愛憎劇 (1)
紙を擦る木炭の音に、マリアは目を覚ました。
大した音ではなかったが、静かな部屋ではその程度でもよく響く。ベッドから起き上がってみれば、すぐそばでシャツを引っかけただけのメレディスが、一心不乱にスケッチを取っていた。
……非常によく見なれた光景である。
シーツを身体に巻きつけ、マリアは頬を膨らませてメレディスに拗ねてみせた。
「ヌードは嫌っていつも言ってるのに」
「ごめん。一応服は着せてるよ」
ベッドから降りて、横からメレディスの描いている絵を覗きこむ。たしかに裸ではないが……そんな布切れを服を呼ぶのは、無理があると思う。
「人に見せたりしない?」
「見せないよ。これは自分用。しばらく会えなくなるから、君のことをたくさん描いておきたくて」
メレディスは何気ない口調で話すが、マリアは目を丸くした。そんなマリアの様子に、ごめん、とメレディスが苦笑する。
「そう言えば話してなかったね。オフェリアの誕生日のお祝いもしたことだし、僕はまたキシリアへ行こうと思ってるんだ。最初に行ったときは夏……次は冬だったから、今度は春のキシリアを描きたくて」
ガーランド商会――もとい、クラベル商会がキシリアへ行く予定は聞いていない。ならば、今回はメレディス一人でキシリアへ行くつもりなのだろうか。
不安な気持ちが思わず顔に出てしまうマリアを安心させるように、メレディスは笑う。
「大丈夫だよ。ロランド王から招待を受けてるんだ。少し大きくなった王女の肖像画を描いて欲しいって。シルビオを護衛に借りれるみたいだから、キシリアの色んな場所を見て回って、たくさん描いて来るよ」
「……楽しみにしているわ。気をつけてね。無事で帰ってきて――待ってるから」
メレディスが行ってしまう。喜ばしいことではあるが、寂しいことでもある。
絵描きとして、メレディスはもう十分に成功している。誰かの支えも助けも必要ないほどその知名度と評価は高く、絵描きとしての依頼もひっきりなしだ。
だんだんと、マリアが気軽に会える人間ではなくなってしまっていた。
「必ず帰ってくるよ、マリアのところへ。僕の絵描きとしてのルーツはマリアにあるんだ。マリア以外のところに、僕の帰る場所はないよ」
ありがとうと言葉を返す代わりに、マリアはメレディスの頬にキスする。
こっちがいい、と自分の唇を指しながらメレディスが言うものだから、マリアは苦笑いして改めてメレディスに口付けた。
メレディスをキシリアへ連れて行くのは、エンジェリク海軍オーウェン・ブレイクリー提督に頼むことになった。
ちょうどブレイクリー提督も、雪が解けて春になり、海に出て演習を行うことになっていた。
「オーウェン様、メレディスのことを引き受けてくださって、ありがとうございました」
「あんたにねだられるんは悪い気はせん。それが他の男ことなんはちいとばかし妬けるが……まあ、頼りにされてる証拠や思うて大目に見たる。帰ってきたら、ワシのこともしっかり労ってくれ」
「もちろんです。オーウェン様のお帰りも、首を長くして待っております」
ブレイクリー提督も、しばらくエンジェリクを――マリアのもとを離れる一人だ。
提督はマリアに惚れ込んではいるが、やはり彼の一番は海。
海に心を奪われた船乗りに恋をし、ただひたすら憐れに待ち続ける女の逸話は数多く存在するが……いずれマリアにも、新たな逸話を語る日が来るかもしれない。
「どうかメレディスのことをよろしくお願いします。それからオーウェン様も、どうぞお気をつけて」
港のある町へ向け、ブレイクリー提督は王都を出発した。メレディスはあとから出発し、港町で合流することになっている。だがメレディスも、二、三日中には王都を出て行ってしまうだろう。キシリアで何を描くか、そのことで頭がいっぱいで、マリアのことは忘れ去っているに違いない……。
「なあに?何か言いたそうね」
提督を見送ったマリアを、ララが意味ありげな視線で見つめている。問いかければ、なぜか溜息をつかれてしまった。
「いや。相変わらず律儀だし、体力が良く続くよな、と思って。この後、城へ行くんだろ」
マリアはくすりと笑った。
港町まで提督やメレディスを直接見送れなかったのは、マリアもまた他に優先すべきことがあるから。
「そうよ。城へ行って……チャールズ王子との婚約を解消させるために本格的に動くわ。オフェリアの誕生日が来て、あの子は十三歳になった。妹も結婚すべき年が近付いて来て、私か、オフェリアか、どちらかの結婚をもう確定させなくてはならないのよ」
そしてマリアのほうが、その実現に近い。
当然だ。
マリアのほうがオフェリアよりも年上だし、先に婚約をしている。
結婚が先延ばしになっていたのは、チャールズ王子がマリアを拒み続けてきたことが大きい。だがそれも、そろそろ限界だろう。
「婚約解消そのものは、おまえが最初から目指してたものだからいいんだけどさぁ……そのやり方には賛同しかねるぜ。危なっかしいし、色々と心配だ」
「心配してくれてありがとう。私も、最後まで気を抜かないようにしなくちゃね」
城へやって来たマリアは、いつものようにチャールズ王子からの求めに応じた。
相変わらずマリアに対して素っ気なさを装いながら、背中越しにこちらのことをちらちらとうかがってくる。
――私のことなんか、本当に無視すればいいのに。
チャールズ王子からすれば、マリアなど気にかける必要もないはずだ。
