序幕、終演
王は依然険しい顔でレミントン侯爵と向き合っていた。そんな王と侯爵を、宰相とマリア、そしてヒューバート王子が見守っていた。
何が起きたのかを知らされていない貴族たちは、謁見の間から興味津々といった様子で覗きこんでいる。
それを咎めることすら忘れ、王は侯爵に説明を求めた。
「最近のチャールズ殿下は特に荒れていまして。私もしっかりと見張っておきたかったのですが、なにせ病み上がりの身。しかも私が療養している間に目まぐるしいほどに状況が変わり……それを整理するのに私も手一杯だったのです」
相変わらず愛想のよい笑顔で、侯爵は怒れる王を前にして怯みもしない。
レミントン侯爵は、己が地位にさして関心がないのだろう。だから今回のチャールズ王子のことで王の心証を損ねようと、それを弁明する必要もないのだ。
「どうか気の毒な殿下に憐れみを。陛下にもお心当たりはございましょう。想う女を、よりにもよって父親に奪われたのです。やり場のない気持ちを慰めてくれる女性が、チャールズには必要だったのですよ」
野次馬をしていた貴族たちがどよめく。
いまのレミントン侯爵の言葉によって、王がマリアを王子から奪ったこと、王子がまだ婚約が解消されたわけでもないのに他の女と関係を持ったこと……それらが暴露された。
王やマリアにとっていささか不都合なことではあるが、チャールズ王子とてこれで無傷ではいられまい。それを平然とやってのける侯爵に、マリアは寒気すらした。
マリアが王の愛妾となったことを、まるで公表しているかのような……。
「余に非があると言いたいのか」
王が厳しく言った。
「婚約が決まった段階から、チャールズ王子はオルディス公爵を無視し続け……ようやく顔を合わせてみれば、一方的な言いがかりをつけて罵倒する始末――あの女は、前も連れていたな。あの時の女とまだ手を切ることなく、今日、この時に……余に対する侮辱も限度を超えておる」
やはりこうなるだろうな、とマリアは冷ややかな思いで王と侯爵の会話を傍観していた。
マリアが拒めば、王子は必ず他にはけ口を求めるだろうと。その相手がモニカ・アップルトン男爵令嬢になることも予想していた。
王子の立場にある男が、安易に女性と関係を持てるはずがない。とは言え、まともな貴族の令嬢が、婚約者のいる王子に求められて応じるはずもない――モニカのように、無防備で真っ当な貴族令嬢としての感性が育っていない女でもない限り。
謁見の間に、チャールズ王子が入って来た――モニカを連れて。
王はもはや彼女を視界に入れようともせず、その存在を無視するようにチャールズ王子を真っ直ぐ見据える。
「王子よ。それほどまでに余の決定が気に食わんか」
チャールズ王子はむすっとしたまま何も言わない。王子の腕にしがみつくモニカだけは、状況が理解できず忙しなく周囲に視線をやっていた。
「良いだろう。ならば――」
グレゴリー王が、重々しく宣告する。
「ヒューバート王子とオフェリア・デ・セレーナの婚姻を認め、チャールズ王子とマリア・オルディス公爵の婚約を、ここに破棄する」
一瞬の沈黙。
宰相もレミントン侯爵も平静を装いながらも口を閉ざし、ヒューバート王子は息を呑んだ。
そして、チャールズ王子が歪んだ笑みを浮かべる。
「キシリアの魔女め。エンジェリクを乗っ取ろうと思ったのに、当てが外れて残念だったな。お前の野望もここまでだ」
マリアを嘲るように見下し、チャールズ王子が高笑いをする。だが王子の目は正気を失い……どこか自棄になっているようだった。
「男を誑かし、権力をほしいままにし、エンジェリク宮廷の風紀を乱したおまえは、王子の妃になど相応しくなかったのだ。惨めな最後を迎えるお前を、私が見届けてやる。お前の正体は、いまこの場で明らかになったのだからな!」
マリアの正体……。
たしかに、王子の言い分には一理ある。
王の愛妾であることが暴露されたマリアは、これから周囲が騒がしくなる。愛妾という立場に嫌悪を示す者もいる。決して歓迎されるものではない。
だが王子は気付いているのだろうか。婚約は、解消ではなく破棄された。
互いに納得の上での円満な解消ではなく、強制的な破棄。王が定めた契約を、王子の身勝手によって破棄することになった。王はそう宣告したのだ。
王としての王子への期待を、これで失うことになった。
父親の愛情が欲しくて、関心を向けて欲しくて……。幼稚な反発を繰り返して自滅するしかできない、気の毒な王子様。
王子への滑稽な思いと、ほんのわずかな憐憫。
そんな内心に、マリアは自嘲しながらチャールズ王子から顔をそむけ、静かに目を閉じた。
オフェリアとヒューバート王子が結婚する――。
貴族たちの関心はマリアに向けられていることだろう。今頃、自分たちの立ち位置について頭を悩ませているに違いない。
名ばかりの王妃と、王の寵愛を得た愛妾。
王子を擁立する王妃、王子妃となる妹を擁立する愛妾――王の妻としての権利を持つ者と、王の寵愛しか持たない者……どちらにつくべきか。
せいぜい悩んでいるがいい。マリアは、家を残すために必死な貴族たちに構っている暇はない。
