嵐の前の静けさ (1)
オフェリア・デ・セレーナが王子の妃となり、王の愛妾であるその姉が妊娠した。
それは、大きな波紋を呼んだ――表面上は穏やかな人々も、水面下に潜ってみればこんなもの。
そんな静かな騒ぎもマリアは無視し、何食わぬ顔で城を訪れる。
貴族たちの焦りなど、マリアにはどうでもいいこと。自分たちの結末が決まれば、どうせ彼らの行く末も決まってしまうのだから。
――王都へ戻るなり、マリアは、グレゴリー王から即座に呼び出された。
それも謁見の間ではなく、王の私室へ。苦笑いするしかないが、マリアはそれに応じ、王のもとに参上した。
「戻って来たか。そなたも、腹の子も、元気にしておるようで安堵した」
「恐れ入ります。おかげさまで……このように、少しお腹も大きくなってまいりました」
ゆったりとしたドレスの上から腹をさすれば、目視できる程度の膨らみが。
王に誘われるまま長椅子にマリアは腰かけ、その隣に王が座る。王も、恐るおそるマリアの腹に手を伸ばし、確かな存在を感じ取っていた。
「まずは、無事に安定期に入ったことを喜ぼう。公に明かすのはまだ少し先になる。恐らく、多くの者が気付いてはおろうが」
「陛下のご配慮には感謝しかございません」
そう言って王の手に自分の手を重ねながらも、マリアは王の顔を直視できなかった。
この問いかけは、さすがのマリアもためらう……が、確認しないわけにはいかない。緊張に、ほとんど無意識の内に自分の唇を舐めて、マリアは口を開いた。
「……グレゴリー様は、この子の父親は自分だと、本当に信じてくださっているのですか?」
マリアは、愛する人の子だと信じている。だがそれは、何の根拠もない信頼だ。
マリアですら誰が父親なのか分からない子ども……王が当たり前のように我が子と認定していることが、不安でならなかった。
「余は、王家の血がそれほど尊いものだとは思うておらん。十代も遡れば、貴族どころかただの市井の人間だった家系だ。所詮その程度よ……。血を長く継ぐということは、それだけ罪や穢れも受け継いでいくということだ。余は、あの男の血を引いていることを誇りに思ったことはない。ただの一度もな」
グレゴリー王は、自身の父王に対して複雑な感情を抱いている。
先代王は、傲慢で独善的な男で。 無能だったわけではない。ある部分では、確かに有能な王であった。
だがその傲慢さが多くの失敗も生み出したというのに、それらは語られることなく偉大な王として称えられ、グレゴリー王が自身の治世で尻拭いに奔走させられる羽目になった。
……なまじ血の繋がった父子だからこそ、その感情はより複雑で、険悪なものに……。
「余が認めておればそれでよいのだ。オルディス公爵家とて王家の血を引いてはおる。王の血筋が重要だというのなら、それで十分だろう」
たしかに。マリアとグレゴリー王は、家系図でいえば親戚だ。かなり遠いが。そのマリアの子なのだから、エンジェリク王家の血を引いていないわけではないのだが……。
「……もうしばらく禁欲生活か。わがままは言えんな」
自分を抱き寄せてそう呟く王に、マリアは苦笑する。王の肩にもたれかかり、甘えるように身をすり寄せた。
「グレゴリー様、お医者様からはそういったことの許可は出ていますのよ。どうか優しく慈しんでくださいませ。壊れ物を扱うぐらいに」
マリアが言えば、王が抱きしめる力を強めてくる――普段よりずっと緩やかにではあるが。
王との私的な対面を終え、マリアはオフェリアの待つ離宮へ向かっていた。
今日は、久しぶりの城の様子を確認するために来ただけ……長居するつもりは最初からなかった。
自分の妊娠も、そろそろ貴族たちの間で噂になっているだろうし……離れていたことで、王が冷静さを取り戻しているか気になったというのもある。寵愛はありがたいが、行き過ぎは困る……。
