支配する女 (2)
おじが自分を女として見ているということは、マリアの自惚れではなく客観的事実だった。
日が経つにつれおじの好意が露骨になっていき、距離が近くなっていく。
マリアは打ち明けなかったか、マリアのそばにいるナタリアやベルダが気付くほどだ。いずれ屋敷中に知れ渡るのも時間の問題だろう。おじは少しばかり、自制が足りていない気がする。
父親を失ったときに、男に肌を許すという手段を覚悟はしているつもりだった。いままでがあまりにも上手くいき過ぎだっただけで、そうやって庇護者を得る方法は考えていた。
だがマリアも、それには大きなためらいがあった――覚悟はしていても、いざその時が目の前に来たら、そう簡単に選べるものではなくて……。
「マリア、食事の後、時間はあるかな?もう少し仕事を手伝って欲しいんだが……」
夕食後、おじからそう言われたとき、内心の動揺を顔に出さないよう必死で努力しながらマリアは頷く。
おじの姿が見えなくなると、大きくため息をついた。
「まさか本当に、旦那様のお部屋にうかがうおつもりなのですか?」
自室に戻ってオフェリアを寝かしつけていると、青ざめたナタリアが詰め寄ってくる。
マリアの覚悟を理解し、その決断についてきたナタリアでも、さすがにこればかりは口出しせずにはいられないようだった。
ベルダも珍しく不安そうな表情をしている。
「あの、もしよければ、私が空気読まずに割り込みにいきましょうか?」
「ありがとう。でもいいのよ。いずれそういうことは起きるものだと思っていたし、避けられないのもわかっていたわ」
もっと酷い男が相手になる可能性もあった。それを思えば、おじならそこまでひどいことにはならないだろう。
しかし、ここまできたらマリアも自分を安売りするつもりはない。
「寝衣には着替えないでいくわ。もしオフェリアが途中で起きたら、フォローはお願いね」
簡単には脱がせられない服のまま、マリアはおじの寝室を訪ねた。
おじはいかにも仕事が残っていたようなていで招き入れたが、それならいつもの書斎に呼べばいい。夜に男性の寝室に呼んでおいてそれを信じるほど、マリアも幼くはなかった。
現に、長椅子に二人で並んで腰かけている。ただ仕事をするだけなら、対面に座ればいいはずだ。
寄り添ってくるおじから逃げることなく、マリアは何も気づかないふりを続けた。
不意に、おじがマリアの手に自分の手を重ねてきた。顔を上げると、おじが自分を見つめている。
腹をくくるときが来たと、マリアは瞳を伏せた。
「……おじ様、エルザのことを覚えておいでですか?」
先日屋敷を出ていくことになった侍女のことを口にすれば、おじが目を瞬かせた。
「エルザは伯母様の愛人と浮気をして、あのような目に遭いました。私がおじ様と関係を持ったとき、伯母様がどのような行動に出るか、考えたことはおありですか?」
「ローズマリーは、僕が誰とどうしようが、興味も持たないんじゃ――」
「いいえ、むしろ逆だと思います。おじ様のことを見下しているからこそ、絶対に許さないはずです。見下している相手に裏切られるなど、これ以上ない屈辱ですもの」
マリアの反論に、おじは口を閉ざした。動揺し、冷静さを取り戻したようだ。
「私だけが罰せられるのであれば、覚悟の上お受けしましょう。けれどそれが、オフェリアにまで及ぶのではないのかということが、何よりの気がかりなのです」
話しながら、マリアは失望が胸を占めるのを感じた。
――やはりおじは助けてくれない。
それでもマリアが欲しいと、言いきってくれることを期待して仕掛けた。だが目の前の男はマリアから目を逸らし、伯母の怒りに怯えている。
マリアは、自分が伯母に負けたことを悟った。マリアの魅力より、伯母の恐怖と支配がおじの心を強く縛っている。
マリアは重ねられた手をスッと離した。
「……どうやら私は、部屋を出たほうがいいみたいですね。今夜のことは忘れます。それがお互いのためですから」
立ち上がって部屋を出ていくマリアを、おじは引き止めもしなかった。出ていく前におじを振り返れば、長椅子に座り込んだまま硬い表情でうつむいている。
部屋を出たマリアは、敗北感に大きくため息をついた。
