幸福
日も高くなり、朝食の時間はもう終わる。静かな寝室に視線をやり、マリアが言った。
明け方近くまで起きていたようだが、いまはもう眠っているのではないだろうか。
「そろそろ、一度声をかけたほうがいいかしら」
「そうですね」
ナタリアが隣の部屋の様子をうかがう。こういう状況では、ナタリアのほうが何かと鋭く察し、気を配って動ける。
マリアが寝室へ行くと、ヒューバート王子は目を覚ましていた。オフェリアは眠っている。
ナタリアは着替えを持ち、王子に声をかけた。
「殿下。マルセルは休んでおりますので、今朝は私がお手伝いさせて頂きます」
「頼む」
寝息を立てて眠るオフェリアの髪を優しく撫でてから、ヒューバート王子はベッドから降り、着替えを始める。
ベッドのそばで動く気配に、オフェリアも目を覚ました。
「おはよう、オフェリア」
王子が愛しそうにオフェリアを見つめ、挨拶をする。
寝ぼけ眼のオフェリアは、しばらくパチパチと目を瞬かせた後、ぼっと赤くなった。
そしてシーツを身体に巻きつけ、ベッドの上でじりじりと後ずさりする。ヒューバート王子から距離を取るかのように。
「お、オフェリア……」
困ったように笑い、王子はオフェリアに手を伸ばそうとする。いやっ、と小さく声をあげ、オフェリアはさらにシーツに丸まってマリアの後ろに隠れてしまった。
マリアはくすりと笑い、王子を止めた。
「殿下、ここで無理に迫ると、オフェリアに一生恨まれますよ。私にお任せして、このまま少し距離を置いてくださいませ」
マリアは、自分の後ろに隠れるオフェリアを優しく撫でる。
「まずは身体を清めなくちゃ。一緒にお風呂に入りましょうか」
シーツの隙間から少しだけ顔をのぞかせ、オフェリアは小さく頷いた。
ナタリアがすでに用意してくれたお湯に浸かり、オフェリアの髪を洗う――肌に残る情事の跡も一緒に、丁寧に身体を洗い流していく。
妹の性事情を知るのは、あまり愉快なことではない。でもオフェリアに教えられるのは自分だけ。マリアが教えるべきことなのだ。目を逸らすべきではない。
「ねえ、お姉様。お姉様も、伯爵とああいうことしてるの?」
オフェリアに尋ねられ、曖昧に誤魔化すことなくマリアは頷く。
「ええ。だって、私とヴィクトール様は愛し合っているもの」
「愛し合ってるとするの?じゃあナタリアもデイビッドさんとしてるの?ベルダもマルセルと?」
「そうよ。子供を作るための行為……でもそれだけじゃなくて、愛情を確かめ合う行為でもあるのよ。オフェリアは、殿下とそういうことをして嫌だった?」
オフェリアが首を振り、小さな水しぶきが湯の上で跳ねた。
「でもね。ユベル、ちょっぴり怖かったんだよ。私、怖くてちょっと泣いたのに。やめてくれなかった」
拗ねたようにヒューバート王子の蛮行を言いつけるオフェリアに、マリアは笑う。そんなことを言えるのなら、もう心配なさそうだ。
「そのうち怖くなくなる?」
「怖くないように、殿下には上達してもらわないとね。怖いだなんて感じさせる殿下が悪いのよ」
マリアが厳しく言えば、オフェリアは眉を八の字にする。
「ユベルだけが悪いんじゃないよ。たぶん。ユベルとぴったりくっついてるのはすごく幸せだったもん。ユベルはまだ慣れてないから、下手くそなだけだよ」
オフェリアとしては精一杯のフォローのつもりだったのだろうが、マリアは大笑いしてしまった。
下手くそ……しばらくは、そのネタでヒューバート王子をからかうことにしよう。
「オフェリア、痛みのほうは大丈夫?」
「うーん……大丈夫。ちょっとじくじくするけど。痛いのは我慢できたよ」
ちょっぴり誇らしげに話すオフェリアを、マリアは抱きしめた。