まだ、マリアは道半ばにいる。
チャールズ王子が王からの期待を失ったと言っても、王子の支えが消えたわけではない。
レミントン侯爵はチャールズ王子を切り捨てるつもりがないらしい。彼が自分の保身と家の繁栄を考えるのなら、もうチャールズ王子など見捨ててしまったほうがいいのに。
侯爵がどれほどフォローしても、チャールズ王子本人がその浅はかさで台無しにし、王から何度も睨まれてしまっている。それなのに……。
ふと、マリアは不思議な想いにとらわれた。
もしかしたら、レミントン侯爵もマリアと同じなのではないだろうか。
自身の権力に無頓着で、チャールズ王子のために献身的なレミントン侯爵。傍目から見れば、彼の行動はマリアと酷く一致している。
王都にあるガーランド商会本店――かつてはホールデン伯爵が拠点としていた場所。
ほとんど無意識にマリアはそこを訪ねていた。
ラスボーン侯爵に放棄されてからも、まだここを買い取れていない。
なにせ王都の一等地。他の商人も狙っている。土地を巡る攻防が続き、クラベル商会がまだその所有権を取り返せていない。
何もない、空っぽの建物。
扉を押してみれば、入り口は開いていた。そっと店の中に入ってみる。建物の中には何もない――薄らと床に積もる埃を除けば。
階段を上り、伯爵がかつて執務室として使っていた部屋の前まで来た。床の埃は、マリアを誘うようにその部分だけ消えている。
……誰かいる。
「ヴィクトール様……オルディスから、戻ってきていたのですね」
何もないかつての執務室に立つのは、他ならぬホールデン伯爵だった。オルディス領にある店にいるはずなのに。
「君とチャールズ王子の婚約が解消されると聞いて、居ても立ってもいられず戻って来た」
婚約解消の内定が出た時点で、伯爵には手紙で知らせていた。
それに対して伯爵から何の返事もないので、てっきり伯爵は商会のことで忙しくしているのだと思っていた。まさか、王都に直接戻ってきていたとは。
「無事、私と王子の婚約は破棄されました」
「……そして君は、王の愛妾となった」
そう言って、伯爵はマリアを抱き寄せる。
「もう私のような男が、気楽に触れられる女性ではなくなってしまったな」
伯爵は苦々しく笑い、マリアの頬に手を伸ばす。そんな伯爵の手に自分の手を重ね、マリアはくすりと笑った。
「王の愛妾……そんなもので私が大人しく籠の中にいるような、殊勝な女ではないことをヴィクトール様はよくご存知でしょう。チャールズ王子との婚約がなくなった……お約束通り、私はヴィクトール様の子を生みます」
伯爵が目を丸くする。伯爵にそんな顔をさせられたことが愉快で、マリアは声を上げて笑った。
「気持ちは嬉しいが、以前よりそれは難しくなった。マリア。王から求められたら、君は断ることはできないだろう」
確実に伯爵の子を生むため、マリアはしばらく他の男から距離を置かなければならない。
だがいままでの愛人たちと違い、王はマリアに強制するだけの権力を持っている。マリアが拒めば、最悪オフェリアとヒューバート王子の婚姻を盾に取る可能性すらある。
王からの求めを拒むためなら……手段は選んでいられない。
「できます。そのためにノア様のお力を借りるつもりでした」
部屋の片隅に控えていたノアに、マリアは視線をやる。沈黙して二人のやりとりを見守っていたノアが、一歩マリアに近づく。
「ノア様。私の腕を折ってください」
ノアが驚愕に目を見開く。さすがの伯爵も、言葉を失っていた。
「文字通りの意味です。利き腕を骨折していては、いくら王でも私を寝所に呼ぶことはできません。大丈夫ですよ。私、もとは左利きだったんです。けれど幼少期に右手での躾けを受けて……。だから、本当はどちらの手でも問題なかったのです」
右袖をめくり、ノアに向かって差し出す。
ノアは、マリアと伯爵の顔を交互に見ていた。
その頼みを自分は聞き入れるべきなのかどうか、伯爵が拒否してくれないか。そんな心情が、ポーカーフェイスなはずの彼の顔に出ている。
「……マリア。私は君にそこまでの犠牲を強いるつもりは」
「私を想うのなら、ノア様に命じてください。私は、一番最初に生むのはヴィクトール様の子と決めているのです。他の男なんていや……!」
駄々をこねる幼子のように、マリアは首を振る。
マリアの焦燥は、たぶん、オフェリアを失う寂しさのせいもあった。
オフェリアがいなくなって、マリアは一人ぼっちになってしまう。その寂しさを埋めるものが欲しい。そんな自分勝手な想いを否定することはできない。
どうしても、ヴィクトールの子が欲しかった。絶対に結ばれることのない人との、切れることのない絆の証が……。
「……伯爵」
マリアの頼みに応じたのは、ノアのほうだった。その声には、悲壮な決意が込められている。
「マリア様の腕をつかんで、しっかり固定していてください。場所を誤ると、二度と……彼女の腕が使い物にならなくなってしまいます」
伯爵は視線をさ迷わせ、しばらくの間ためらっていた。動揺も困惑もおさまることはなかったが、やがてマリアを抱きしめ、口付ける。
そして、マリアの白く細い右腕をつかんだ。
第五部・終