ナタリアは何事もなくマリアが戻って来たことを喜ぶだろう。だがマリアにとっては、大きな誤算に頭を抱えたかった。何もかもマリアの望まない方向に進んでいる。
良い立場になりかけていたのに、これで台無しだ。明日からまたおじは自分と距離を取る。しかも今度は、埋めることのできない壁が立ち塞がった状態で。
マリアの予想通り、次の日はおじに呼ばれなかった。
おまけにいとこが戻ってくるらしく、おじはまた外出する準備をしているようだった。
昼頃にいとこが屋敷へ帰って来たとき、頭痛の種が増えたことにマリアは顔をしかめた。……どうでもいいことだが、食当たりで療養していたはずなのにさらに横に成長して帰ってくるのはなぜだろうか。
幸いにも、腰巾着のリーダーだったエルザがいなくなったことで、いとこの動きは以前よりは大人しかった。それでもオフェリアに嫌がらせをしようと周りをウロウロするので、おじのことは忘れ、マリアはいとこを警戒した。
ところが、いとこは突然姿を消した。
夕食前、食事の支度に追われていたマリアは、ずっとオフェリアをつけ狙っていたいとこが見えなくなったことに気付き、かえって不安に駆られた。
――その不安は的中した。
「だめーっ!返して!それはお母様が作ってくれた物なの!返してよ!」
泣き叫ぶオフェリアの声を聞きつけ、マリアは食堂へ飛び込んだ。
いとこがくまのぬいぐるみを鷲掴みにし、意地悪く笑っている。
オフェリアは取り返そうと必死だが、いとこのほうが背も高く、体格もよくてはどうにもならない。
マリアが飛びつくよりも先にベルダが駆け寄り、ぬいぐるみを持っているいとこの手をつかんだ。女にしては力の強いベルダでも、横幅が倍もある相手では厳しいようだ。
ベルダに押し負けることを察したいとこは、燃え盛る暖炉の中にぬいぐるみを放り込む。
ぬいぐるみに火がつくのを見たオフェリアは、半狂乱になった。
ベルダはためらうことなく暖炉に手をつっこみ、ぬいぐるみを取り出す。ぬいぐるみは、すでに一部が焦げていた。
腹を抱えて笑ういとこにツカツカと近づき、マリアはあらん限りの力を込めて引っ叩いた。
見た目の割に打たれ弱いいとこは無様に倒れ込む。それに馬乗りになってのしかかり、続けざまに頬を叩く。
いとこが耳障りな声で泣き叫んでいたような気がするが、マリアの耳には入らなかった。
気がつけば、マリアはおじに羽交い締めにされていた。
「落ち着きなさい、マリア!何があったんだ!?」
「そいつがお母様の形見に手を出したのよ!その女の顔も焼いてやる!」
マリアの迫力に、腰巾着共も恐れ慄いているようだった。誰も止めることもできないまま、マリアにいとこを殴らせていたらしい。
騒ぎを聞きつけ、屋敷中の人間が食堂へ来ていた。
「マーガレット、マリアが言ったことは本当なのか?」
「オルディス家の金に寄生してるくせに、そんなもの持ってるなんて生意気なのよ!私に全部差し出しなさいよ!」
マリアに殴られたショックで泣きじゃくりながらも、いとこは悪態をつき続ける。
さらなる追撃をしようとしたマリアの肩を、おじが強くつかんだ。肩に指が食い込むほどの力に、マリアは怒りを忘れおじを見上げる。
「……おまえは、やっぱりあの女の娘だな」
そう呟いたおじの声は、マリアも驚くほど冷たい。恐れ知らずのいとこも、さすがにこれには怯んだ。
「よくわかった。手遅れなんだな。いまさら何をしても、どうにもならない。だから、おまえにはもう何も期待しない。好きにやって、勝手に自滅すればいい」
そう言い捨てたおじはマリアたちに振り返り、いとこなど存在しないかのように視界にも入れず話した。
「マリア、暴力はいけない。罰として君には謹慎を言いつける。今日一日は部屋にいなさい」
「だ、旦那様……!甘いのではないのですか!?お嬢様に謝罪もせず……」
腰巾着の一人が言い出したが、エルザほど彼女はおじに強く出れないようだ。
おじは冷たく一瞥し、切り捨てる。
「マリアに謝罪をさせたいのであれば、先にマーガレットが謝罪するべきだ。それがないのなら、マリアが謝る必要も感じない。オフェリア、すまなかったね。今日は君も部屋に帰っていいよ。働かなくていい。私が許可する」