その痛みを、マリアは幸せなものと感じることはできなかった。痛みがあっても幸せそうに笑っている妹が少し羨ましくて、胸が痛んで。
でも自分は、これで良かったと思う。夢の世界でまどろんでいるのは、マリアには似合わない生き方だ。
風呂から出る頃には、オフェリアも普段通りの元気な女の子に戻っていた。
それでも、出て来るのを待っていたヒューバート王子を見て、マリアの後ろに隠れてしまったが。
自分の前でおろおろとしているヒューバート王子に笑みと溜息をこぼし、マリアはオフェリアに向かって言った。
「オフェリア、ちゃんと言葉にして伝えなくちゃだめよ。殿下だって初めてで慣れてないってこと、あなたも分かってるでしょう?」
マリアの後ろからちらりと顔をのぞかせ、オフェリアは上目遣いにヒューバート王子を見つめる。
「昨夜のユベル、ちょっと怖かった」
「ごめん……」
「でも嫌じゃなかったよ。ユベルのことが嫌いになったわけじゃないからね。ただ……恥ずかしいんだもん」
そう言って、またマリアの後ろに隠れてしまう。今度は王子も目を瞬かせ、笑うだけの余裕も見せた。
「いきなりべたべたせず、紳士の余裕を見せてくださいね。白い結婚を貫く覚悟があったのなら、今日一日ぐらいはオフェリアから距離を取って気を遣うぐらい、余裕でしょう」
マリアがにっこり笑って言えば、ヒューバート王子の笑顔が凍った。
白い結婚を貫く覚悟はあっただろうが、肌を重ねてしまうと、そんな決意は守れなくなる――それは、マリアにも分かっていた。一度幸せを知ってしまったら、我慢するのは辛いものだ。
「……冗談です。我慢は、日が沈むまでで充分だと思いますよ」
王子は頷き、オフェリアを怯えさせない程度に近付いて、二人で一緒に遅い朝食を取り始めた。
マリアも、オフェリアの緊張を緩和するために同席した――時折空気扱いされて、二人の世界に入ってしまうのを、苦笑しながら傍観する。
幸せいっぱいの新婚夫婦に付き合うのは、なかなか大変だ。
それから数日間、オフェリアとヒューバート王子の蜜月は続いた。
何日もの間オフェリアを王子に独占されるのは少しばかりイラっとしたが、二人の蜜月が終われば、マリアも王都に戻ることになり、穏やかな日々も終わる。
一抹の寂しさはあった。
そしてマリアが王都へ戻るより先に、ロランド王がキシリアへ帰る日がやって来た。
本当は港まで見送りたかったのだが、マリアが妊娠していることや、オフェリアの蜜月を邪魔したくないとロランド王は主張し、オルディス領で帰国に向けて出発する王とシルビオを見送ることとなった。
「息災でな、マリア、オフェリア。そなたたちの幸せそうな姿は、アルフォンソにも報告しておこう」
「はい。ありがとうございました、ロランド様。お会いできて嬉しかったです」
浮気とか浮気とか浮気とか。
困ったことも色々あったが、やはり王に会えたことは嬉しい。もう故郷へ帰ることもなくなってしまい、会うことのできないはずの人となっていたから……。
「マリア。思いもかけぬ休みを手に入れ、真っ先にそなたたちに会いに行くことを考えたのは事実だ。恐らくは、もうこうして会うこともできまい」
王が言った。
笑顔ではあったが、王もまた、どこか寂しさを感じさせるものがあって。マリアも微笑み、静かに頷く。
そうだ。本来なら、王が国を離れるなんてことは気軽にできることではない。今回はきっと、色々と条件が重なってエンジェリクに来ることができただけ。次を期待できるような幸運ではない。
「元気な子を産め。男だったら、イサベルの婿だからな」
「考えておきますわ」
マリアは笑い、それからシルビオを見た。
