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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第五部02 敵の敵は味方にはならない
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-番外編- 伯爵と少年・前編


ガーランド商会オルディス支店改め、クラベル商会オルディス本店にて。

こぢんまりとしたホールデン伯爵の執務室で、ノアはいつものように従者に徹していた。


いつものように、涼しいポーカーフェイスで自分のそばに控えるノア――だがそんな彼が、何やら考え込んでいるのを伯爵は気付いていた。


「何か、私に言いたいことがあるのではないか」

「言いたいこと……山のようにありますが、伯爵が疑問に感じていらっしゃるのは最近の私の感傷についてでしょうね」

「ほう。おまえが感傷」


暗に、伯爵に説教したいことは山のようにあると言われてしまったが、そっちは無視することにしよう。

伯爵は相槌を打った。


「新しい商会を始めることになり……伯爵と出会ったばかりの頃を思い出しまして。私と出会ったとき、伯爵は当時の恋人にご自身の商会を騙し取られていましたね。挙句の果てに彼女に裏切られ、監獄送りに」


当時のことを話せば、伯爵は陽気に笑い飛ばす。

とても笑い話にできるような状況ではなかったはずなのだが、伯爵には愉快な思い出らしい。


「裏切りが悲しくなかったわけではないぞ。騙し取られるような自分の甘さに腹も立った。だが監獄送りに関しては、身に覚えしかなかったからな。彼女に裏切られて暴露されたせいで逮捕されたわけだが、原因を作ったのは他ならぬ自分だ」


それは確かに。

伯爵からの贅沢を享受していたくせに裏切った恋人は非難されるべきかもしれないが、別に罪をでっち上げたわけではない。


当時から、伯爵は商会を大きくするために様々な手を使っていた――褒められたものではない行為もあった。何も持たない孤児から大商人に。やはり、真っ当なやり方だけでは乗り越えられないこともあったのだ……。




ノアがその監獄に送られたのは、わずか七歳の時だった。

父は地方の田舎騎士で、政治犯として逮捕された。政治犯の身内――それだけで、ノアは罪人となった。


いまも、あの日のことは覚えている。

七歳の誕生日で、母親と共に父の帰りを待っていた。


だが家にやって来たのは、険しい顔をした役人たち。父親の逮捕を告げられ、母はどこかに連れて行かれ……自分も、裁判はおろか取り調べすらなく監獄に放り込まれた。


幼いノアは、抑圧された囚人たちの生贄となった。

いま思い返しても、よく生き延びられたものだと我ながら感心してしまう。

投獄されて以降の記憶はあまりない。たぶん、変わり映えのしない暴力の日々が続き、印象に残るようなことが逆になかったからだ。


最初の頃は両親を恋しがったり、我が身に絶望して泣き叫んだりするぐらいの気力があったはずだが、次第に何も変わらないことを思い知り、悲しみも絶望も感じなくなっていった。

ノアのポーカーフェイスは、あの頃に完成したのだろう。


父親の逮捕による投獄の次にある記憶は、ホールデン伯爵との出会いだ。

当時はまだ伯爵ではなく、ヴィクトールという名前しか持たないただの男だった。容姿も整い、実は貴族だと言われても不思議ではないほど上品な身のこなしのヴィクトールは、当然のように囚人たちの獲物となった――それらをすべて容赦なく返り討ちにし、一夜にして彼は監獄の王となってしまったが。


そんなヴィクトールがノアの存在に気付いたのは、ちょっとした偶然だった。いつものように他の囚人たちの生贄にされているところを、たまたま彼が目撃した。


「なぜその少年を目の敵にしている?君たちの攻撃には殺意すら感じるぞ。それほどの相手なのか」

「こいつは密告屋だ!また看守に罰を受けた――あいつらには見つからないはずだったのに!こいつが密告したに違いない!」


いつの間にやら、ノアは囚人たちから目の敵にされるようになっていた。

当時のノアは自分で考えるということを放棄してしまって、なぜ自分が暴力を受けるのか考えようともせず……囚人たちにとって、狙いやすい獲物から、目障りな裏切り者へと自分の立場が変化していたことにも気付かなかった。