泣きじゃくるオフェリアの頭を撫でるおじは、いつもの優しいおじだった。マリアに謹慎を言い渡したときも、自分を見る目は気遣わしげで優しいものだった。
何がおじを変えたのかは分からないが、おじの心はいとこから完全に離れた。
自室でオフェリアを落ち着かせながら、マリアはおじの変化について考え込んでいた。
「ベルダ、本当に手は大丈夫なの?」
「大丈夫ですって。ほんの一瞬ですもん。あれぐらいじゃ、火傷もしませんよ」
ナタリアはベルダの手に薬を塗ろうとしたが、ベルダはひらひらと手を振り、平気だと訴える。
「ありがとう、ベルダ。あなたがとっさに取り返してくれなかったら、焼けてしまうところだったわ。あなたには助けられてばかりね」
ぬいぐるみを抱きしめ、泣き寝入りしてしまったオフェリアを見つめる。
母の形見でもあるこのぬいぐるみは、そう簡単には見つからない場所に隠してあったはずだ。オフェリアもマリアの言いつけを守っていた。
いとこはわざわざ部屋を漁って見つけ出したのだろう。
念のため、自分たちの物は分散して隠しておいたのでほとんどの物は無事だったが、ぬいぐるみと一緒に隠しておいたオフェリアの装飾品がない。
商会にいたときに買った品で大した金額ではないが、それでも、オフェリアが初めて自分で稼いだお金で買った、思い入れのある物だった。いとこが盗んだか、壊したか……。
「ナタリア、寝衣に着替えておじ様の部屋へ行ってくるわ。私が戻ってくるより先にオフェリアが目を覚ましたら、誤魔化しておいて」
マリアの言葉の意味を察して、ナタリアが顔色を変えた。ベルダも浮かない表情だった。
薄手の寝衣の上にナイトガウンを羽織った格好で、マリアはおじの部屋へ向かう。
こんな恰好で男性の寝室を訪ねるなど、ナタリアたちからすれば信じられない行動だっただろう。だが今回は、あえてこの姿を選んだ。
人に会わないように気をつけ、おじの寝室のドアをノックする。扉を開けたおじは、マリアを見て驚いた。
「部屋に入れて頂けますか?」
戸惑いながらも、おじはマリアを部屋に招き入れる。
昨日は書類が置かれていた机の上には、空っぽの箱があった。ビロードの布が敷かれ、何かが入っていたのは明白だ。
「これが何か、お聞きしても?」
「カフスが入ってたんだ。僕が社交界にデビューするとき、両親が贈ってくれた物で……。そのあとすぐに両親が亡くなってしまったから、形見でもあった」
箱を見るのが辛いのか、おじは長椅子ではなくベッドに腰掛けた。
「純銀製だが、金銭的な価値はほとんどない。実家から持ってきたなけなしの財産は赤字を補てんするためにほとんど売り払ったんだが、それだけはどうしても手元に残しておきたくて……。それがローズマリーには許せなかったんだろうな。箱の中が空っぽになっていることに気付いたときには、もうどこへ行ってしまったのかわからなくなっていた」
おじの語尾が弱々しくなっていく。うつむくおじの瞳には、涙が浮かんでいた。
「ローズマリーを問い詰めたら、オルディス家の財産を食いつぶす寄生虫のくせに生意気だとせせら笑われた。たしかに、僕は屋敷にある物を金のために売っていた。大した金にはならないからと言い訳をして、自分だけ残しておくのは卑怯だったかもしれない。でも、あれぐらい持っていてもいいじゃないか。他のものはすべて、オルディス家のために手放したのに……!」
おじの話を聞き、彼が突然態度を変えた理由が分かった。
いとこは、自分のすべてを否定した女と同じことをし、同じ台詞を口にした。そしておじが心の奥底に封印していた屈辱と悲しみの記憶を掘り起こしてしまったのだ。
――まさか、こんな好機が転がり込んでくるだなんて。
マリアはおじの隣に座り、彼の腕にそっと触れる。ビクリと体を震わせ、おじはマリアを見た。マリアは優しく微笑み、おじの肩に頭を寄せる。
そんなマリアを、母親にすがりつくよう幼子のようにおじは抱きしめた。
おじの心は、伯母から離れ始めている。自分がそれを後押しして、完全に引き離してやればいい。
そのためにこの身体が必要だというのなら、差し出したって構わない。いまならできる……。
ほんの少しだけ痛むものに見ないふりをして、マリアはおじの背中に腕を回し、目を閉じた。




