-番外編- 伯爵と少年 その後
その日、ノアは休暇をもらってホールデン伯爵の従者を外れることになっていた。
ノアが自ら伯爵のそばを離れるのはめったにないことなのだが、毎年この日だけは特別だった。
「おそばを離れる許可をくださり、ありがとうございました。明日の昼までには戻ります」
「早めに戻って来い。おまえがいないと、悪さをしてもつまらん」
冗談めかしてそう答える伯爵に、ノアはかすかに笑う。
もう一度頭を下げ、伯爵の執務室を出た。
「ノア様!」
伯爵の執務室を出てほどなく、マリアがノアの姿を見つけて駆け寄ってくる。
出かけるの、と尋ねてくる彼女に、ノアは頷いた。
「ついて行ってもいい?」
「構いませんが……特に楽しいことはないかもしれませんよ」
「いいの。ノア様と一緒にいる口実が欲しかっただけだから」
マリアは悪戯っぽく笑い、リーリエを連れてくるから待ってて、と走り去ってしまった。
彼女の後ろ姿を見送って、戻ってくるのを待つ――ノアがどこへ行くつもりなのか、尋ねもしなかった。
尋ねなくても、マリアは分かっているのだろう。動きやすい服に着替え、リーリエを近くに待機させているということは、きっとそういうこと。
伯爵に聞いたのか……勘の良い彼女のことだから、なんとなく察したのかも。
一緒にいる口実が欲しかっただけ――本当は、ノアを気遣ってくれたのだろう。一人にしないよう……それを、押しつけがましくならない言い方で。
一緒にいたい、だなんて。そんな可愛らしい言い方をされたら、断れるはずがない。
「お待たせ」
美しい白馬を連れ、マリアが戻ってきた。リーリエの背には、旅行用のマントに、ちょっとした旅行用荷物……。
荷物はノアが連れている馬に乗せ、マリアがマントを羽織るのを手伝う。王都の中では馬に乗れないから、町の外まで馬を引いて歩いた。
「あっ、待って」
町を出る直前、マリアはリーリエをノアに預け、またそばを離れた。
花売りの少女に駆け寄って行って、少女から花束をひとつ買い、急いでノアのもとへ戻ってくる。
「たびたびごめんなさい。今度こそ出発しましょう」
ノアは頷き、マリアが小さな花束を自分の荷物の中へ丁寧にしまうのを確認してから馬に跨る。マリアも馬に跨って、二人で一緒に町を出た。
町を出た後は、マリアは寄り道することなく、ノアと共にまっすぐ目的の場所へと向かった。
「いかがでしょう。あの男好みの装いができているでしょうか」
マリアは、ホールデン伯爵から与えられたドレスを着ていた。
それは、ある男を誘惑するための衣装。
と言っても露出は少なく、貞淑さを象徴するようなドレスだった。
貞淑なドレスにあわせて髪もきっちりまとめられ、清楚な雰囲気が醸し出されている。生まれ持った気品と、そこはかとない色気が加わって、いつも以上にマリアは可憐だ。
「……ノア。おまえの言いたいことも分かるが、いまさら引き返すこともできん――今回だけだ」
表情には出ていないつもりだったが、ホールデン伯爵やマリアには、自分の複雑な心境を見抜かれたようだ。
マリアを囮にする――それに、反対したい自分がいることを。
復讐なんかどうでもいい。
たしかに、真実を知ったとき、怒りや憎しみの感情を抱いたし、復讐を考えたこともあった。でも……もう、どうでもいい。素直にそう思えるほど、ノアは自分の人生に満足していた。
朝早くに王都を出発し、その墓地に到着したのは昼過ぎ。もう日が傾き始めていた。
静かな共同墓地――ひとつの墓の前でマリアは屈み、持ってきた花束をそっと手向ける。ノアも目をつむり、静かに祈りを捧げ、彼らに想いを馳せた。
墓は、ノアの両親のもの。でもここに、彼らの遺体はない。
伯爵が、ノアの両親のその後を調べてくれた。
ノアの父親は政治犯として逮捕された後、尋問の最中に病死――恐らくは、拷問の末に命を落としたのだろう。罪人の遺体はぞんざいに処分されがちで……ノアの父も例外ではなかった。
他の罪人たちと共に始末されてしまった遺体。どれが父なのかは分からなかった。
母は、ある貴族の愛人となっていた。愛人と言っても、その扱いは奴隷同然。搾取され、弄ばれ、その末に病に罹った彼女は、ゴミのように捨てられた。
屋敷を追い出されたあとのことは、伯爵でも追いかけることができなかった。ただ……虐待によってすでにボロボロだった身体は、病による追い打ちを受けて……自分でまともに歩くこともできていなかったという証言もあった……もう、生きてはいないだろう。
調べていくうちに、父の逮捕と、母を愛人にした貴族が無関係ではないことが判明した。
「オールポート男爵!お戯れも、ほどほどに――!」
「いいから大人しくしていろ!そのほうが、おまえのためでもあるのだぞ!」
マリアを押し倒しながら、男爵は卑しい本性を隠すこともなく笑う。
ホールデン伯爵と共に書記として屋敷を訪ねてきたマリアに、オールポート男爵は露骨な視線を向けていた。従順そうな、清楚な女――男爵の好みだ。
……ノアの母も、騎士の夫に尽くす、貞淑な妻だった。
「所詮おまえも、あの男の情人なのだろう?私なら、もっと良い思いをさせてやるぞ。平民のくせに、伯爵を名乗るなど忌々しい――言っておくが、私の力はあんな男の比ではない。役人ぐらいなら、私の意のままよ……!」
