアもまた素知らぬふりをして受け流す。
明日からリーリエを連れて特訓だ。
馬術競技では必ず高評価を得よう。伯爵のためにも、自分のためにも。




