領主様の幸せ
風呂でマリアに身体を洗ってもらい、風呂から出ればマリアにマッサージをしてもらう。
ベッドに横になりながらマッサージを受けるオルディス公爵領領主エリオット・オルディスは、至福の時間を味わっていた。
「うーん。風呂っていうのは、気持ちの良いものだね」
「ふふ。入浴の良さをおじ様が理解してくださって、私も嬉しいですわ」
エンジェリクでは、入浴の習慣がない。
月に一度も入れば綺麗好きなほうで、生涯で一度も風呂に入ったことがない、なんていうつわものも少なくはない。
おじも、入浴は月に二回程度だった。
それが、マリアが滞在している間は毎日入るようになり、マリアがいなくなっても週に一度は自主的に入浴するようになっていた。
すっかり風呂の良さを知ったおじは、なんとオルディス領に公衆浴場を設置した。
衛生的で、水が豊富なオルディス領だからこそ作れた施設。
最初は領民たちも戸惑っていたけれど、いまや毎日の生活に欠かせない場所となり、近隣の領民までやって来るほどの人気スポットだ。
「このマッサージも、領民たちにすすめてみようかな」
「とても良い案だと思います。けれど、これも風呂と同じように男女でしっかり分けておかないと、教会がうるさいでしょうね」
「そうだね。僕もちょっとこう……やっぱり、マリアにしてもらうと変な気分になるっていうか……」
内心を素直に白状するおじに、マリアはくすくすと笑う。無防備なおじの背中に圧し掛かり、おじの耳元に唇を寄せた。
「では、そろそろ交代に致しましょうか。おじ様。私にもマッサージをしてくださいな」
ガバッと起き上がったおじが、マリアをベッドに押し倒してくる。簡単な服を着ただけのマリアは、あっという間に衣服を奪い取られた。
所用でオルディス領を離れていたダニエル・バンクは、ただいまと挨拶をしながら、領主の姿が見えないのできょろきょろと探し回っていた。
「ご領主様なら、まだお休みだよ。昨日、公爵様が来てくださったからねえ。今日は昼まで寝坊だろう」
屋敷の召使たちが、明るく笑いながら話す。ダニエルも苦笑し、用事は後にするか、と呟いた。
「公爵様が来てくださると、ご領主様は本当に幸せそうだよ。見てるこっちもなんだか幸せな気分になるねえ」
「ほんとに。奥様やお嬢様が生きておられた頃には、考えられないほどだ」
「それほどまでに、マーガレットお嬢様と言うのは酷かったのか?」
おしゃべりをする召使いたちに、ダニエルが口を挟んだ。
領主の妻――ローズマリーが悪妻であったことはダニエルも知っている。
ダニエルも当時はエリオット氏を侮っていたが、そんな自分から見ても眉をひそめたくなるほど、ローズマリーのエリオットに対する態度は酷かった。
ローズマリーを諌めていた父親が生きていた頃からそんな有様だ。それをたしなめる人間がいなくなった時どうなるか。想像に難くない。
「亡くなった人を悪く言うのもどうかとは思うけど……あの子はねえ。ひどい言い草だとは思うが、早くに亡くなって、かえってあの子のためだったと思うよ。生きていたら、それこそ大勢の人間から恨まれて、むごい末路を迎えることになったかもね……」
マーガレット・オルディスの悪行のひとつを、召使いが話してくれた。
マーガレットが十歳になった頃。
若くハンサムな家庭教師がやって来た。
その青年に恋をしたマーガレットは、婚約者もいて雇用主に強く出れない彼に人目もはばからずアピールした。しかし――当然と言うか――青年はマーガレットにまったくなびかない。
そのことに腹を立てたマーガレットは、彼に襲われたとでたらめを叫び出した。
マーガレットの性根の悪さを知っているオルディス領の人間は誰もそれを信じなかったが、マーガレットという少女の実態を知らない遠くの人間はそうはいかなかった。
家庭教師の青年は婚約を破棄され、家族からも絶縁された――おぞましい犯罪者を許せない、と誤解して。
青年はたまらず家庭教師を辞め、故郷へ帰って行ったが……。
「ご領主様も当時はお忙しい方だったからね。彼のその後を気にしてはいたんだが、どうしても手が回らず……。訃報を聞いて初めて知ったよ。マーガレット様のせいで、取り返しのつかないほど人生をめちゃくちゃにされたってことを」
家族や婚約者の誤解は解けないまま。前の雇用先で教え子の少女に乱暴を働いた犯罪者というレッテルを張られたまま。
どうにもならなくなった彼は絶望し、命を落とした……恐らくは自殺。
「ひどい話だ」
ダニエルが呟いた。
「そうだろう。そりゃね。奥様のお嬢様に対する扱いが、真っ当な母親のそれじゃなかったことは知ってたさ。だから、お嬢様もある意味では気の毒な被害者かもしれないけれどねえ……もう、お可哀そうと言ってやれるほどの人間じゃなくなってたよ。近くにいるあたしらにとっちゃ、死んでくれてホッとしたってのが正直な感想だ」
第三者から見れば、きっと召使いたちの言い種は酷い、と思うことだろう。だが身近にいて、その被害を受けて来た人間にとっては、仕方のない本音……。
「亡くなったお嬢様には悪いけどね、あたしらも苦しい昔は思い出したくないよ。いまはオルディスも幸せで、ご領主様も幸せそうだ……公爵様が来てくださってから良いことばっかり……あたしらにとっては、愛人だろうが乗っ取りだろうが、公爵様を支持するよ」
そう――オルディス公爵は領主の愛人であり、もとは外国人。
正妻やオルディス本家の人間からすれば、彼女の行いは略奪であり家の乗っ取りだ。
それでもオルディス公爵への批判の声がないのは、それほどまでに正妻たちに領民が失望していたから。
領民にとっては、自分たちの生活を守ってくれる領主様――そんな領主様を支えてくれる公爵に感謝しかない。冷たいようだが……多くの民を守る義務を放棄していたローズマリーを支持する者はいない。
領民のほとんどは優しい領主の幸せを願い、その幸せがオルディス公爵と共にあることだと分かっていた。