「……それは奇妙な話だな」


囚人たちから密告屋の話を聞いたヴィクトールは、首を傾げた。


「君たちの話によると、その少年はずいぶん前から密告屋として警戒されていた。密告屋と疑っている人間に、知られたくない話を聞きつけられるような迂闊な真似をしているのか?違うだろう。その少年が知るはずもないことを、看守たちが知っている。ならば、他に密告屋がいることを疑うべきではないか」


ヴィクトールのその言葉で、ノアを取り巻く環境は劇的に変わった。


まず本物の密告屋が見つかり、ノアは彼の隠れ蓑にされていただけだったということが分かった。

それでいままでノアをなぶり者にして来た囚人たちは決まりの悪さから距離を置くようになり、ノアへの暴力は激減した。


ヴィクトールは監獄にてますます王のように囚人たちの関心を集めることとなった――が、本人はその事実にさして関心がないようだった。


「君はいくつだ。ずいぶんと若く見えるが」


伯爵に問われたノアは、六歳――と答えかけて首を振り、七歳、と改めて答える。

自分が七歳の誕生日を迎えていたことを忘れていた。あの日のことも、それより前のことも、だんだん思い出さないようになっていたから……。


「七歳か。私がホールデン伯爵夫人に引き取られたのもそれぐらいの年だった」


ヴィクトールが自分語りをするのは珍しいことだった。

囚人たちは彼に群がっているが、ヴィクトールが自ら声をかけることは少なく。自分のことを話すなんてそんなこと、ほとんどしていなかったはず。

なぜ自分に話してくれるのかは分からなかったが、ノアは彼の話に聞き入った。


ヴィクトールは孤児だった。

生まれてすぐ、教会の聖ヴィクトール像の下に捨てられていたそうだ。大して興味を引くような出来事もないまま孤児院代わりの教会で成長し、七歳ぐらいの時にとある伯爵夫人に気に入られた――七歳ぐらい、というのは、ヴィクトール本人も正確な自分の誕生日を知らないからだ。


ホールデン伯爵夫人は七十近い老女で、見目麗しい少年を収集する趣味があった。幼い頃は美しい金髪だったこともあり、ヴィクトールも彼女のお眼鏡にかなった。


そうしてヴィクトールは彼女の屋敷で暮らすようになったのだが、金と暇を持て余した老女は大変気前の良い人物だった。

美しい少年たちを着飾らせ、お気に入りの少年の願いは何でも叶えてくれる――屋敷には、ヴィクトールと同じように彼女に気に入られて引き取られた少年が何十人もいた。

彼らは老女から寵愛を得ようと競い、老女に様々なものをねだっていた。


ヴィクトールがねだったのは、教育だった。


「教養は何物にも勝る財産だということを、私はよく分かっているつもりだ。ここでも結局、ちょっとした教養があるというだけで私は崇められている。君に罪を着せた密告屋の件もそうだ。誰か一人でも、それはおかしいと考えていればすぐに分かったこと。考えるということを身に着けていない――伯爵夫人が気まぐれに私を拾わなければ、自分もああなっていたのかと思うとゾッとするな」


ヴィクトールが十三歳ぐらいになった頃、伯爵夫人が亡くなった。

死因は老衰。年を考えれば大往生だろう。


夫人が死に、一族の者たちは家の財産を食いつぶすだけの少年たちを全員追い出した。

伯爵夫人のお気に入りたちは身ひとつで追い出され、ヴィクトールも無論、屋敷を放り出された。


だがヴィクトールは嘆かなかった

もともと、夫人に拾われるまで何も持たない孤児だったのだ。身ひとつで出て行くのが当然だと最初から分かっていた。それに嘆く必要もない。夫人の下で身に着けた教養やマナーは、誰にも奪えない。


