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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第五部02 敵の敵は味方にはならない
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-番外編- 伯爵と少年・後編


久しぶりに再会したマリアは、ノアですら思わず息を呑むほど美しかった。


みすぼらしい男の服を着ていても、その美しさも品の良さも隠すことはできていなかったが、ドレスを着た彼女はいっそう美しく。大貴族の姫として、いかに彼女が気高く育てられたかを思い知った。

そんな彼女の美しさに拍車をかけたのは、彼女のおじ――オルディス公爵との関係だ。男を知り、女としての色香と妖艶さが加わった……ノアが気付いたことに、ホールデン伯爵が気付かないはずがない。


お気に入りの少女を他の男に奪われたことが、伯爵の感情を暴走させてしまったのではないか、と時々ノアは思うことがある。一応諌めてみたりもしたのだが、どうやらノアが思っていた以上に伯爵は彼女に本気らしい。

伯爵への恩義や敬意につけこみ、結局はマリアを強引に口説いた――。




「マリア様の貞操観念がおかしくなったのは、信頼していた男からそういう対象で見られてばかりだというのも原因の一つでしょうね」

「なんだ、いまさら。また説教か?」

「説教と言うか……説教です」


ノアの言葉に、伯爵はじろりと睨む。しかしバツが悪そうに咳払いをしていた。


「男と女の関係に、そういった行為は避けられない――そんな間違った認識を植え付けてしまったから、マリア様は男から肉体関係を要求されてもそれを当然のように受け入れてしまう。彼女の浮気癖は、伯爵が誤った常識を教えてしまったせいでもありますよ。せいぜい悩み続けてください」

「お前は相変わらず、マリアのことになると手厳しいな」


マリアへの同情心はある。

父親のように慕っていた相手から、対価を要求される。父親のように、見返りを求めない無償の優しさではなかった。

男と女のことなど何も分からない少女が知るにはあまりにもショックな事実だっただろう。


ナタリアも話していた。

平静を装っていたが、おじとの関係には躊躇いや迷いを見せていたと。


エリオット・オルディス氏に敬意と親しみを抱き始めた矢先に男女関係を迫られ、マリアは戸惑っていた。

おじも強制したわけではない。だが彼もまた、マリアの貞操観念を歪ませた男の一人だ。それも一番最初。


だからしばらくの間、ナタリアはエリオット・オルディス氏への苦々しい感情を克服することができなかった。

いまも納得したわけではないが、マリアがそれを受け入れて長く、そしてオルディス領に懸命に尽くしてくれている彼を見ていたら、もう許してもいいのではないかと諦めたのだ、と。


「……マリア様が気の毒なのもあります。それに、伯爵が卑屈な男になってしまうのも嫌なのです」


ホールデン伯爵本人も、マリアに歪んだ男女関係を教え込んでしまったことを気にしている。

だからマリアがどれほど浮気をしようが、寛大なふりをしてそれを許して来た。いつか自分が彼女から見捨てられてしまうことも覚悟して……。


ノアがたびたび説教をするのも、マリアへの同情心からだけではなく、彼に時折嫌味を言って、その罪悪感を軽くしたかったから。ノアが責めれば、伯爵も、少しぐらいは自分を許してやる言い訳ができるのではないかと。


「分かっている。お前がマリアのことも、私のことも気にかけてくれているのだと。別に腹を立てているわけではない」


そう言って、伯爵は苦笑する。

ノアは伯爵のことを敬愛している。その伯爵が本気でマリアを愛しているのだから、それは応援したいと思っている。

ただ……。


以前キシリアで、マリアと二人で旅をしていた頃のことをノアは思い出した。

帰って来た故郷――もう戻って来ることはないと決めた彼女と、最後に旅をした時のこと。




泊まる宿を手配していたノアは、マサパンと共に酒場で待っているマリアを迎えに行った。


雰囲気の良い上等な酒場だ。そこなら危険な人間もマリアに近づけない――と思ったのだが、すでに複数の男がマリアを口説き始めていた。

マリアの膝に頭を置いているマサパンがじとーっと男たちを見やり、牽制してくれているから不埒な真似は出来ないようだが……ノアは溜息をつき、帯刀している剣を見せつけるようにマリアに近づいた。


「お待たせしました、マリア様。宿が取れたので行きますよ」


ノアの登場に、男たちは気まずそうに散って行く。ジロリと睨み、マリアの肩を抱いてノアは酒場を出た。


「マリア様は、あまりにも男に対して無防備だと思います」


マリアの柔らかい髪を洗いながら、ノアが言った。

浴室のある部屋が良いというのはマリアの希望だ。宿に着くなりマリアは風呂に入りたがり、召使いや侍女に代わってノアがマリアの髪を洗っていた。


湯につかるマリアは、浴槽に入り込んでじゃれついてくるマサパンを諌めていた。


「もう、マサパンったら。オフェリアだって、もっと大人しくするわよ」


マサパンが水を含んだ身体をぶるぶるっと振ってくるので、マリアは頭からぐっしょり濡れる羽目になった。


例えば、いまこの状況だってそうだ。

一糸まとわぬ姿で風呂に入り、無防備にノアに背を向けて髪を洗わせている。


もっとも、貴族として育ってきた彼女が、召使いに世話をさせて恥じらうことがないのも当然ではある。男であったとしても、召使いは人間として見なされないのが普通の貴族だ。