「あら。ご機嫌よう。チャールズ殿下」
廊下でばったり出くわしたチャールズ王子に、マリアは笑顔であいさつする。王子はぐっと唇をかみしめ、拳を握りしめた。
どうやら、恥知らずなマリアを罵倒してやりたい感情と、伯父からの言いつけを守らなくてはならない理性の間で必死に格闘しているらしい――チャールズ王子の伯父レミントン侯爵は、王子にまともな行動を取らせることができる唯一の人物だ。
王子も城から離れて地方にしばらく引っ込み、ちょっとは短慮な言葉を飲みこめるようになったようだ。
「チャールズ様!そんな人と、挨拶をする必要なんてありません!」
突然割り込んできた少女に、マリアは目を瞬かせた。
こちらも顔を合わせるのは久しぶり――モニカ・アップルトン男爵令嬢だ。
ふしだらな場面をマリアに目撃されたというのに、恥じらうどころかマリアを睨みつけて来る始末……。それぐらい生意気なほうが、こちらも容赦のない態度が取れるから有難い。
「なんて恥知らずなの……!チャールズ様と婚約してるくせに、陛下まで誑かして……しかも、妊娠までするなんて!」
モニカの言葉に、王子の親衛隊が動揺する――もちろん、彼らもマリアの妊娠は薄々気付いていただろう。問題は、公然の秘密であり口に出してはならない禁句を、彼女が言ってしまったこと。
……相変わらず、隙だらけで危なっかしい少女だこと。
「殿下。一時の火遊びにしてもお相手は選びなさいませ。そんな女では、殿下の評判にも傷がつきますよ」
「黙れ!」
王子が顔を真っ赤にし、怒鳴った。ついに、マリアを罵倒したい感情が勝ったようだ。まだまだ忍耐力は足りないらしい。
「モニカへの侮辱は許さんぞ!いや、モニカだけではない。貴様には、誰であれ他人を侮辱する資格もないのだ!この淫乱な魔女め!」
「まあ、そんなに褒められると照れてしまいます」
王子がずいっとマリアに迫るのを、マリアの護衛であるララが阻んだ。
ララは背も高く、体格も良い。それに、武術の腕もたしかだ。エンジェリクの王国騎士団相手でも負けないほどに。
本来なら、主人を守るためとはいえ、たかが公爵の一従者……それも異教徒の外国人が王子にそのような無礼を働くことは許されないのだが、いまのマリアは事情が異なる。
「……彼女が陛下の愛妾で、いま妊娠していると、おまえたちはそう言った。その認識がありながら手をあげること――それが何を意味するか、分かってての行動だろうな。そっちの親衛隊連中も――いくら王子でも、妊娠中の愛妾に危害を加えれば、その場で斬られたって文句は言えないんだぜ」
ララが立ちはだかるのを見て帯刀した剣に手をかけていた親衛隊も、悔しそうに歯を食い縛った。
モニカは、マリアを非難した。
「あなたって本当に酷い人だわ。きっと、人間らしい心を持っていないのね……!」
「殿下、警告は致しましたよ。それにアップルトン男爵令嬢のこと……苦言を呈するのは、私だけではないのでしょう?一度、しっかり考えてみたほうがよろしいですわ」
モニカのことは完全に無視し、マリアはチャールズ王子にもう一度笑顔で頭を下げ、その場を立ち去った。
王子の姿が見えなくなると、ララが大きく溜息をつく。
「……まったく。煽るのもほどほどにしとけよな」
「半分ぐらいは皮肉と嘲りだけれど、もう半分ぐらいは本心からの警告だったわよ――フランシーヌから使者が来るんだもの。チャールズ王子の破滅は大歓迎だけれど、その原因をフランシーヌに作らせるわけにはいかないわ」
チャールズ王子が、フランシーヌ相手に迂闊な真似をするのは見逃せない。
エンジェリク王家の威信が傷つき、引いては、ヒューバート王子や王子妃となったオフェリアもその不利益を被りかねない。
フランシーヌはエンジェリク、そしてヒューバート王子にとって、因縁の相手なのだから……。