ヴィクトールは、今度は商人のもとへ飛び込んだ。

整った容姿に、高い教養、伯爵夫人監修のもと仕込まれたマナー。貴族並みの立ち振る舞いができるヴィクトールは客の人気を集め、あっという間に商人の頂点に立った。


そして――。


「恋人に裏切られ、自分で創設した商会を騙し取られてしまった。挙句の果てに、彼女は私が行ってきた悪事を暴露して私を監獄送りに。何とも間抜けな話だ」


ケロッとした顔でヴィクトールは言ったが、ノアは、自分がいま、信じられないものを見るような目で彼を見ているのを感じた。たぶん表情は動いていないが。


「実に予想通りの反応だ。この話をすれば、確実に呆れられると思った」

「……分かっていて、なぜそのような話を。しかも笑いながら」


理解できません、と言葉にしてしまいそうになって、そこまで言ってしまうのはさすがに失礼だと思い直す。曲がりなりにも、彼は自分にとって命の恩人なのに。


「君を助けたのは、私のほんの気まぐれだったということを言いたかったのだ。伯爵夫人が私を気まぐれに助け、私はこうして生き延びた。私は君を気まぐれに助けたが、君がそれに縛られる必要はない。自分の思うように生きなさい。私が伯爵夫人のために生きることなどこれっぽっちも考えていないようにな」


ヴィクトールなりの優しさだったのだろうが、その言葉はかえってノアを悩ませるだけだった。

生き方を示してくれるような、手本となる大人が身近にいないノアにとって、自分なりの生き方と言われてもどうしたらいいのか分からない。

結局ノアは、ヴィクトールにくっついて回ることしかできなかった。


もしかしたらあれは遠回しな拒絶で、ヴィクトールにとって自分は迷惑な存在でしかなかったらどうしよう――。

そんな不安を抱えながら彼のそばにいたが、監獄を出ることになっても、ヴィクトールは当たり前のようのノアがそばにいることを許していた。




脱獄計画は、シンプルかつ大胆なものだった。なぜ誰もその方法に気付かなかったのだろう、と思いつつも、気付いたところであまり現実的ではない方法だった。


囚人全員で強引に突破する。

監獄にいる囚人は二百人、それに対して看守は五十人――いつも全員が出勤しているわけではないので、実際は三十人程度。どう考えても囚人側のほうが有利だ。


全員で脱獄する。

それは誰も考え付かず、実行しようとも思わない提案だった。全員を説得するなんて無理だからだ。

それができたのはやはり、ヴィクトールだったから。

教養と知性があり、なんとなく囚人たちのリーダーとなってしまった彼の言葉には、不思議と説得力があった。彼の提案に当たり前のように誰もが従い、そして脱獄は実行された。


「なぜいままで誰も、このやり方を思いつかなかったんでしょう」


遠くに見える監獄を眺めながら、ノアはぽつりと呟いた。


脱獄の実行は夜明け。

前日からの夜勤の看守と、朝早くから出勤してきた看守が入れ替わる時間。


夜は看守たちも強く警戒する。だが夜勤も終わりにさし替わり、次の人間がやって来た――その時、看守たちの気が緩む。

入れ替わりにやって来た次の看守たちも、出勤直後はまだ浮ついている。

看守同士の連携も薄れ、囚人たちが行動を起こすには絶好のタイミングだった……。


「簡単な話だ。分かりやすいことほど、人間と言うものは見逃しやすくなる。特にああいう場に入るような連中は、他人と協力するなどという発想がない人間がほとんどだろう」


それきり、ヴィクトールは監獄への興味を失ったように背を向け、行くぞ、とノアに声をかける。


「彼らが団結できたのは、看守という共通の敵があったからだ。その敵がいなくなったいま、次の敵を作り出すはずだ。だいたいは、一番強くて厄介な相手か、一番弱くて狙いやすい相手――ここにちょうど、その条件に合う者が揃っている。さっさと離れないと、今度は私たちが危険だ」


そう言って歩き出すヴィクトールのあとを、ノアは追いかけた。

こうして後に伯爵と呼ばれることになる青年と出会い、少年はその後も彼と行動を共にする。

彼が新しい商会を作るのをそばで見届け、自分もまた彼のそばにいられるよう教育と鍛錬を受けた。


そしてガーランド商会がエンジェリクの数ある商会の中でもトップの立場につき、外国でもその名が広まるようになった頃――ホールデン伯爵となったヴィクトールは、マリアと出会った。


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