お風呂を巡る攻防戦
今日も今日とて楽しいお風呂の時間。
ララと一緒に入ろうと思っていたマリアは、屋敷の中にその姿がないことに気付いてアレクに声をかけた。
「アレク。ララを見なかった?お風呂に誘うつもりだったんだけど……」
アレクが首を振り、知らないと意思表示をする。そう、とマリアも小首を傾げた。
「どこかに出かけてるのかしら」
ララの外出を、マリアは制限していない。護衛が必要になった時だけしっかりと働いてくれるなら、あとは自由にしていて良いと思っている。
……でも、外出するなら、やっぱりマリアに一声かけて欲しかったとも思ってしまう。
「仕方ないわね。アレク、お風呂の世話を今日はあなたに頼んでもいいかしら?」
マリアが聞けば、わかった、とアレクが頷く。
タオルや着替えの準備をするためマリアの部屋に招き入れようとしたら、ものすごいスピードでララが走り込んで来た。
「アレク!てめえ、俺を縛りつけて倉庫に押し込むんじゃねえ!マリアも少しは不審がれ!」
「あら」
忌々しげな表情でアレクが舌打ちしているのを見て、悪い子ね、とマリアはアレクの額を小突いておくことにした。
「あのなぁ、マリア。おまえ、もうちょっとアレクに警戒心持てよな。いつか絶対、あいつに襲われるぞ」
マリアにくっついて離れないアレクを引きはがした後、ララはマリアを引っ張るようにして風呂場へ連れて来る。そしてマリアに説教を始めた。
「うーん、警戒心……そうね。アレクを警戒しろって言われても、ピンとは来ないかも」
初めて会った時のアレクはあどけなさの残る少年で、そういう対象で見るなんてことはあり得なかった。
あっという間に成長していまは立派な青年なのだが、いまでも会ったばかりの感覚で接してしまっているような気がする。
「とっても可愛い子だったのに」
「チャコの男を甘く見ると本当にヤバいぞ。エンジェリク人はあれで、結構紳士なんだからな」
まだララとアレクが屋敷へ来て間もなかった頃――アレクが、少年と呼ばれるようなあどけない容姿だった頃。
屋敷の図書室で、マリアはアレクと出くわした。
アレクは部屋に入ってきたマリアにすぐには気付かず、手にした本を見つめ静かに涙を流していた。
マリアに気付くと、ハッとした表情で、急いで目元を拭った。
「ごめんなさい。間の悪い時に来てしまったみたいね」
マリアが言えば、アレクが首を振る。
『ララには言わないで。あいつ、すぐ気にするから』
「もちろんよ。そんな野暮な真似しないわ」
ララは、アレクの家族が処刑され、遠い外国まで逃げる羽目になったのは自分のせいだと思っているふしがある。
たぶん、ララを処刑する口実をスルタン――チャコの皇帝が探していたのは事実。ただ、戦士として名高いアレクの父親を疎ましく思っていたのもあるはずだ。
どちらのせい、ではなく、どちらもまとめて始末してしまいたかったのが、スルタンの本音だろう……。
「もうエンジェリク語が読めるようになったの?」
『もともと簡単な文章なら読めてた。それにこの話、原典はチャコでも有名な物語だから。姉さんが好きだった……』
持っている本を見つめ、アレクの瞳が揺れる。
アレクが読んでいるのは、すぐに妻を処刑してしまう残虐な王の下に嫁がされた女性が、その知恵を持って処刑から逃れ、最後は王の寵愛を得て幸せになる――チャコ帝国を経由して西に伝わってきた物語だ。
『王様と幸せになるのは、こっちの地域での付け加えられた結末だ。キシリアでこの話の結末が付け足されてるのを知ったララが持って帰って来た。それを読んだ姉さんは、いつか自分も、夫と心通わせ合う夫婦になれることを夢見てた。姉さんとララに面識はなかったけど、僕や父さんはララのことをよく知ってたから、スルタンが縁談を持って来たときにはすごく喜んだよ』
それだけ言うと、アレクは黙り込んだ。
なんと惨い話だろう、とマリアですら言葉を失ってしまう。
ララと結婚して、アレクの姉は間違いなく幸せな花嫁になるはずだった。きっとララなら彼女を大切にしたはず。
だが現実は……。
慰めの言葉も思いつかず。マリアはアレクを抱きしめた。アレクも、抵抗することなくマリアの胸に顔を埋めていた。
『故郷に未練はないけれど、ひとつだけ心残りがある。姉さんの遺体がどうなっているのか……』
チャコ……というかエルゾ教の女性に対する厳しさは有名だ。貞節を守らなかった女性は惨たらしく処刑され、まともに弔ってもらうこともできない――例えそれが、憐れな暴力の被害者であっても。
夫以外の男に身体を触れさせた。その事実だけで大罪人扱いだ。
「いまのスルタン……セリム様に手紙を書くわ。帝国国内は酷く混乱しているから、いま外国から攻め入れられる口実を作りたくないはず。気の毒な女性を手厚く葬らないのなら、エンジェリクでその非道さを広く知らしめると。そうほのめかしておけば、スルタンも体裁を整えようとするでしょう」
それにいまのスルタンも、母親や妹、妻と、身近な女性を犠牲にしている。アレクの姉のことも一緒に憐れんでくれるかもしれない。
そんな思いも込めてマリアが言えば、アレクは小さく頷き、その手が何かを伝えようとして震えていた。
――ありがとう……。
「……さて。アレク、お風呂に入るわよ。身体を洗ってあげるわ」
『いまの流れでどうしてそうなるの』
アレクが盛大に顔をしかめるが、マリアは明るく笑った。
「お風呂に入って寝る。悩み事から抜け出せない時はそれが一番よ。お風呂に入ってさっぱりしたら、シエスタにしましょう」
ぐいぐいと腕を引っ張られながら、アレクは渋々マリアについていく。まだ不満そうなアレクに、マリアが言った。
「大丈夫よ。襲ったりしないから」
『それ、そっちが言う台詞なの?』