抵抗するマリアの髪が男爵の腕のボタンに引っかかり、ばさりと解ける。長い髪をわしづかみにして、オールポート男爵はマリアの動きを封じ込めた。
「……そうやって、無実の人に罪を着せて陥れてきたのね。自分の欲望のために……女を手に入れるために。彼女たちの身近な人を陥れて、助けてやる代わりに自分に従えと――でも、そんなのは真っ赤な嘘。あなたは誰も助けない……そうやって手に入れた女ですら、飽きたらゴミのように捨てて……」
「ほう、詳しいな」
マリアの指摘に、男爵はニヤニヤと笑う。
「なるほど……わざと私に近づいてきたというわけか――なんだ。おまえが初めてだと思ったのか?敵討ちに私に近づいて、返り討ちにされたバカは!」
バシッと音が鳴り響き――マリアの抵抗に焦れた男爵が、彼女の顔を殴った。それを理解した瞬間、たまらずノアは飛び出した。
「あああああああぁぁっ!」
耳をつんざくような悲鳴を上げ、先のなくなった右腕を押さえてオールポート男爵がのたうち回る。
うるさい男に振り返ることもなく、ノアはマリアを抱き起こした。
「もう……。もうちょっとだったのに、堪え性のなさをノア様まで見習ってどうするのよ」
唇を尖らせて拗ねるマリアに、申し訳ありません、とノアは頭を下げる。
「いや、逮捕には十分だ」
続けて部屋に入ってきたのは、ホールデン伯爵――ではなく、ドレイク警視総監だった。
部下を連れ、もがき苦しむ男爵に近づいて、彼を冷ややかに見下ろす。
「マスターズ、取り急ぎ手当てを。尋問までは生かしておけ」
警視総監の指示を受け、役人たちは手早く動く。
ドレイク卿もマリアに近づき、屈んで、彼女の様子を確認していた。男爵に殴られた左頬は、赤くなっている……。
そっとマリアの左頬に触れるドレイク卿の手に自分の手を重ね、マリアは微笑む。
「ジェラルド様、とっても痛いです。オルディス公爵をこんな目に遭わせた男…その罪にふさわしい罰を、しっかり与えてくださいね」
「無論」
ドレイク卿が頷いた。
立ち上がって、マリアは少しふらつきながら部屋を出る。それに寄り添い、彼女を支えながら、ノアも共に部屋を出た。
部屋を出た途端、外で待っていたホールデン伯爵が彼女を抱きしめる。
「謝罪はダメですよ。私がやりたいと、自ら引き受けた役割だったんですから」
伯爵の腕の中で、伯爵が口を開く前にマリアが言った。
伯爵はマリアをしっかり抱きしめ、そうか、と呟いたきり、それ以上は何も言わなかった。
ドレイク卿の前任――先の警視総監は、オールポート男爵のいとこであった。
いとこと言っても、個人的な付き合いはほとんどなかったらしい。前任者も、そんな名前のいとこがいたような、という程度。
だが地方の田舎では、警視総監のいとこという肩書は非常に効果があった。それを利用して、オールポート男爵は地方で、王様のように振舞っていたそうだ。
地方の田舎役人や騎士を私的に動かして……目をつけた女は、強引に自分のものにして。そんな彼の犠牲者の中に、ノアの母親の名前もあった。
美しかったノアの母に目を付けた男爵は、夫を無実の罪で投獄させ、息子の命を盾に愛人になるよう迫った。
息子も監獄に入れられ、死にかけていたことは知らされないまま。息子の無事を信じて、母は耐えて……。
「……ノア様」
呼びかけられ、目を開ける。墓の前で跪いていたマリアは、いつの間にか自分のそばに立っていた。
彼女の手が自分の手に触れ……ノアは、そっとマリアの手を握る。
復讐したいとは思わなかった。
だから、ホールデン伯爵やマリアが、自分よりも熱心にあの男を追い詰める方法を考え始めた時、危うい真似はしないでください、と苦笑いでノアのほうが忠告したぐらいで。
先の警視総監の名を騙って好き放題していたという事実を突き止め、マリアはドレイク卿に協力を求めた。警視総監の名誉を穢す男を始末することを、ドレイク卿は快く引き受けてくれた。
あの男のその後は聞いていないが……余罪の確認をするため、ドレイク卿はその有能さを遺憾なく発揮してくれたそうだ。
……それだけで、どうなったか察するには十分。
「暗くなってきましたね。そろそろ、宿へ向かいましょうか」
「お父様やお母様とは、しっかりお話しできた?」
手を繋いだまま歩き出すノアに、マリアが問いかける。
「ええ。ちゃんと……」
両親のその後……その真実を知っても復讐しようとしなかった自分を、両親は薄情だと思うだろうか。
両親のことは愛している。ただ……ノアは、新たにその想いを向ける相手を得ていて。彼らのために、生きていたかったのだ。
「――ノア様が飛び込んできたときはヒヤリとしたわ」
馬に乗って宿のある町まで帰っていく道すがら、マリアが言った。
「だって。ノア様って、サクっと片付けちゃうんだもの。相手が苦しむ間もないぐらいあっさりと。あの男は、ジェラルド様にネチネチやってもらう予定だったのに。もうちょっと、復讐心を持たなくちゃだめよ」
奇妙な説教に内心苦笑いしながら、申し訳ありません、とノアは答える。謝罪することではないはずなのだが、なんとなく。
別に、あの男への復讐なんかどうでもよかった。
あの男が、あれ以上マリアに触れるのが耐えられなかった――それだけだ。