だがセレーナ家で、男の召使いにマリアを世話をさせるなんてことはなかったはず。


「男を引き寄せてしまうのは、私に原因があるのかしら」


水浸しになっているマサパンの毛皮を撫でながら、マリアが呟く。グッと、ノアは黙り込んだ。


責めるつもりはなかったのだが、彼女に責任があるような言い方になってしまって。それはノアの本意ではなかったのに。


「ふと疑問に感じただけよ。そんな深刻そうな顔……はしてないわね。そんな深刻そうな空気を背負わないで」


マリアは笑い、ノアに向かって水をかける。ノアはあえてそれを避けず、水が滴る髪を掻き上げた。


「やっぱり、そういう男を惹きつける何かを持っているのかしらね、私って」

「持っていたとしても、惹きつけられて実際に行動に移すかどうかは男側の問題です。マリア様に落ち度があるわけではありません――もう少し警戒していただけると、私個人としても助かりますが」


身体を拭くのまでノア任せは勘弁してほしい。




「何してるの、ノア様。なんで床で寝ようとするの。こんなに広いベッドなんだから、一緒でいいじゃない」


部屋にベッドは一つしかなかった。というか、そういう部屋しかなかった。


ベッドは、大人が五人横になっても余裕の広さがある。それなりに豪勢な部屋だけあって、長椅子もなかなか上等だ。そこに横になっても、下手なベッドよりずっと寝心地が良いだろう――と思っていたのに、マサパンに奪われてしまった。


仕方なく床で休もうとすれば、マリアに腕を引っ張られてしまう。すぐ床で寝たがる人ばかりなんだから、とこぼすマリアに、ノアは一応抗議はしておいた。


「……私も健全な男ですよ」

「知ってるわ。綺麗な顔をしているけれど、ノア様の体型はどこをどう見ても男じゃない」

「そういう意味ではなくてですね……本当に勘弁していただけませんか……」


項垂れるノアを上目遣いに見つめ、マリアは不思議そうに首を傾げている。


伯爵や男たちを非難する資格が、本当はノアにもないことは分かっていた。自分もマリアに強く惹きつけられ、その魅力に抗うことができないのだから。


マリアに引っ張られるままベッドに乗り上げ、彼女を抱き寄せる。マリアは、甘えるようにノアの胸にすり寄った。


「ヴィクトール様が睨んでくるから?不思議なことをするわよね。最初に私のベッドにノア様を招き入れたのは、他ならぬヴィクトール様なのに」

「私なら伯爵を裏切ることはないと分かっているからこその行動ですよ、あれは。ただ、マリア様のお気持ちが移ってしまうのではないかという不安から、自分の知らぬところで逢瀬を繰り返されたくないのだと」


男心は複雑ね、とマリアは苦笑し、ノアの首に腕を回してくる。

まだ水気を含んだマリアの柔らかい髪を撫で、彼女の細い腰を掴んでさらに抱き寄せた。




「恋人が原因で商会を失うという経験を、二度もなさるとは思いませんでした」

「私が愚かだと思うか?」


自嘲するように笑う伯爵に、いいえ、とノアは首を振る。


「実に伯爵らしいです。それに、さすがに前の時とは事情が違います。恋人への想いの深さも……」


マリアを初めて見た時、間違いなく伯爵の好みだとは思った。だがこここまで入れ込むとは思っていなかった。伯爵も――ノアも。


「マリアが、私との子を望んでくれてな。私が一代で築いた財産――私が死んだ後はどうにでもなればいいと思っていたが、血の繋がった子ができるとなった途端、全てを我が子に遺してやりたくなった。可能な限り、その財産を増やして」

「気の早いことで」


ノアは苦笑いする。

まだマリアのお腹にいるわけでもない子どものことで、そこまで考えていたなんて。


だが考えてみれば、伯爵にとって初めて、血を分けた家族を得ることになる。

どれほど財産を成しても手に入らないものの、最たるもの――恐らくは、とうに諦めていたもの。

それを最愛の女性から与えられる。喜びもひとしおだろう。


「それで……実はガーランド商会の名前が気に入らなくなった」

「ああ。確か、当時の恋人から譲り受けたものでしたね」


ガーランド商会は、商人だった夫を亡くしたガーランド未亡人から伯爵が譲り受けたものだ。彼女とは一時、恋人同士だった。彼女は亡き夫への想いが立ち切れず、尼僧となって別れてしまった。

その時、商会を伯爵に譲ってくれた。好きにすればいいと託してくれたものを、伯爵も大事にしてきたが……。


「マリア様は、ガーランド商会の名前の由来をご存知なので?」

「知っている。寝物語に話したことがあった。そんな思い入れがあるのなら、これからも大切にして欲しい、とマリアは笑って聞いてくれた」


――マリアらしい。

ノアはかすかに笑った。


「過去の恋人の名前がついた商会を、我が子に引き継がせるというのはどうかと思うのだ。母親以外の女だぞ」


伯爵でもそういうことを気にするのか、とノアは思った。

愛しいマリアのため、そんなマリアとの子のため。伯爵は、二人のための名前がついたものにしておきたかったらしい。


「存外、マリア様は気にしないかと」

「……それはそれで何やら腹が立つな。マリアが他の愛人の名がついたものに生涯を捧げていたら、私なら嫉妬で発狂するぞ」

「男心と言うのは実に複雑ですね……」


理解しきれない、とマリアから言われてしまうのも納得だ。


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