愛憎劇 (2)
今日はエンジェリク王からの呼び出しで城へ来ていた。王は男物の服を着たマリアを見て笑った。
「その格好で参上してくるとは。余は本気でそのような趣味があるわけではないぞ」
言いながら、長椅子に腰かけた王が手を差し出す。その手を取り、マリアは王に誘われるまま膝の上に座った。
「こちらのほうが脱がしやすくて楽で良いと陛下がおっしゃっていたので。陛下の手を煩わせぬよう、これを選んだのです」
「余のためか。チャールズ王子への配慮ではなく」
グイとマリアの腕を引っ張り、王が抱き寄せてくる。王はマリアの襟元のボタンを外して首筋に顔を寄せた。
「……余の呼び出しを後回しにするだけでなく、移り香をつけたまま余を訪ねてくるとは。なんとも厚顔な女よ。そなたは香水を嫌っている……これはチャールズ王子がつけているものであろう」
マリアは、王子との情事直後に王のもとを訪ねてきている。王に気づかれるのは分かっていた。
いや、気づかせるつもりで訪ねてきたのだ。
「そなたを見くびりすぎていたな。まさか、チャールズ王子まで籠絡させられるとは……」
マリアはにっこりと微笑み、自分の身体をなぞる王の手を取り、その手に頬を寄せた。
「チャールズ殿下は私の夫となる御方ですもの。殿下からの求めに応じるは道理……。陛下は、浮気の真似事はできても、私をご自分のものになさる気はないのでしょう?」
王が口を閉ざした。
最初にマリアに手を出そうとした時は、恐らく王も本気であった。
長年の友であり腹心の部下を裏切らせ、死に追いやった悲しみから、王としての理性や自制心を失っていた――しかし時間が経ち、王の心も落ち着き始めた。
そして理性を取り戻し、敬虔なルチル教の信者としての信仰心も取り戻している。
ルチル教は一夫一妻制。敬虔な信者にとって、愛人は罪の象徴だ。
だからマリアとの不倫も、本物にすることができない――王としての理性と矜持が、それを受け入れられないでいる。
「陛下。私とチャールズ王子の婚約を、解消してください」
マリアの言葉に、王は返事をしない。
是とも、否とも。
「婚約を解消されないのでしたら、私はこのまま殿下のものとなります。陛下の呼び出しに応じるのもこれきり……。私が他の男に抱かれるのを、指をくわえてご覧になっていればよろしいですわ」
「余を脅す気か」
「脅す?光栄なお言葉ですこと。私が他の男のものになることが、陛下にとって脅威になるなんて」
マリアはコロコロと笑い、王の膝から滑り降りた。身を翻そうとするマリアの手を、王は名残惜しそうに掴んでいる。
「陛下。次に私が応じるのは、陛下がお心を定めた時。私とチャールズ王子の婚約が解消された時です。それでは……」
するりと、王の手を離してマリアは頭を下げた。
「お待ちしておりますわ、陛下。陛下がお心をお決めになる、その日を」
王は、王子とマリアの関係に嫉妬している。
落ち着き始めた王の心が、再び乱されていく――マリアを失うという焦燥感から。
あともう一押し。
何か決め手になることがあれば、王はマリアを選ぶはず。
その何かは、必ず向こうからやってくる。いままでもそうだった。重要なのは、待つこと――そしてやってきたチャンスを、見逃すことなく確実につかむこと。
マリアが予想した通り、その日はそれから程なくしてやって来た。
その日。
朝はよく晴れていたというのに、昼を過ぎた頃から急に暗くなり始め、夕刻には雷鳴が轟き始めた。
「きゃっ……!」
激しい雷鳴にオフェリアは怯え、隣にいるヒューバート王子に抱き付く。そんなオフェリアを王子は優しく抱きしめ、なだめるように頭を撫でた。
「大丈夫だよ。僕もマリアも一緒だから」
オフェリアが怯えるのも無理はない。
雷はどんどん城に近付き、さっきのなんか、あまりの轟音に城が震えていた。ベルダですら、びっくりしてとっさにマルセルの腕にしがみついている。
「雷もだけど、雨もすごいわね。待てば落ち着くかと思ったんだけど……」
まさに、バケツを引っくり返したような雨だ。この雨では、馬車も働きたがらないのではないだろうか。
「マリア。今夜はこのまま城へ泊まって行かないか。こんな状況で君たちを帰すのは不安で……。エドガー王子が亡くなった日のことを思い出すんだ……」
ヒューバート王子が、憂いを含んだ表情で呟く。
エドガー王子。
グレゴリー王の最初の妃の息子だ。王太子と目されていた人物だったが、若くして亡くなり……彼が生きていれば、ヒューバート王子は王位継承など最初から有り得なかったはず。
彼の死は転落死。雷に驚いて、階段で足を踏み外したとか。
「優しい王子だった。城で忘れられがちな僕たち母子のこともよく気遣ってくれて……彼と接した時間は短かったが、突然の訃報には僕も母も悲しんだ。僕たちですらそうだったんだ。陛下の悲しみはいかほどのものだったか……」
王子は王の心情を察し、憐れむように言った。
「そういう時こそ母は陛下に寄り添い、悲しみを分かち合うべきだった。だが母は王に近付くことすらなく……そういう意味では、母も王妃としての覚悟が足りなかったのかもしれないな」