好かれたいと思わないマリアは、チャールズ王子のことはかなりぞんざいに扱ってきた。それこそ、嫌われて当然、軽蔑されるのも当然なほどに。
それなのに、そんなマリアに対して王子が冷淡な態度を貫けないのはなぜなのだろう。
「そりゃ男だって、本気で嫌いな女を抱いたりしないだろ」
訳知り顔でそう言ったララの言葉を思い出す。
……好かれる要素皆無な自分に、チャールズ王子が。まさか。有り得ない。
マリアはララの言葉を頭の片隅に追いやり、床に無造作に落ちている上着を拾う。
「殿下。それは私のものです。殿下のものはこちらですわ」
今日のマリアは男装をしていた。
ドレイク卿の仕事を手伝う予定も、エステルを訪ねるつもりもなかったのだが、男物の服を着て城へ来た。
偶然にも、マリアの上着はチャールズ王子の上着と同じ色。装飾まで似たような配置で、チャールズ王子は勘違いしたらしい。
腕が通らないことを不思議そうにする王子に、マリアが声をかけた。
「ああ、そうか……」
そう言って、王子は当たり前のようにマリアに背を向ける。
たぶん、ほとんど無意識にやってしまったのだろう。普段、召使いにやらせているように、マリアにも当たり前のように上着を着せてもらおうと、つい癖で。本人も気付かず。
マリアは内心苦笑しながら、あえてそのことを指摘せず、王子に上着を着せる。
男性の着替えを手伝うのは慣れっこだ。王子の襟元を直し、マリアは何気なく話しかけた。
「リチャード様……レミントン侯爵は、その後お加減はいかがです?」
「ほとんど良くなった」
――それは喜ばしいことで。
舌打ちしたくなる本音は隠し、マリアは努めてにこやかに相槌を打つ。
レミントン侯爵のこと、嫌いではないが。できれば本調子に戻らないでほしいと思ってしまうのは仕方がない。
「まったくストッパードめ。あいつが泣きついてきたばっかりに、伯父上は無理をして城へ来て……治りかけの病がぶり返した。そのせいで療養も長引いて……」
チャールズ王子が愚痴をこぼす。
王子の言うとおり、レミントン侯爵が療養と称して城に姿を現さなかった期間は長くなってきている。もしや療養は偽りで、なにか企んでいるのではないかと邪推してしまったぐらいに。
だが短慮な王子の台詞――限りなく事実を言っているのだろう。侯爵本人も、年を取って回復が遅くなったと話していたことがあったが……。
「だがそもそもの原因は、僕かもしれない……。サーカスが見たいと伯父上を誘って……あの時、ずいぶんと身体が冷えてしまったと伯父上は笑っていらっしゃったが、いまにして思えば、不調はあの日から続いている……」
そう言えば、ホールデン伯爵はマリアたちと一緒にサーカスを見ることを拒んだ。
オフェリアには事前に見たからと説明していたが、後にノアがこっそり教えてくれた――前に見た際、思った以上にテント内は寒く、それが辛かったから二度目は嫌がったのだと。
伯爵から寒さに気を付けるよう忠告を受けたマリアたちはしっかりと防寒対策をしてサーカスを観に行ったが……レミントン侯爵たちは甘かったのかもしれない。
チャールズ王子のほうは若く、狩りなどで日頃から寒さに慣れているから問題なく終わったが、レミントン侯爵は……。
「治りかけが重要ですものね。侯爵には、ほとんど良くなったからと言って焦らず、もう少しの間しっかりお休みするよう、殿下からもおすすめすべきかと」
「……そうだな。完治するまでは……いや。完治しても、二、三日は城へは出ぬよう伯父上に進言しておこう」
チャールズ王子の上着を直しながら、王子の背後でマリアはほくそ笑む。
悪くない流れだ。
チャールズ王子は、伯父のレミントン侯爵には強い愛情と信頼を寄せている。侯爵が側にいれば、王子はいくぶんかまともな考え方ができるようだし、侯爵のフォローもあって言動にも隙がなくなってしまう。
――王子の気遣いを利用して、侯爵から引き離してやればいい。
「できましたわ」
王子の服を整え終えたマリアはそう言った。
服の裾を確認し……ふと、マリアは顔を上げる。チャールズ王子が、じっとマリアを見つめていた。
手を伸ばせば、すぐ届く距離――マリアの顔に、王子は手を伸ばす。王子の顔が近付くのを、マリアは目を閉じて受け入れた。
――止めておいたほうがいいのに。
滑稽で苦々しい思いに、マリアは心の中で呟く。
王子はいままで、マリアの人格を無視するような振る舞いをしていた。マリアを、心を持たぬ人形のように扱って来たというのに。
ここに来て、王子のほうからマリアに口付けて来るだなんて。
身体を重ねていると、情が移らないか。
以前、ヒューバート王子に問いかけられたことを思い出す。
そんなことあるはずがない。マリアは、そんなことぐらいで心動かされるような女ではない。だがチャールズ王子のほうは……。
「……マリア」
初めて名前で呼ばれ、マリアは目を開けてチャールズ王子を見つめた。王子もじっとマリアを見つめて来る。
熱っぽく見つめる王子の瞳に、だんだんと正気の色が戻っていくのをマリアは感じた――だが王子は何も言わず、静かに部屋を出て行った。正気に戻った王子から八つ当たりの攻撃がくるかと身構えていたのに。
マリアを嫌い、蔑むという決意が、チャールズ王子の中で揺らいでいるらしい。
気の毒だが、マリアが王子に嫌われるような女だったということを、改めて思い出してもらうことにしよう。