「一応、友好を建前にしてはいるんだよな、あちらさんも。戦に発展するようなことがないといいな」
「私もそれが最大の懸念よ。戦争になれば、ヒューバート王子がその先陣を切ることになるのだから」
二度の戦を経て、軍部から強い支持を受けるようになったヒューバート王子。つまり、今後戦争が起きれば、ヒューバート王子は出陣を避けられなくなるということ。
チャールズ王子は軍部からの支持を失っている――皮肉なことに、そのおかげでチャールズ王子は戦からは遠ざかっていられる……。
「戦が始まってしまうと、女の私にできることは何もないわ。だから私がすべきことは、戦になる前に手を打つこと……」
フランシーヌのことを考えていたマリアは、ララに肩を掴まれて立ち止まった。下へ降りる階段の前で止められ、ララの顔を見る。
ララは、目線だけで指した――物陰から、女官が一人こちらをうかがっている。あれは……ジュリエット王女の侍女の一人……。
「迂回するぞ」
何も気づかなかったようなふりをして談笑を続け、マリアはその階段を通り過ごした。
あの階段には何かが仕掛けられている――だいたい予想はつく。妊娠中のマリアと、階段……むしろ、他に思いつくことがない。
「おまえ、本当に気をつけろよ。あんま敵意を煽ると、厄介なことになるぞ。さっきみたいな物理的な仕掛けは問題ないけど……とりあえず、身の回りの持ち物には気をつけろ。どんな小さなものでも、紛失したものがないか見落とすなよ」
マリアがきょとんとしていると、ララが苦笑した。
「そっか。おまえ、聖職者嫌いから発展して、オカルトも嫌いだったな。だから呪いとか、そういうのにはまったく無警戒なんだろ」
「呪い」
マリアは顔をしかめた。そんなもの馬鹿馬鹿しい――内心が、思いっきり顔に出てしまった。
「一番効果があるのは血や髪の毛だが、相手の持ち物を依り代に呪うのは、よくあるやり方だ。特に呪いは、女が好む――毒と同じぐらいにな」
呪いのことを鼻先で笑い飛ばすマリアに、ララが警告する。
「おまえを呪いそうな女に、心当たりはあるだろ?チャールズ王子を巡る恋敵……父親を奪われた娘……愛妾に寵愛を奪われそうな正妻……。呪いに手を出す女ってのは、たいてい嫉妬に狂ったなれの果てだ」
ララの警告も一理ある――マリアはそう思った。
嫉妬に狂った女が、相手の女を呪う。いかにもな状況だ。そしてマリアは、すでに複数の女から強い嫉妬心を向けられる立場にあるわけだし。
「まあ、俺も、おまえが呪いなんぞに負けるとは思ってない。おまえの強靭な精神力があれば、呪われたところで跳ね返して終わりだ。それが心配なんだよ。跳ね返した呪いは、周囲を巻き込む。おまえの周りの、弱い人間を……」
マリアは黙り込んだ。
一理どころか、かなり痛いところを突かれて。さすがにこればかりは、ララの言い分を認めるしかない。
マリアが呪われて、その周りにいる人間にその呪いの矛先が向いてしまう。呪いに負けてしまいそうな、儚い存在に。
「ヒューバートが心配したのも、そういうことだろ。オフェリア一人を守るだけならなんとかなるだろうが、身の回りの物何一つ失わせずとなると、さすがのヒューバートもいまの状況じゃ守り切れねえ。だから屋敷に帰した」
「……そうね。オカルトは嫌いだけど、あなたの警告は肝に銘じておくわ」
呪いだけではない。
マリアに向けられた攻撃――マリア自身はそれを回避できるかもしれない。だがマリアの周りにいる人間が、思いもかけぬ余波を受ける可能性はある。
……だからこそ、マリアもチャールズ王子に警告してやったのだ。
チャールズ王子がその浅はかさと無防備さで破滅するのは構わない――だが王子の破滅が、他の重要な人物も破滅させてしまう恐れがある。それは、マリアの本意ではない。
王子妃となったオフェリアのためにも、エンジェリク王家が危機に瀕することは望まない。