オフェリアの髪を撫でながら、ヒューバート王子は亡き人たちに想いを馳せているようだった。オフェリアは、ヒューバート王子の腕の中で、王子に身を寄せた。
マリアたちはその夜、城に泊まることになった。
ヒューバート王子が宰相に頼んで用意させ、マリアたちには三つの部屋が与えられた。
その内の一つはオフェリアが。オフェリアの世話をするため、ベルダも一緒に使う。
雷に怯えるオフェリアを落ち着かせ、マリアは妹を寝かしつけた。オフェリアが眠ると、護衛役として一緒に城に来ていたララとアレクにも休むよう声をかける。もうひとつは男性部屋だ。
ナタリアは屋敷で留守番をしている。デイビッドが王都に戻ってきてくれていてよかった。こんな夜に、ナタリア一人だけで屋敷に残しておくのは心配だ。デイビッドが一緒にいてくれるなら、マリアも安心できる……。
ドレスを脱ぐのだけベルダに手伝ってもらい、それが終わるとベルダもオフェリアのいる部屋に戻るよう言いつけた。
大きなベッドに腰掛け、ぼんやりと外を眺める。
まだ雷は鳴っているが、遠くへ行き始めた。音はずいぶん小さくなってきている。
マリアが城に泊まっていることは、ヒューバート王子や宰相など一部の人間しか知らせていない――そんなマリアの部屋の扉を、ノックする音が。
「どなた?」
返事はない。
この部屋を訪ねて来る……ある予感に、マリアは扉を開けた。
部屋を訪ねてきたのは、エンジェリク王だった。
「……入ってもよいか」
マリアは微笑み、どうぞ、と王を招き入れた。
あえて何も聞かず、マリアは王の手を取りベッドに腰掛ける。マリアに誘われるまま、王は隣に座り、マリアを抱き寄せた。
しばらく沈黙が続き、マリアは王の腕の中で、王の言葉を待つ。やがて、王が口を開いた。
「そなたが城に留まっていること、ニコラスから聞いた」
宰相ニコラス・フォレスター――やはり彼からか。王に忠誠を誓っている彼なら、マリアが城にいることも知らせるのではないかと思っていたが……。
「今日は雷がうるさい。余はあれが苦手だ――エドガーが亡くなった日のことを思い出してしまう」
ヒューバート王子も、同じようにエドガー王子の亡くなった日のことを思い出していた。
……父親のグレゴリー王が、思い出さないはずがない。愛する女性の、忘れ形見だったというのに。
「いつもと変わらぬ朝だった。剣の腕を師に褒められたとエドガーは笑いながら余に話し、その日も元気に剣の稽古へ向かって行った。昼過ぎから空は暗くなり、夕刻頃雷が鳴り始めた。そして余は……エドガーの死を知らされた。まさかそんな、と信じられぬ思いだった。変わり果てた姿となったエドガーと対面してもなお、現実のものに感じられず……」
王は言葉に詰まり、震えるように息を吐き出す。マリアを抱きしめる腕に力がこもる――痛いほどに。
「……王になって得られたものなど何もなかった。いつも失ってばかりだ。かすかな支えさえも、神は余から無慈悲に奪っていく」
王冠が幸せを与えないことは、マリアも知っている。
キシリアの王も、王冠のために多くの者を失い、悲しみと犠牲を背負っていた。若いキシリア王ですらその重みに苦しんでいたのだ。マリアの年齢以上の年月を王として過ごしたエンジェリク王の苦しみは、推し量ることもできないほどのものに違いない。
「グレゴリー様」
王の名を呼ぶ。
マリアの呼びかけに、王がびくりと動揺するのを感じた。
その名前を呼ぶことができる人間は、もうこの世にはいない。グレゴリーという一人の人間としての人格を捨て、ただ王として生きることになった男の名前。
王が、マリアの顔をじっと覗きこむ。マリアの瞳に見入る彼は、マリアの向こうに誰かを見ている……。
「許してくれ、マリアンナ……。余はそなたを死なせ、エドガーすら守り抜けなかった……」
「グレゴリー様」
もう一度呼びかけ、マリアは優しく微笑む。
雷に怯える幼子をあやすように、王の頬を撫で。
「許しを与えるのはマリアンナ様ではなく、グレゴリー様ご自身です。最初から誰も、グレゴリー様を責めておりません。グレゴリー様をお許しにならないのは、他ならぬご自分でしょう。もう、許してあげていいのですよ」
そう言ってマリアはグレゴリー王に口付ける。唇が離れると、再び強く抱き寄せられ、今度は王から口付けられる。
王の手がマリアの身体を押し、マリアはそれに逆らうことなくベッドに横たわった。
ドレスを脱ぎ捨て、すでに肌着だけになっているマリアの衣服に、王が手をかける。自分に覆いかぶさってくる王に抵抗するどころか、マリアは自ら足を絡めて王を誘った。
それから数日後。
マリアとチャールズ王子の婚約が解消が決定した。正式に解消されるのはまだ先になるが――エンジェリク王は、王としての自制心よりも男としての感情を優先した。
マリアは、エンジェリクの王すら陥落させてみせたのだ。
そして降りることのできない舞台に立ったことを、マリアは感じていた。