シルビオもまた、気楽には会えない相手だ。今回は王のお守りで二人で過ごす機会もほとんどなかったが、キシリア――そして王を思う、大切な同志。
「時々は会いに来て」
「……おまえがそんな殊勝なことを言うとは。明日は槍が降るな」
そう言いながらも、シルビオは優しくマリアを抱きしめる。
懐かしいキシリアの香りを持つ人。故郷はもう、マリアにとって遠い存在だ。故郷とマリアを繋いでくれるシルビオには、これからも会いに来てほしい。
そして王子とオフェリアの蜜月が終わり、マリアはついに王都へ戻ることとなった。
オフェリアをヒューバート王子が暮らす離宮へ送り、新しいオフェリアの部屋を確認する。
あらかじめ必要なものは買い揃え、部屋はすぐにでもオフェリアが暮らせるよう整えてあったが、やはり急な結婚だ、もう少し買い物をする必要があるだろう。
「また後日、ホールデン伯爵を連れて来るわ。王都の本店をついに買い戻したから、伯爵もしばらくはクラベル商会のことで忙しくて。すぐ、というのは難しいかもしれないけれど」
オフェリアの頬にキスをし、別れの挨拶を告げてマリアは城を出た。
王都にある屋敷に帰り、長椅子に腰かけてようやく一息つく。
ほんの数か月留守にしていただけなのに、ずいぶん屋敷の中が様変わりしてしまったような気がする。
きっとそれは、屋敷の中にいる人が少ないせい。
もともと人は多くなかったが、オフェリア、ベルダ、アレクがいなくなり、少ない人数はさらに半分になってしまった……。
「……なんだか、屋敷がとても静かね」
ナタリアが用意してくれた紅茶を飲みながら、マリアは呟いた。
本当に、とナタリアが同意する。彼女もまた、どこか寂しそうだ。
「賑やかな人たちが、一気にいなくなってしまいましたから……」
「そうね。みんな……行ってしまったのね」
ついに、オフェリアは自分の下から飛び立ってしまった。
明るい笑い声も、ちょこまかと動き回る姿も、もうこの屋敷にはない。
朝起きたらマリアに髪を結ってくれとねだり、夜寝る前には本を読んでと甘えて来ていた――その習慣も、もうこれで終わりだ……。
……と、思っていたのに。そんなマリアの寂寥感は、三日ももたなかった。
「お姉様!里帰りしに来たよー!」
「……いくらなんでも早過ぎじゃ……」
自分に飛びつくオフェリアに困惑しながら、マリアが言った。いや、帰って来てくれるのは嬉しいんだけど。
「だって!お姉様はたった一人の私の家族なんだよ!そのお姉様が妊娠してるんだから、私が一緒に暮らして、お世話するのは当然だもん。ユベルがそう言ってくれたよ!」
オフェリアを送って来た王子に、マリアは視線をやる。ヒューバート王子はニコニコしていた。
「公にするのはまだもう少し先だが、城へ出るんだろう?子どものこと……ほとんどの貴族が気付く。公然の秘密になる」
「それは私も同意です」
ゆったりとした服を着れば誤魔化せる範囲とはいえ、マリアのお腹は膨らみ始めた。これでマリアの妊娠を気付かせないのは無理というもの。公表まで周囲も黙ってはいるだろうが、確実に噂にはなるだろう。
「……それを口実に、オフェリアを城から下がらせたいんだ。いまの城に、オフェリアを置いておきたくない」
オフェリアが持ち帰った荷物を解きに行ったのを確認し、ヒューバート王子が低い声で言った。その表情は真剣そのもので――どこか暗い。
「フランシーヌから使者が来る。かつてのフランシーヌ王家の縁者である僕の結婚を祝いに。これを機にエンジェリクとフランシーヌの友好を深めるため、と言ってはいるが、僕はとても信頼する気にはなれない」
王都に戻り、マリアの穏やかな休みは終わった。
――渦中へと、マリアは再び身を投じることになる。




